第15話 訪れない静寂
東京の家賃がこれほど高いなんて知らなかった。
俺の地元では五万あれば3LDKに住むことが出来るのに、ここじゃあワンルームマンションでさえ探すのに一苦労だ。大学の合格発表が後期日程で遅かったせいもある。既に手頃な優良物件は押さえられていた。
「とにかく安い物件を見せて下さい。多少あれな物件でも住めたら大丈夫です」
泣きつかれた不動産屋は苦笑しつつも、いくつか物件をピックアップして俺の前に並べてくれた。その中で飛びぬけて安い物件がある。間取りを見れば六畳はあった。
「ここ、いいっすね」
「はい。人気があってすぐに埋まっちゃうんですけどね、偶然先程空きが出たんですよ。ただし、キッチン、シャワーとトイレは共用ですけど。昭和に建てられたものですし、建物自体は古いですが、中は綺麗にリフォームされています」
「へえ。じゃあもうここにしようかな」
「いや、流石に一度現地見に行きましょう。そんなに急がなくても大丈夫ですよ、僕たちが見ている間は誰も契約出来ないようにしとくんで」
急いでいるのではない、面倒だったのだ。前日は朝から晩まで物件を回って疲弊していた。どの家も高額な家賃を払ってまで住む価値はないと思われたので決めかねていたのだ。
仕方なく不動産屋の車に乗せられて二十分ほど走り、大通りから離れた静かな住宅街にある二階建木造の古い家の前に止まった。周囲の家は真新しく、余計にその家が浮いて見える。
「普通の家ですね、ぼろいけど。アパートかと思ってました」
「今時に言うとルームシェアみたいな感じですね。それぞれ入居者の部屋に鍵が付いているんですよ。一階に二部屋、二階に二部屋で合計四部屋あります。共用で居間も使えますよ」
そう言いながら、不動産屋は玄関の鍵を開けて中に入り、威勢良く声を上げた。
「お邪魔しまーす。先程連絡いたしましたカキツバタ不動産です。入居希望者を案内させていただきまーす」
「はーい。勝手にどーぞ」
二階から低い男の声が返ってきた。陽射しの入らない薄暗い玄関で靴を脱ぎ、家に上がった。
中は昼間なのに異様に暗い。不動産屋は廊下の電気を付けた。傷一つない白色に近いフローリングの廊下が浮かび上がる。
「右手側にあるのが居間、そして左手側の手前の部屋は現在入居者様がいらっしゃいまして、奥の部屋が今回ご案内する部屋となります。お隣も男子学生さんですよ」
「はぁ」
居間に目をやり、暗い原因が分かった。窓がない。
「じゃあ、お部屋入りましょうか」
不動産屋に通された部屋にも窓がなかった。い草の香りがする真新しい畳を敷き詰めたその部屋からは、箱のような印象を受ける。
「この家、窓がないんですか?」
「はい、防犯にも優れておりますし、洗濯物は南側に勝手口がありますので、そこから出て干していただく事になります。洗濯機もございますし、他に冷蔵庫、エアコンなど大型家電は備え付けの物を使っていただければ」
非常に魅力的だ。
「なんでこんなに安いんです?かなり好条件だと思うんですけど」
「家主が若い人達を応援したいと言うことでして。きちんとした身元の方を不動産屋で選んで紹介しているんですよ」
「へぇ」
世の中には奇特な人もいるもんだと思った。
「あ、ちょっと待って下さい」
不動産屋は頭を下げながら、携帯を取り出して喋り出した。
「はい、はい、そうですか」
そこで携帯の口を塞いで、俺に困った顔を見せる。
「ここ見たいってお客さん窓口にいらっしゃるみたいです。どうしましょ。今ならこっちが優先されますけど」
俺は焦った。ここを逃すとまた振り出しに戻ってしまう。日にちは迫っているし、何度も東京に来ることが出来る筈もない。
「ここに決めます」
不動産屋はにっこりと微笑んだ。
「ありがとうございます。どちらにしろ親御さんの同意書が必要なんですけどね。とりあえず戻りましょう」
そして、俺は春から正式にその家に住むことに決まった。家電も殆ど揃っているので、スーツケース一つで夜行バスに乗って上京する事が可能となり、金が更に浮いたと喜んでいた。
しかし、住み始めたその晩から違和感はやって来た。
夜中にふと目を覚ますと、布団の周囲で畳の上を擦り歩く音が聞こえる。寝惚けた頭で母親だろうかと思った。しかし、次第に覚醒するにつれてそんな筈はないと確信し、鼓動が早くなる。泥棒か?でも、忍び込める窓がこの部屋にはない。部屋の鍵を掛け忘れたのだろうか。他の住人が忍び込んでいる?
