第二節 災厄よりの使者

 空が藍色に染まり、一般的な晩餐の時間が終わる頃。

 今日も女王のための晩餐が終わってから、ジンの店は開店の準備を始める。


 とは言うものの、最近は時間になるとジンと連れ立って女王自身がこの店にやってくるのが常だった。

 もはや周囲は諦め気味であり、日が傾いてジンが迎えに来る時間になるとソワソワしだす女王に、侍従や女官はあきれ混じりのため息をつく毎日である。


「いたたたた! もうちょっと優しくしてくれ!」

「まったく……我に断りも無く傷を作るやつがあるか!」

 ジンのわき腹に湿布を張りながら、シェヘラザードは憤懣やるかたなしとばかりにその硬く引き締まった腹筋を平手でペチリと叩く。


「むぅ、しっかり口の中も切れてしまっている。

 いや、あいつ強かったな」

 木綿でできたシャツを身に着けながら、ジンはカンマカーンに殴られた左頬をさする。

 卓越した体裁きで相手の攻撃を緩和したもののすべてのダメージを打ち消せるはずも無い。

 格闘家として完全に相手を翻弄したジンだが、そのジンが拳だけの殴りあいでは勝てないと明言したとおり、敗者であるカンマカーンもまた十分に化け物であった。


「信じられませんね。 本当にあの化け物と喧嘩して勝ったんですか?」

 疑わしげにそう呟くのは、女王の護衛でついてきたシャヒーンである。

 彼にとってのカンマカーンとは仲間を何人も討ち取られた悪夢の英雄であり、とてもサシの勝負で勝てる相手ではないという認識であった。


「いや、あの拳を腹と顔もらって沈まない旦那のほうがおかしいんですって」

 そう呟くベフザードの左目の周りは、見事に青く変色している。

 殴られたダメージが深く残っており、今日は仕事を休むようジンから言い渡されていた。


「ほんと無茶するよ、兄貴。 お陰で今日の仕込みは俺一人だよ」

 弟のベフナームはそんな不平を口にしながらも、笑顔を浮かべながらスープのアクを取る。

 口では不満そうだが、心の中では兄の勇気を誇らしく思っているに違いない。


 そんな時だった。

 準備中の札が下がっているにもかかわらず、店のドアが無遠慮に開く。


 入ってきたのは黒ずくめの男だった。

 とは言っても、この店の名物客である黒衣の怪人ことアイディンではない。

 まったく馴染みのない男である。


獅子の精霊アサド・ジンと名乗る男は誰だ」

 店に入るなり、その男は壮年を思わせる掠れた声でたずねてきた。


「悪いが、まだ準備中なんですよ。 後で来てくれませんかね?」

 慣れない接客用の言葉遣いで対応に出るベフザードだが、その黒尽くめはニコリともせずに彼を押しのけて店に一歩踏み込む。


「飯を食いに来たわけではない。 獅子の精霊アサド・ジンと名乗る男に話がある。

 早くその男を連れてまいれ」

 その横柄な態度に、ベフザードとベフナームがムッとした表情を浮かべ、シャヒーンは腰の剣に手を置いた。

 だが、ジンはシャヒーンの手をそっと押さえて手出ししないように視線で命令すると、ゆっくりとした足取りで前に出る。


「なんだ、俺に何か用か?」

「たいしたことではない」

 ジンが前に出ると、その男は手にしていた袋を床に放り投げる。

 なにやら金属で出来た重い物が入っているらしく、それはジャラリと鈍い音を立てた。


「庶民がつつましく一生を暮らすには十分な金額が入っている。

 それをもってこの国から出て行くがいい」

