第一節 星空と夜の食堂

 シャフリアール王国の夜は早い。

 日本のように24時間開いているような店はなく、日が沈むと店を畳んでしまうのが常識だ。


 夕食は家族でとるのが当たり前であり、夜に出歩いて買い食いを楽しむような習慣などこの国にはなかった。

 そもそも、外食自体があまり好まれないお国柄であり、外で売っている物はわりと簡素な物が多い。


 したがって、夜も更けると涼しく冷えた風がただ闇の中に踊るだけ。

 そこは昼間とはまったく違う世界があった。


 特に屋根に囲まれたバザールともなるとその傾向は強くなり、それどころかバザールの中にはそもそも食事をする店がほとんど見られない。

 先日のバザールにあった屋台村はむしろかなりの例外である。


 聞くところによると、その近くには手仕事が多くて料理をする暇のない家の女たちが多く、また一人暮らしの男たちが買いに来るので、いつの間にか屋台を開く料理人が集まるようになったのだとか。

 道理で屋台でも持ち帰りの客が多かったわけだ。


 そんなわけで、ほかのバザールで手に入るのは本当に簡単な食事でしかない。

 見つかるとすれば、羊の肉を焼いたごく簡単なものか、ピタパンのようなポケット状のパンに具を詰め込んだサンドイッチようなものだけである。

 王都の中にあるいくつものバザールを巡った後、ジンはその風習や文化の違いにため息をついたものだ。

 

 ただ、夜中に飲んで騒ぐ場所が欲しい輩というのはどこの国でもいるようで、バザールを離れると一つ二つとそんな店も目にするようになる。

 中には聖典において禁じられた酒を売っているような店もあり、そのような店は逆に夜にしか開かれないのが暗黙の了解であった。


 さて、ここで困ったことがある。

 なにも夜遊びをしたいのは、庶民に限ったことではないということだ。

 やんごとなき方々というのは、とかく体面というものを気にするもので、彼らが夜遊びをするにはそれ相応の場所が必要になる。


 たとえばそう。 そこには何も無いはずの、バザールの屋根の上に作られた秘密の楽園。


 およそ庶民の知る由もないが、この国の首都の中央バザールの屋根の上には、実はこっそりともう一つのバザールがあった。

 夜も更けて人のいなくなったバザールを抜け、定められた店の奥から階段を登り、分厚いドアを開けたならば……。


 頭上には満天の星。

 目の前にはランプが明々と照らす豪奢な店構え。

 そこは世俗のすべてを忘れる事を求められ、いかなる者も争いを禁じられた秘密の園。

 夜毎に闇の中を蠢く客を星になぞらえて、その店の名を「天球図コスモグラフィア」と言う。



 そんな天球図コズモグラフィアの一角で、カウンターの向こうで憮然としたまま呟く一人の男がいた。


「騙された……」

 それはおそろしく体の大きな男だった。

 まるで巌のように鍛え上げられた体に、鷹のように鋭い眼差し。

 顎をぐるりと囲むように伸ばした髭とたてがみのように伸ばした髪のせいで、まるで獅子が二本の足で歩き回っているかのように見える。


 この男、名を獅子の精霊アサド・ジン……もとい、麻戸あさど じんと言った。


「なんだこれは? 俺は夜も営業している飯屋の親父さんが、一人ではつらいから手伝いがほしいと聞いてここに来たのだが?

 その親父さんの姿が見ないのはなぜか、それからなぜ俺が店主と呼ばれるのか説明してもらおう。

 ……聞いているのか、サイード?」

 男は恨みがましい口調で語りながら、カウンターの向こうに座る老人を睨みつける。


 だが、その辺の山賊ならそのまま心臓が止まりそうな視線を受けてなお、老人は目の前に出された料理を嬉しそうに頬張るだけだった。


 ……というより、盛大に文句を言いながらも嬉々として料理を作り、いきなり店として営業しているのだから男の言葉にも説得力がまるでない。

 まるで鬼のような体つきにもかかわらず、エプロン姿が妙にあうのも、彼の迫力を半減させる大きな原因になっていた。


「ふぅ、おいしかった。 いつもながらいい腕ですねぇ」

「おぉ、それはよかった……とでも言うと思ったか? 他に何か、俺に言うことがあるだろう」

「まぁまぁ、良いではないですがジン殿。

 実は、貴方の腕前を女王に独り占めをさせるにはあまりにも惜しいと思いましてね」

「どうせ他にも色々と裏で画策しているのだろう、サイード」

「さて何のことですかな?

 お嫌ならばこの話、断ってしまえばよいではないですか」

 サイードと呼ばれた老人は、まさかそんな事は言わないでしょうといわんばかりに、悪戯っぽい視線を男に返す。

 そしてお好きにどうぞといわれたジンはと言うと、頭を抱えて獅子のように唸り声を上げるだけだった。


「ふふふ、こうでもしないと貴方の料理はなかなか口に出来ませんからねぇ。

 貴方のその素直で優しい性格、政治に携わる者としては心配ですが個人的には大好きですよ?」

 サイードはその人の良い老人の顔を崩さないまま、生暖かい視線をジンに向ける。


 実のところ、"暴虐なる善意"と言う二つ名や、その恐ろしい見た目と知性に反して、このジンいう男をめるのはそう難しくない。

 なぜなら、知り合いが揃ってため息をつくほどに人が良いからだ。

 ……もっとも、騙した後に本人以外からの苛烈な報復を覚悟できる度胸があればの話だが。


「……シェヘラザードとの約束のほうが優先だ。

 あいつの晩飯を作って、なお余裕があるときにだけここを開ける」

「ご随意に。 ここはもう貴方の城ですからお好きになさるがいい」


 かくしてシャフリアール王国の王都テヘルの夜に、新たな名所が誕生することになったのである。

 だが、この事によってジンは恐るべき人物と邂逅するのだが、彼らはまだその運命を知らない。

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