第十七話 親心子知らず。でも、子は親を見ている。


 そのサブタイトルを胸に刻み、二〇二号室の玄関のドアを静かに開けた川合かわいとき

 ……そんな息子の背中を見て、母・宮子みやこは何を思うのか?



 この子は、施設を転々としていたそうです。

 この子は、一度も、その理由を話そうとはしませんでした。


 ……それもそのはずです。私は、この子に対して、母親として、何一つしてあげられませんでした。それどころか、私は、この子に対して、母親として、裏切りました。



 明日から、どうしようと思ったのですね。夫は蒸発して、気がつけば、まだ生まれて間もない我が子を抱いて、死に場所を求めていました。



 ……でも、まだこの世に未練があるのでしょうか? 死ねませんでした。


 繰り返されるこの子の泣き声、

 吐く息は白く、見えるものは、

 恐怖でてつく線路レール、そして、

 薄っすらと霧に包まれた駅のホーム。誰もいない私とこの子だけの世界。


 それでも光は見えず……もう一滴も、

 涙も出ないほど疲れ切っていたのでしょう。……永遠とわの、別れを覚悟しました。


 駅の、コインロッカーに、この子を預けたのです。



 ……年月としつきは、またたち、

 冷酷なほどに記憶が薄らぐのを期待していたのですが、そんなことはなくて、

 あの時の、あの子の顔が、泣き声が、

『地獄』と、表現したらいいのでしょうか? 寸暇なく四六時中繰り返されるのです。


 無意識のうちに、捜していました。

 目は二つ、追いかけていたのです。


 ボサボサ頭の大きな目に、懐かしさとは紙一重の恐怖をも感じる充分すぎた面影。青いオーバーオールの桃色Tシャツ姿で、背も低いから、一見女の子のように見えましたけれども、間違いなくが息子。どことなくかげりのある男の子に成長していました。



 思えば、永遠のお別れを覆し、奇跡は起きていました。

 これが宿命ならば、何て優しい……宿命なのでしょう。



 この子の背負う翳りをも、いつの日か消せる可能性まで与えてくれたのです。


 十五年という間に、

 この子に付けられた名前は、一文字で鴇。


 誰が付けてくれたのか知らないけれども、私は、この子に名前さえも付けてあげていなかった。それでも、この子は、私のことを「母さん」と呼んでくれた……。


 その大きな目の、潤んだ瞳が、

 また私に、あふれんばかりの涙をよみがえらせてくれたのです。


 少しでも溝が埋まるようにと、

 温かな抱擁の中、

『私の息子でいてくれて』……それ以上に、

『生まれてきてくれて、本当にありがとう』と、心が震えました。



 そんな息子と暮らし始めて、もう三十年。


 早速ですが、ここが玄関から一番近い部屋でした。



 ふすまが開け放たれていました。のぞんだら、今は緑色のカーテンで遮光されておりますが、その向こうにはガラス戸。開けるとベランダに出ることができ、先程さきほどのスマイルな大空を、また拝むことができるのです。でも鴇は、同じ部屋なのに見ているもの、考えていることが私とは異なり、何故なにゆえかしら靴下を見ていました。


 それは大きなもので、素材は毛糸。

 色は赤。枕元に一足だけ。……すやすやと、眠っている可愛かわいい私の孫。


 名前は、未来みらい

 鴇のためにと、私が名付けました。


 すると、鴇は、

 靴下に入れてくれました。未来の十五回目の誕生日プレゼントを。季節は異なるけれども、今日こんにちまでできなかった『Xマス』の演出を、見事に成就させたのです。


 息子と孫のコラボレーション。


 ……感涙の思いここにありで、

 その同じ視野の中、おまけに同じ部屋の中。未来が眠る同じ布団ふとんの中で……私から見れば、この子と同じように、まだ孫で通用しそうな女の子が、すやすや眠っていました。


 ……この展開で、

 この場面だけを見たとすれば、

 きっと、私たちは大騒ぎ。この女の子の首根っこをつかみながら家に乗り込み、その親に猛抗議。月曜日には学校で、半端なきクレームが炸裂さくれつしていることでしょう。



 ……でも、

 もう少しだけ、掘り下げてみてあげて下さい。


 そうしてあげたならば、

 それこそ『軽はずみ』という言葉で、片付けてあげられることでしょう。


 何故なぜなら、この女の子が、

 どうして未来のお姉さんではないの?

 もう一つ言えば、どうして鴇の娘ではないの? と思えたからなのです。



 昨日さくじつの午後のことでした。この女の子が工場を、笑顔で鴇を訪ねて自らの考え、これより実行する企画の内容を、丁寧ていねいにお話して下さいました。


 鴇は、この女の子のことを「瑞希みずき先生」と呼んでいて、

 学校の先生。未来の担任の先生でした。……恥ずかしながら、昨日初めて知りました。



 瑞希先生は、父親を小さい頃に亡くしたと聞きました。……あくまで子供の立場からだと思うのですが、未来と一緒に父を待つ、お姉さんを演じたのだと思います。父親を知らない鴇の思いも組んであげたのではないでしょうか。だからこそ、もう少しだけ、この子たちの寝顔を、行く末も含め、温かく見守ってあげたくなったのです。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る