後半:落葉樹


「まだ死んでない」


 ぽつりと日比谷がよくわからない事を零すから、こっちだって「まだっていうか、予定があるからこうして絞首台なんかつくったんだろ」と責めたてるように問い詰めてしまった。日比谷は強請った両手を払いのけ、自分の襟元を正す。安物の大手ブランドメーカーのロゴが入ったカジュアルシャツは、俺が掴んだからと言って別段シワになるわけでもない。それでも気休め程度に「掴みかかって悪かった」と一言かけてしまった。


「俺は椛ケ丘の口からネガティブな言葉を聞いたことが無いんだ」

 ぽつりと語られた日比谷の言葉に耳を傾ける。ここで否定的に返すのは得策ではない、考えなくたってわかる。


「四六時中なにかに夢中で、なにか楽しい事見つけて、仕事だって文句いいながらちゃんとこなして、……そういうの、俺には全然ないからさ」

「日比谷だってちゃんと生活してるだろ」

「そういうんじゃねぇよ」


 日比谷は煙草を吸わないクセに、口元を左手で軽く覆う。まるで煙草を吸うような手つきで口元から手を放したり息を深く吐いた。


「俺が言ってるのは、お前が言うところの生きてるこの世界で楽しいすら見いだせなかった」

「日比谷、」

「羨ましいんだよ、言わせんな馬鹿」

「……悪かった、」


 どうせ、どうしようもない事で悩んでいるとばかり考えていた。過去に日比谷が屋上で身投げをしようとしていた時だって、惚れた女が美人局だったという酷くどうしようもない理由だったから、勝手に決めつけていた。あの時ほどの衝動ではないだろうと勝手に思ってはいたが、まさか俺自身が重荷で引き金になっていたなんて、考えてすらいなかった。


「いや、椛ケ丘は何も悪くない、悪いのは俺の方だ。ただ闇雲に生きている、それに疲れてしまった俺の方が」

「悪いってなにがだよ、無いモノに憧れる事なんてあたりまえだろ。俺だって、日比谷の現実的な考え方や生き方だってすごいと思ってる。だからこそ、そこに甘えてたりするんだよ」


 熱くなって、言った後にとんでもなく恥ずかしい事を言っているんじゃないかと気が付いた。


「お前、時々シラフのクセにとんでもない事、言うよな」

「この流れでそれ言う?」

「ハハ、たしかに」


 ここにきて日比谷はやっと笑った顔をした。

「とにかく、あれは撤去しろ。いいな」


 俺が見知った口角を釣り上げて、失笑にも見える笑み。「わかった、わかった」と冗談めかした声色は、呆れ笑いのようだった。長く付き合ってきたから分かる事だが、こいつは本心からの笑いだって今のように困ったような笑い方なんだ。


「携帯電話で簡単に死にたいと言う時代だ、わざわざあんな目に見える形で表現しなくたっていいだろう」


 毒づいてやったが「文字で並べる死にたいだって、十分目に見える形だよ。記号のカタチがどうであれ」と正論にも似た屁理屈で返してくる。そう言い返されるが面白く無くて「そうかもしれんが、そうだと認めたくないな」と腕を組んで鼻で笑ってやった。


「椛ケ丘のそういうとこ、頑固っていうんだぜ」

「ほっとけ」


 とは言ったものの、少しはなおさなゃいけない欠点だと知っている。腕を解いて、床に手のひらをつけてると日比谷は腰を上げた。


「はぁーあ、なんか吹っ切れたから酒飲む? ちょうど去年漬けた梅酒、いい感じに仕上がってるんだ」


 そう言って俺の方を見るから「塩梅だけに?」とギャグのツッコミ待ちをしているのかと思っていた。


「誰がうまい事言えと」


 また眉をハの字にして呆れたような笑いで返すから、俺だって笑ってやった。


「てっきりツッコミ待ちかと思ったわ」

「冗談、まぁ面白いからそういう事にしといていいよ」

「なんだそれ」


 日比谷がグラスと梅酒の瓶を取りに台所へ。背を向けてお盆にそれらを乗っけている姿を見ていると、彼の言うところの不安の意味がなんとなくわかった。考えてみれば哀愁漂うタイプに見えなくない。そんなどこか寂しいを抱えているのが現代人と言っても過言ではないだろう。みんなどこか孤独なのだ。大衆のなかで、それでも心はひとりきり。枯山水の水面が誰とも共鳴しないのは、流体力学から鑑みても液体ではないからだ。孤独という重力に吊り合うだけの温かさや繋がりがあれば流動層になるのだろうか。


「おまたせ」


 茶色い漆の盆に乗ったグラスは江戸切子だった。とろっとした黄金色のアルコールを注いで、たぷんっと揺れて波紋をつくる。寄越されたグラスを受け取って生返事で受け取ると「いま何か考え事、していたか?」と日比谷は敏く訊ねる。


「ん? いや、俺は文学者にも哲学者にもなれやしないなって」

「なんだそれ」


 そう言って、日比谷は俺より先にグラスに口を付けた。


「要するに俺は馬鹿野郎ってこと」


 ひらりと赤い手のひら状の葉が足元に舞った。紅葉葉楓なら才能に恵まれている、なんて。くだらない言葉だ。


「それは知ってるよ」

「失礼なやっちゃな」


 甘酸っぱい果実酒の味を舌で受け止め、日本庭園を肴に昼から酒を酌み交わす。なんて、どれだけ身分がいいんだろう、ただの一般人であるはずなのに。すこし贅沢ではなかろうか。


 キセルに新しい葉っぱを詰めて火を点す。ゆるやかに伸びる煙が鱗雲へと消えていった。これから来るであろう冬の季節、来年もこうして日比谷と酒を飲めるのならばなんでもいいや。――それは、俺の勝手な我がままだろうか。



(了)

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天霧朱雀 @44230000

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