第三節 精霊の鍋

 ジンに成敗されて意識を失っていたならず者だが、数秒ほどで目を覚ました。

 そして、折れたと思っていた腕がなんともないことに気づき、誰もが不思議な顔をする。


 折れたと思ったのは、ジンがこっそり足元に落ちていた棒を同時に踏み折ったからであり、実は関節を外されただけだったことを彼は知らない。

 さらに脅し終わったジンがこっそり関節を元に戻したことについても、気づく者は誰もいなかった。

 彼らはただ、精霊ジンの業の恐ろしさを思い出して震え上がるだけである。


 そしてジンの脅しがよほどこたえたのか、ならず者たちは意識を取り戻すなり一目散に逃げていった。

 とりあえずあれだけ脅しておけば報復する事は無いだろう。


「まったく……余計な手間をかけさせやがって」

 心配が一つ解決した事を確認したジンは、ホッと胸をなでおろしてから被害者に目を向けた。


「その傷、大丈夫か?」

「あ、あははは……たいした事は……痛っ」

 ならず者に殴られた屋台の店主は、腕を動かそうとして思わず悲鳴を上げる。


「その分だと、しばらく商売は無理そうだな」

「はぁ、こんな事を言っては失礼かもしれませんが、精霊ジン様のお力で何とかならないものでしょうか?」

 ため息をつくジンに、怪我をした男は上目遣いで申し訳なさそうにそんな事を願い出た。

 だが、精霊ジンではないジンに、そんな事が出来るはずも無い。


「馬鹿なことを言うな。 俺はただの人だ。 さっきのはほれ……こっそり棒を踏み折って、その音で腕が折れたと思わせただけだ」

「あ、あはは、そうですよね……」

 そのやり取りに、周囲の野次馬がホッと安堵のため息をつく。

 やはりジンのことを本物の精霊ジンだと思い込んでいた人間がいたらしい。


「まぁ、それでも出来る事はある。 お前の腕が動かせるようになるまでの間、俺が屋台を手伝ってやろう」

「え? いや、そこまでしていただくわけには……」

「遠慮するな。 どうせ、夜に飯を作る以外に予定は入っておらんしな」

 ……というより、せっかくだからここでこの世界の料理について情報を集めたいのだ。


「とりあえず今日のところは俺が故郷の料理を振舞ってやろう。

 騒がせてしまったから、その侘びだと思ってくれればいい」

 人の心を掴むなら、先に胃袋を掴んだほうがやりやすい。

 ジンは有無を言わせず屋台の後片付けを開始すると、この男の屋台で作っていた少し辛めのスープと似た料理が記憶に無かったかと思案する。


 ――そうだ、アレにしよう。

 ジンはようやく何を作るかを決めると、神から与えられた厨房からなじみのある食材を無意識に取り出しはじめた。

 ニンニク、ショウガ、ニンジン、タマネギ、何も無いところから次々と出てくる見たことも無い食材に、周囲の目が再び精霊ジンへの疑いを帯びる。


「あ、あの……その見たことも無い野菜、どこから出してくるんですか?」

「秘密だ」

 群衆の中から勇気を持って告げられた質問に、ジンは取り付く島も無い口調でそう返した。

 その背中に一筋の冷や汗が流れたことを知る者は、おそらく神か天使ぐらいだろう。


 しかし、その質問で何かのタガが外れてしまったのか、群衆の目に好奇心がちらつきはじめた。

 ――まずい。 この空気、どうにかしないと。


 そして、ついにこんな連中が出てきてしまったのである。

「か、神の御名において、お前の名を名乗れ!!」

「いや、神の名を出さなくても、自分の名前ぐらい名乗るぞ。 俺は麻戸あさど じんだ」

 いきなり群集から飛び出してきた失礼な男に、ジンは面倒くさそうな口調で名前を告げる。


獅子の精霊アサド・ジン!? やっぱり精霊ジンではないか! ふはははは、獅子の精霊アサド・ジンよ、神の名において我に従うがい……」

 その瞬間、ジンの平手が男の言葉を物理的に黙らせた。


 なお、名とは精霊ジンを従えるための触媒であり、神の名においてその名を問いただせば精霊ジンはその名を偽ることが出来ないものである。

 ……当然ながら精霊ジンではないジンに名を問いただしたところで、従えることなど出来るはずも無いのだが。


「だから、何度も俺は人間だといっているだろうが!

