第四節 ただその笑顔のために

 この街の夜の訪れははやく、そして暗い。

 街灯が無い訳では無いが、飲酒の習慣が宗教によって禁じられており、夜に出歩く習慣があまりないからだ。


 ゆえに、太陽が赤くなり始まればどこの市場も終わり。

 午前中しか開かれない市場も珍しくはなかった。


 ――偉大なる神よ。 貴方のほかに神はいないことを私は告げる。

 茜色の空の下、寺院モスクからそんな日没の礼拝マグリブを促す呼びかけアザーンが聞こえてくる前に、家か寺院に戻らなければならないからだ。


 ゆえに、黄昏が近づけば、屋台の客も店主もみんな急ぎ足で家路につく。

 ジンとシェヘラザードもまた王宮に戻り、その後はジンの居住区である緑の宮カスル・アフダルのテラスで今日の出来事を振り返っていた。


「ジンよ、相手が見える仕事というものは楽しいことだな。

 見たか? 我が与えた糧を手にした者の、あの笑顔を」

 星と月の明の下で、シェヘラザードがやや疲れた……けど、何かをやりきった顔で微笑んでいる。

 玉座にいるときの凛とした姿も美しいが、ジンはこんな無邪気に微笑んでいる彼女の姿のほうが好きだった。


「そうだな。 料理人として働くことで何が一番楽しいかといわれたら、美味しかったと笑顔で言われるのが一番だろう」

 それが嬉しくないなら、たぶんその人は料理人をやめたほうがいい。

 きっと、誰にとっても不幸なことになるから。


「よきかな! 誰かに喜びを与える事は神の御心にかなうことだ」

 そう語るシェヘラザードはいつに無くご機嫌である。

 これは今のうちに言ったほうがいいだろう……ジンは意を決して楽しげにしている女王に語りかけた。


「あー じゃあ、一つ許してほしいことがあるんだが……」

「なんじゃ、申してみよ」

 気分を害されたとばかりに眉をひそめるシェヘラザードに、ジンは神妙な顔で告げる。


「大変申し訳ないのだが、初日から約束の料理が思いつかなかった。

 許してもらえるだろうか?」

 料理の仕込とは、思いのほか時間がかかるのだ。

 それも、女王に出すような料理となれば、仕込みに数日かかるものも珍しくない。


 そんなものであるからして、今からメニュー考えて作ったら、出来上がりは日付をまたいでしまうだろう。

 それでは約束を守れなくなってしまう。

 だが、シェヘラザードはあきれたように肩をすくめると、屋台からもって帰ってきたカレーの残りを指差した。


「何を言っておる? そこにお前の作った料理がちゃんとあるではないか」

 そこにあるのは、パーシーエッグカリーの余りを持ち帰ってきた鍋であった。

 おそらくシェヘラザードが後で味見をしてみたいと言い出すと思って取り分けておいた代物ではあるが……。


「これは、庶民の食事だぞ? 王宮育ちのお前が晩餐として食すようなものではないと思うが」

 その瞬間、ジンの腹にボスッと小さな音を立てて拳が叩き込まれた。


「誰もお前に毎日王宮のような贅をこらした食事を出せとは言っておらぬ。

 それに、王宮の料理が食いたければ厨房長に命令すればそれでよいではないか。

 そんなものをお前に求めてどうするというのだ?

 お前が美味いと思い、私に食わせてみたいと思うものを出してくれるなら、それでいい。

 禁忌に触れぬ限り食べ物に貴賤は無いのだ」


 拳を腰にあて、シェヘラザードは胸を張って説教をたれる。

 そんな姿に、ジンは苦笑しか出来なかった。

 ――そんな可愛い顔されたら、襲いたくなってしまうじゃないか。

 ジンも立派な成人男性……人並みには性欲があるのだ。

 だが、相手に結婚を迫られている以上、手を出したら負けである。


「はいはい。 では女王よ、今宵の食事をご賞味あれ」

「うむ、大儀である」

 フライドボテトを軽く揚げなおし、暖めたパーシーエッグカリーに盛り付けた一皿を差し出すと、シェヘラザードはわざと偉そうに、そして口の端に微笑みを浮かべながらスプーンを構えた。


「おぉ、なんともやさしい味がするな。

 肉も魚もなしにこれだけふくらみのある味が出せるとは驚きじゃ」

 静かな夜に、付け合せのフライドポテトを食べる音がポリポリと響く。


 あぁ、気に入ってもらえてよかった。

 ジンは心の中で胸をなでおろす。

 パーシーエッグカリーとは、ペルシャを離れてインドに移り住んだペルシャ人が現地の味を取り入れながら作り上げた味である。

 ジンの脳に刻まれた数多くのレシピの中から、この料理を選んだのは、そのエピソードにあった。

 この料理は、異界からやってきた自分が、この地で新しい味を作ってゆこうという決意なのだ。


「ご満足していただけましたかな、わが女王陛下?」

「うむ、今日の一皿も満足である」

 その笑顔を見て、ジンは今日一日のすべてが報われた気がした。

 あぁ、今日という日は、この時を迎えるためにあったのだろう。

 実に、実に満足だ。

 これこそが自分にとって無上の喜び、比べるものの無い報酬である。


 そんな事を考えながら、ジンがシェヘラザードの満足げな顔を見ていると、どこからともなく誰かの歌う声が響き始めた。

 ――すべては君のその笑顔のために。


 やめてくれ、そんな歌は。 自分の中の欲が抑えきれなくなるではないか。

 月明かりに照らされたシェヘラザードの横顔と、流れてくる甘い恋歌に、彼はただ苦笑するのだった。

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