第二節 怪人の注文
さて、ジンが店を開くようになってから数日。
その店に、奇妙な客が訪れたのである。
「なにか私を驚かせるような料理を作ってください」
年寄りとも若者ともつかぬかすれた声が響いたのは、もうそろそろ店仕舞いを考えはじめる時間のことだった。
「驚かせる……ねぇ。 俺としては、お前さんの格好のほうがよほどびっくりなんだが」
「それは手厳しいですな」
ジンの言葉通り、その客はおそろしく奇妙な格好をしていた。
真っ黒な長い布で全身を覆い、手には同じく黒いシルクの手袋を嵌め、肌の見える場所などひとつもない。
なによりも目を引くのは、その顔。
彼の顔は、笑う子供を抽象化したような丸い銀のマスクで隠されていた。
まさに黒衣の怪人。
身分を隠した客が多いこの店でも、妖しさと言う意味ではほかの追随を許さないだろう。
「まぁ、いい。 せっかくの注文だ。 少し時間がかかるけど構わないか?」
「えぇ、えぇ、時には待つことも楽しいものです。 想像する事に喜びをおぼえるのは、知性のある者の特権ですからね。
期待しながら待たせていただきますとも」
妙にテンションの高い声を響かせながら、その客はカウンターの席に腰を下ろした。
「おいおい、そんな事を言って俺を追い込まないでくれ。
まぁ、期待にこたえられるようにがんばらせてはもらうがな。
あぁ、けっこう繊細な料理になるから、しばらくは話しかけたりして邪魔しないでくれよ?」
そう告げると、ジンは蛇のように細長い種類の茄子を取り出して薄く切ると、それに塩を振りかけてアクを抜き、油でさっと素揚げしてやわらかくした上で網の上にのせて軽く焼き目をつける。
同時にタマネギを茶色になるまでよく炒め、子羊の薄切り肉とスパイスを絡め、水を注いでしっかりと煮込んだ。
そしてしんなりとした茄子を鍋の中に敷き詰めると、米やトマトの薄切りや羊肉を何層にもわけて丁寧に仕込む。
あとは鍋に火をかけて待つだけ。
「見慣れない料理ですね。 その料理の名を伺っても良いですか?」
ジンの作業が一段落したことを見て取ると、仮面の男は嬉々としてそんな事を尋ねてきた。
まぁ、それはそうだろうとジンは苦笑いをしてその問いに答える。
「あぁ、パレスチナという遠い国の料理で、マクルーバと言う」
ジンがその名を告げると、仮面の男は小さく首をかしげた。
「叡智にかけては誰にも引けをとらない自信があったのですが、その名は初めて聞きますね」
「まぁ、俺と神のほかは誰もしらぬ土地だろうよ」
まさか異世界にある国とも言えず、ジンは苦笑しながら言葉を濁す。
だが、その態度はこの怪しい客にはあまりお気に召さなかったらしい。
「それは、貴方の妄想の中の国と言うことですか?」
仮面の男の不満げな言葉に、苦笑いを浮かべながらジンは少し悲しげな声で「本当にあるんだ」と呟いた。
「貴方の思い込みではないのですか?」
「……なるほど、確かに今となってはその実在を証明する術も無いからな。
けれど、それはお前さんも同じことだ。
もし、今まで生きてきた記憶、その全てが妄想だったとしたら?
それが妄想では無いと、どうやって証明する?」
すると、仮面の怪人は押し黙り、顎に指を当てて考え込んだ。
「それは……確かに難しく、そして恐ろしいですね。
私も、わほたしの生きてきたすべての記憶が絶対に妄想では無いとは言えません。
人は誰しも、今自分が生きている世界が実在せず、長い夜の中で見ている夢に過ぎないのではないかと不安や願望を覚えるものです」
そんな感想を呟きながら、仮面の男はクックッと楽しげに笑った。
「こんな言葉を知っているか?
――君が僕の存在を認めてくれるなら、僕も君の存在を認めるとしよう」
ジンかそう呟くと、仮面の男は興味を持ったように体を前に乗り出す。
「ほう、それはどこの賢人の言葉ですか? 非常に深い言葉ですね」
「俺が故郷で読んだ、不思議の国に迷い込んで少女の話に出てくる台詞さ。
誰しも自分のあり方に迷う時はある。
そんな時は、まず自ら誰かの存在を認めるんだ。
そうすれば、誰かに存在を認めてもらえるようになり、そして自分と言うものがようやく少しだけわかるようになる」
「面白そうな物語ですね。 もし機会があるならば、私も読んでみたいものです」
仮面の男がそんな言葉をクチにすると、懐かしい記憶を胸に抱きしめながら、ジンは遠くを見るような目をして微笑んだ。
「まぁ、そいつはちょっと難しいと思うけどな……お、そろそろ出来上がったようだぞ」
「出来たとおっしゃいますが、貴方、鍋の中に茄子や肉を入れて米を茹でただけじゃないですか。
見た事も聞いた事もない料理ではありますが、その程度では驚きませんよ」
だが、ジンはその辛辣な言葉にも笑顔を返し、その炊き上がった釜に手をかけた。
そしてその上から大皿をかぶせる。
「まぁ見ていてくれ。 最後にこうするんだよ……
その台詞と共に、ジンは鍋ごと皿をぐるんとひっくり返す。
そして、皿を仮面の男の前に置き、かぶさっていた鍋を引き抜いた。
すると、美しい縞模様のナスに包まれた芸術品のような料理が姿を現したではないか。
「ほぅ、これは美しいですね!」
「まぁまぁ、もうちょっと待て。
この上にちょちょいと飾りつけをするのだ」
その言葉と同時に、ジンはトマトの皮で作った薔薇や松の実、切りそろえたサラダを、出来上がったマクルーバの周囲に飾り立てた。
まるで不思議の国からやってきたかのような、美しくも愛らしい料理に、少し離れた席で見守っていた客たちからも感嘆のため息が漏れる。
「すばらしい! あなた、口だけではないようですね!
ですが、お味のほうはどうでしょう?
この私をここまでワクワクさせたのです。 期待を裏切る事はゆるしませんよ?」
嬉々とした声で煽るような台詞を吐きながら、仮面の男は匙を手に取った。
「まぁ、そこは個人の好みもあるから勘弁してくれ。
ある程度の自信はあるが、俺も絶対にとはいえないな。
料理とは、そんなものだよ……さぁ、そんな事よりも冷めないうちにどうぞ」
ジンは謙遜するような、だが自信ありげな笑みを浮かべ、出来上がった料理を切り分ける。
そしていったいどうやって食べているのかは謎だが、料理を匙ですくって仮面の口の中に放り込むと、その怪しい客の体がビクンと震えた。
「ふむ……んまぁぁぁぁぁぁい!
羊肉の味と野菜の旨みが米の中にしっかりと凝縮されて、まさにご馳走と呼ぶべき価値があります!
えぇ、驚きましたとも! あなた、天才ですよォ!
ここまで美味なる料理、私の故郷であるアトランティスでも食べた事がありませんねェ!!」
「そうだろう、そうだろう、でもあまり褒めすぎると照れるからかんべんな!」
ジンが少し顔を赤らめながら両手を挙げて、降参とばかりに視線をそらす。
この厳つい顔の男がそれをやると、なんともいえない愛嬌があった。
だが、嬉々として料理を頬張る客を見る目はどこか嬉しそうである。
その時だった。
店のドアがカランカランと甲高いベルの音と共に開き、目元以外をすべて覆い隠したブルカ姿の女性が入ってきたのである。
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