 おそらくは貴族の小姓か何かであろうが、なんとも一方的な言い分である。

 不愉快な態度に、ジン以外の面子がそろって鼻と眉間に皺を寄せた。


「おいおい、ずいぶんと丁寧なお願いだな。 誰の依頼だ?」

「お前が知る必要は無い」

 まるで取り付く島の無い態度に、シェヘラザードが冷たい目でシャヒーンを振り返り、剣術の名手であるこの近習は凍りついた顔でスッと前に出る。

 だが、その歩みはなぜかニコニコと笑顔を浮かべているジンによって遮られた。


「ベフナーム。 鍋を開けろ。 そろそろスープの火を一度止めて確認するんだ」

「え? あ、はい」

 ジンに命令されるまま、ベフナームはラーメン用に煮込んでいた鶏がらスープの鍋を開く。

 すると、なぜかジンは黒尽くめを放置して羊肉とネギと野菜を中華鍋で炒めはじめた。


「おい、獅子の精霊アサド・ジン。 返事をまだ聞いてないぞ」

 無視されていると感じたのか、苛立たしげな口調で黒尽くめが問いただす。

 だが、ジンは黙って鶏がらスープを杓子にとり、野菜と肉の味が染み出た中華鍋の中に放り込む。


 その瞬間、ジュアァァァァァッ……と、小気味良い音と共に、食欲をそそる香りがあたりに広がり、シェヘラザードやシャヒーンまでもがゴクリと唾を飲み込んだ。

 そして黒づくめの腹からも、ググゥと低い音が響き渡る。


「ふむ、やはり腹減ってるようだな」

「……お前には関係のない話だ」

 慌てて顔をそむける黒尽くめに、ジンはニヤッと人の悪い笑みを浮かべた。

 そこで周りの人間は、ようやくジンが何をしようとしているのかを理解する。

 ――こいつ、敵の胃袋を掴んで口説き落とすつもりだ!


「それは無いだろう? ここは飯を食う店だ。

 客を腹ペコで帰しては沽券にかかわると思わないか?

 おい、麺を茹でろ! 初めていらしたお客様に一杯サービスしようじゃないか」

「よし来た、師匠!」

「大至急作ります!」

 ジンの掛け声に、弟子の二人がニヤリと笑って動き出す。

 彼らの後ろに、獲物を狙う肉食獣の幻がちらついた。


「えぇい、いらぬといっているだろうが!」

 その様子に飲み込まれてなるものかと、黒尽くめは腕を振り回してその動きを止めようとする。

 だが、もう遅い。

 黒尽くめの目をまっすぐ見据え、ジンは呪いのような言葉を口にする。


「いいや、違うね。 あんたの目は、このスープの香りに魅せられた奴の目だ。

 このまま帰ったら、あんたはこのラーメンという料理が気になって夜中にうなされるようになる」

 その言葉に、黒尽くめはしばしの間凍りついたように動きを止めた。


 それはまさに呪い。

 ジンの言葉を否定することを許さない……とばかりに鳥の骨から生まれたスープの香りが野菜の瑞々しい匂いと共に食欲の魔法で空気を埋め尽くし、黒尽くめの男を容赦なく捉える。

 いや、黒尽くめの男だけではない。

 その場にいたジン以外の誰もがその呪縛に囚われ、誰もしゃべることが出来なかった。

 ジュウジュウと鍋の立てる音が呪文のように響き渡り、それは優しくも妖しく耳から入って、人の口と胃袋を犯して屈服させる。


「ジュルッ……そんなはずがあるか! また来るから、それまでに返事を決めておけ!!」

 口にあふれたよだれを飲み込むと、これ以上ここにいるのは危険だといわんばかりに怯えた声で捨て台詞を残し、黒尽くめは店からいそいそと逃げていった。


 だが、逃げられるはずが無いだろう?

