第三節 女誑しに願いをこめて
「ジン、今日は甘い物が食べたい」
いつものように店に来るなり、シェヘラザードはニコリともせずそう言い放った。
そのままカウンターの上に身を乗り出すようにして突っ伏すと、何かを思い出したかのように怒りのの表情を浮かべ、なんとも近寄りがたい百面相を開始する。
――あぁ、本当に機嫌が悪いな。
笑わないのはいつものことだが、それはあくまでも女王としての仮面であり、むしろ内心を表に出さないためのものである。
何か嫌なことがあったらしいとは先に来ているミールザからも聞いていたが、ここまで弱弱しい姿を見せる事は珍しかった。
「ずいぶんと荒れているな」
ジンがカウンターに体を乗り出して目の高さを同じにすると、まるで待っていたかのようにシェヘラザードが噛み付いた。
「わかったようなことを抜かす。
余は慰めろとは言ってない。 甘いものをよこせと言っておるのだ!」
そのまま駄々をこねるようにジンの太い腕をベシベシと平手で殴りつけ、その怒りの矛先を彼に向ける。
だが、その狼藉をジンは黙って受け入れた。
そのままどれほど時間が流れただろうか?
やがてシェヘラザードは怒りを吸い取られたかのように拳を下ろし、彼の大きな頭を抱きしめる。
そして髭の濃いジンの頬に自らの白く滑らかな頬をすり寄せ、ため息をついた。
「ジン、貴様優しすぎだ。 余はもう心配無いから、甘いものをよこせ」
たとえ天を焦がすような怒りであっても、彼の懐の深さに包まれれば蝋燭の炎よりも儚い。
改めて自分の思いを寄せる男の器の広さを思い知りながら、シェヘラザードは体を起こす。
見上げれば、優しい黒い瞳がじっと彼女を見守っていた。
「わかった、取っておきの奴を出そう」
そう言いながら、ジンは黒衣の怪人に頼んでカウンターの奥に作らせた冷蔵庫なる不思議な箱を開き、こげ茶とミルク色の縞模様をした
そしてそれを小さく切り分けて、ジンはなにやら細かく飾り始める。
いったい何を作っているのだろう?
頬に残るジンの温もりを指で撫でながらその作業を見守っていると、やがて黒い粉をまぶされて緑の香草に彩られた物が差し出された。
「これは何だ?」
ずいぶんと馴染みのない見てくれの菓子である。
ジンがとっておきと言うからには美味いのだろうが……
「これはティラミス。 "私を引き上げて"……つまり、幸せな気分にさせてくれという意味の名前をもつ菓子だな。
俺の故郷でも非常に人気がある」
まるで焼け焦げたパン粉をまぶしたかのような色合いに戸惑いながらも、シェヘラザードはそっとスプーンをソレに突き刺す。
そして一片だけ口の中にいれてみると、まさに天上のごとき甘さとまろやかさが口の中にフワッと広がった。
「おぉ、なんと甘い!
じゃが、その中に微かな苦味も混じっておるな。
だが、それがまたこの甘さを引き立てて、えもいわれぬ喜びをかもし出す……ただ甘いだけでは本当の幸せはわからぬということか。 なるほど奥深い」
スプーンを握り締めて自分の世界に入り込む姿を苦笑を浮かべながら、ジンはカウンターの向こうに回りこんでシェヘラザードの隣に腰を下ろす。
厨房は任せたとばかりに双子に視線を送ると、二人は任せろとばかりにニヤッと笑った。
続いてミールザに、誰にも話を聞かれないようにしてくれと視線を送れば、こちらも軽く自分の胸を叩いて合図を返す。
そしてジンは大きく一つ頷くと、シェヘラザードを口説きにかかった。
「まぁ、そこまでの意味が本当にあるかはしらんが、気休めにでもなれば幸いだ。
で、何があった? 吐き出せば少しは楽になるかもしれんぞ?」
「ま、まぁ、お前ならよかろう。 実はな……」
おそらく誰かに聞いてほしかったのだろう。
ほんの少し抵抗するそぶりこそ見せたものの、シェヘラザードはホッとしたかのように、今日あった出来事をしゃべりだした。
***
「今日はな、珍しくアレーゾ夫人……あの災厄の母が外交の担当官たちと共に王宮にやってきたのだ。
なんでも、サルタン王国との仲介を進言しにきたらしい」
アレーゾ夫人といえば、先日使いをよこしてジンをこの国から追い払おうとした奴である。
いきなりのきな臭い話に、ジンは眉をピクリと動かした。
「このままではサルタン王国と戦争になり、多くの民が傷つくことになると、もっともらしいことを抜かしおったわ」
サルタン王国もまた因縁の相手、先月の終わりに鉛糖入りの飲み物をばら撒いた国である。
非は完全に向こうにあり、こちらから譲歩するいわれは何一つ無い。
「しかも余をさしおいて勝手に話しを進め、ほどなくしてサルタン王国の使者が友好のためにこの国に来ると言う」
シェヘラザードからすれば完全な越権行為であり、いっそアレーゾ夫人ごとそのまま首をはねて仕舞おうかと考えたほどであった。
「しかも、あつかましいことにサルタン王国側から頼みがあるというのだ。
余の母親であるハトゥ姫が、父シャルカーン王子を口説き落としたと言う【3つの門の話】を聞かせててほしいとな」
「なんだ、別に難しい事じゃないだろう? 誰も知らない話だったとしても、自分の母親に聞けばすむ話じゃないか」
なんでもないことのように言うジンだが、横にいたミールザが手足をバタバタさせながら何か慌てている。
その唇の動きを見ると、どうやら馬鹿と罵られているようだ。
すると、シェヘラザードはティラミスを食べていたスプーンをギュッと握り締めてこう告げたのだ。
「あの女は……おそらく我を拒むだろう」
そして低く笑いながら恨みがましい言葉を口にしはじめる。
「なんでも、我が恐ろしいそうだ。
おそらくもう娘とも思ってはおるまい。
なにせ、我は政のためなら平気で人を殺すことの出来る鬼のような女王だからな。
あの女は、戴冠式に立ち会う事すら拒みおった」
そう呟きながら震える手を、ジンの大きな手がそっと包んだ。
触れる指から伝わるぬくもりと優しさに、シェヘラザードの苛立ちが夏の日差しを浴びた雪のように解けてゆく。
「じゃあ、別の者が聴きに行けばいい。 何だったら俺が聞いてこようか」
「無理だ。 あの臆病な女は、誰とも会うつもりはないようだぞ?」
まるで心の底を読んだかのように欲しかった言葉を紡ぐ男に、彼女は思わず否定的な言葉を口にてしまう。
素直に誰かを頼れない自分の器の狭さを感じ、心の中で自分自身を叱りつけた。
だが、ジンはその不安を力強い笑みで弾き飛ばす。
「まぁ、そこは努力でなんとかするさ」
まったくもって、意味も無く人を安心させる才能には事欠かない男である。
シェヘラザードは何かを諦めるような笑みを浮かべ、ティラミスの最後の一口を口に入れた。
「ずいぶんと癪に障る話だが、お前の女誑しの腕に期待しよう」
「……女誑し」
不本意な呼び名に、さしものジンも僅かにひるむ。
なお、この男に色男と言う自覚はまったく無い。
「ただし、あの女を恋人にする事は許さんからな」
その表情をどうとったのか、シェヘラザードは拗ねたかのようにジンの手を軽く抓り、嫉妬する心を隠そうともしないのであった。
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