 そうでなくとも、お前ごときに誰が従うか、この阿呆が。 飯が食いたかったらおとなしく待ってろ」

「……ひゃい」

「まったく、このやりとり、いい加減疲れるな」

 そんな事を呟きながら、ジンの手は鍋で大量の卵をゆで始めた。

 そして別の鍋を弱火にかけると、今度は月桂樹の葉を乾煎からいりする。


「あ、なんかいい匂い」

 漂い始めた神秘的でエスニックな香りに、作業を見つめる群集がざわめき始めた。

 そんな呟きを尻目に、ジンはさらにクミンとマスタードの種を取り出して鍋に入れる。

 パチパチと種が弾ける小気味良い音が響き始めると、なんとも食欲をそそる香りが漂いはじめた。


 もしもここに日本人がいたならば、おそらくカレーの香りを思い出したことだろう。

 カレーの香りの主な源こそ、クミンというスパイスだからだ。

 そして誰も嗅いだ事もないその香りに、大人も子供も目をキラキラと輝かせはじめる。


 続けてカラメル化してキツネ色になるまでタマネギを丁寧に炒めると、甘さを帯び始めた香りにつられてさらに多くの人々がこの屋台の回りに集まり始める。

 そこに真っ赤なトマトが入ると、その鮮やかな色合いに群集からおぉっと小さなどよめきが湧き上がった。

 そして塩とキノコを加えてトマトを煮込んでいる間に、ジンは茹で上がった卵を冷水につける。

 卵が冷える間の時間も無駄にはせず、ジンはあいた鍋で細切りにしたジャガイモを油で揚げ始めた。

 ここまで来ると見物していた客の口からツッとよだれの筋がいくつもこぼれ始める。

 実に良い傾向だ。


 観客の反応にジンはニヤッと唇の端で笑って見せると、煮込んだ鍋に生クリームを入れて器にさっと盛り付ける。

 そして半分に切ったゆで卵とフライドポテト、そして千切ったコリアンダーの葉をはらりと上から振りかけた。


「さぁ、俺の故郷の料理の一つ……ペルシャ風卵カレーパーシーエッグカリーだ。

 誰から食べたい?」

 おりしも時刻は黄昏を少し過ぎた頃。 少し早めだが夕食をとりはじめる時間である。

 ジンが料理の入った器を差し出したその瞬間、群集が精霊ジンへの恐れも忘れて屋台に殺到した。

 

「忙しそうだな。 手伝おうか?」

 屋台の前の長蛇の列にジンがどうしようかと考えていると、不意に後ろから女性の声が響いた。


「あぁ、助かる……って、お前!?」

 だが、その声の主を確認した瞬間、ジンの顔が凍りつく。


「では、何をすればいい?」

 ジンの目の前でにこやかに微笑んでいるのは、事もあろうか髪を布で隠したヘジャブ姿の女王シェヘラザードその人であった。


「おまっ……」

 一瞬叫びそうになったものの、ジンは賢明にも口を閉じ、視線での意思疎通を試みる。


 お前、こんなことしていいと思ってるのかよ。

 何をしてもいいに決まっているだろう? 我はこの国で一番えらいのだ。


 まさにぐうの音も出ない開き直り。

 ジンにとっては久しく覚えが無いほどの惨敗であった。

 これは諦めるしかない。


「……盛り付けなら任せられるか。

 ゆで卵を剥いたら半分に切って、そのフライドボテトって奴をこのぐらい、あとはそのコリアンダーって野菜を千切って美しく盛り付けてくれ」

「うむ、まかされた」


 その瞬間……民衆は熱狂した。

 ただでさえ蠱惑的なまでの香りをもつおいしそうな料理に、目元だけではあるが街ではとんと見ることの出来ないレベルの美女が加わったのである。


 結局、その日は日没が近づく頃になるまで客足が途絶える事はなかった。

 さらに待ち時間の空腹を紛らわせるためか、周辺の軽食も売れに売れたのである。


 やがて、彼らはこの日の事を振り返り、子供たちに語った。

 ――だから子供たちよ、困っている人がいたら惜しみなく与えなさい。

 そうすれば、それは何倍もの幸せになってお前に返ってくるだろう。


 これぞ後に『精霊の振る舞い鍋』という童話としてバザールで長く愛される物語であった。

 平穏あれサラーム

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