 去って行く男の姿の背中を眺めながら、その場にいた全員が哀れな男の末路を脳裏に浮かべる。

 その呪いの威力に皆が震え上がる中で、ジンだけが一人ニコニコと笑みを浮かべていた。


「えらく失礼な男だったな。 それでその金貨の入った袋、どうする?」

 男の姿が見えなくなった後、緊張を解くようにため息をつきながらシェヘラザードがジンにたずねる。

 だが、ジンは肩をすくめてからニヤッと人の悪い笑みを浮かべた。


「べつに? もらってしまっても構わないし、勝手においていった金だから向こうの言い分を聞く必要も無いな。

 それに、数日もすればまたくるだろうし、そのときに返せばいい」

「来るか? ……いや、来るだろうな」

「逃がさんよ。 絶対にな」


 そして、その言葉は早くも翌日に実現してしまう。


「……店主、貴様の勝ちだ。 そのラーメンと言う食べ物を私に食わせてくれ」

 どこかケッソリとしたような声と共に入ってきたのは、紛れも無く昨日の黒尽くめであった。


「もちろんだとも。 ここは食い物を売る店だからな」

 ニッコリと笑うジンに、黒尽くめの男はギリッと奥歯を噛みしめる。

 昨夜はさぞ苦しかったことだろう。


「それに、ラーメンを愛する奴は俺の仲間だ」

「何が仲間だ。 いいか、私はこのラーメンとか言う料理がどうしても気になったから来ただけで、お前の仲間になどなった覚えは無い!」

 いかに口汚く罵ろうとも、その言葉に行動がまったくかみ合っていない。

 厨房の奥でこの会話に耳を傾けていた双子の兄弟は、噴出しそうになるのを必死でこらえながらスープに火を入れていた。

 カウンターの奥の席では、シェヘラザードと護衛役のシャヒーンが同じように体を震わせている。


 そしてそわそわと落ち着かない黒尽くめをカウンターの席に案内すると、ジンは厨房にいる双子の兄弟に目配せをした。


「師匠、特製仔羊肉ラーメンが上がりました!」

 あらかじめ打ち合わせしたとおり、すぐにベフナームが出来上がったラーメンをもってくる。


「まぁ、百聞は一に如かずだ。 まずは食え」

「ふん。 なにを偉そうに……」

 ジンがフォークとスプーンを差し出すと、黒尽くめはそれをもぎ取るように奪い取り、まずはスプーンでスープを一口。

 その体が、ビクンと一瞬震える。


「こ、これは!?」

「美味いだろう?」

 だが、ジンの言葉に黒尽くめは答えることが出来なかった。

 スプーンで熱いスープをすすり、フォークでよく汁の絡んだ細い麺を口元に運ぶ。

 そして瞬く間にラーメンを食べ終わると、男はテーブルに肘をついて頭を抱えた。


「おぉ、神よ……なぜこの世にこんな恐ろしい食べ物が存在するのですか」

 その歓喜と苦渋に満ちた言葉に、ジンは囁くように言葉を吹き込む。


「それは神がこの世にあらゆる喜びを創り給うたからだよ」

 天使の啓示とも悪魔の甘言ともつかぬその台詞に、男はただ震えて祈りを捧げることしか出来なかった。

 そしてしばらくすると、震えながらこんな台詞を呟いたのである。


「おぉぉ……神よ。 恐ろしい企みに手を染めた私をお許しください」

「企みだと?」

 すると、黒尽くめの男は力なくジンのほうに向き直り、悔しさをにじませながらボソボソとしゃべり始めた。


「いいか、これは忠告だ。 私の渡した金を持って逃げろ。

 私がここに来たのは、とある高貴な方がお前を邪魔だと思ったからだ。

 ただし、サルタン国に逃げるのはやめておけ。

 サルタン王国と私の主が手を結んでいるからな」

「お前の主とは誰だ」

「……言えぬ。 それを知れば、お前も不幸になるぞ」

 だが、そこで動いた者がいる。


「お前がいえなければ我が言ってやろう。

 その主とやらは、アレーゾ夫人だな」

「……女王陛下!?」

 その発言者が誰かを確認したとたん、黒尽くめの男は目を見開いてのけぞった。

 よりにもよって、一番まずい相手に聞かれてしまったのだから無理も無いだろう。


「命が惜しくば、我に会った事は黙っておけ。

 しかしあの災厄の母め……サルタン王国などと手を組んで何を考えている?」

「お許しください……私は詳しいことまでは知らないのです!」

 必死で言い逃れをしようとする男に、シェヘラザードはフッと冷淡な笑みを向ける。


「最初から期待はしておらぬ。

 去ね。 今日の事は忘れるがいい」

 その瞬間、男は神に助けを求める言葉を小声で呟きながら逃げ出していった。


「なぁ、女王……」

「アレーゾ夫人とは、お前を殴ったカンマカーンの祖母だ。

 ジン、奴のいうとおり、少し荒れるかもしれぬ。

 我が傍にいるというのなら、覚悟しておくがいい」

 だが、ジンは暗い目をして呟く女王の手に、自らの手を無言でそっと重ねる。

 そのまま彼は何も言わずに彼女の隣に立ち続けるのだった。

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