どうしよう、どうしよう。
冷や汗をかきながらも目を開く事も出来ずに、どうか早く部屋から出て行ってくださいと祈った。
暫くして足音は止み、代わりに廊下が軋む音が聞こえ始めた。足音が遠くなっていく。
薄目で周囲を確認して起き上がる。肩で呼吸し、なんとか落ち着こうと試みて電気を付けた。部屋を荒らした形跡はない。そもそも、この部屋には何も金目のものなんて置いていない。
入口を確認すると、意外な事に鍵が閉まっていた。
わざわざ鍵を閉めて外に出たのか?いや、ドアを開ける音なんて聞こえなかった。
この家は古い。いくら壁紙や床を新しくしたって、ドアを開けるときはキーっと音が鳴るし、廊下だって軋む。そう、廊下が軋む音は聞こえた。では、中にいた人間と廊下にいた奴は別人なのか?
その後は朝まで眠る事が出来なかった。目が冴えてしまったせいもあるが、物音が止む事はなかったので気になって眠る事が出来なかった。
ようやく朝になり、隣の部屋のドアが開く音を聞いて恐る恐る部屋から出た。
「おはようございます」
ひどい寝癖の眼鏡を掛けた隣の男は、俺をみるなり体が跳ねるほどに驚いた。
「おはようございます、びっくりしたー。隣の部屋、誰もいないと思ってたから。新しい入居者ですか?」
「あ、はい、そうです。高山って言います」
軽く頭を下げてお互い簡単に自己紹介すると、俺は昨晩の物音について尋ねた。すると、池田という俺より三つ年上のその男は、渋い顔をして声を潜めた。
「あれ、毎日なんだよ。俺は部屋にまで入られた事は無いけどさ。廊下の音と、酷い時は壁を何度も叩く音が聞こえる。何ていうのかな、イメージなんだけど頭を打ち付けているような。気持ち悪くて確認も出来なくてさ。上の住人、薬かなんかやってるか、夢遊病だと思うんだよね。前に聞いた時は二人とも知らないなんて言ってたけどさ」
「上の人らってそんなやばそうな感じなんですか?」
「いや、ふつー。別にチャラくもないし。大家さんに苦情言ってみたんだけど効果なくてさ。ここ、めっちゃ安いじゃん?あんましつこくクレーム言って追い出されたらたまんないし。あと一年で卒業だから、それまで辛抱かなって。悪い、ちょっと時間やばいわ、また今度話そう」
そう言って池田はトイレに行ってしまった。
自分も時間が迫っていたので、慌てて準備をして大学へと向かった。
その晩も昨晩と同様だった。畳を擦って歩く音で目が覚めた。スッ、スッと俺の布団の周囲を円を描く様に回っている。何が目的なんだ。
俺は起きていると気付かれないように丁寧に呼吸する事を心掛けた。しかし、心臓の音が相手にも聞こえてしまいそうな程に早鐘を打っている。
そして、突然壁を打ち付ける大きな音がした。部屋の中だ。何度も何度も打ち付けている。驚いてビクッと体が動いてしまったけれど、尚も狸寝入りを続けた。震える程に恐怖が込み上げて来る。
頭だ。壁に手を付いて繰り返し頭を打ち付けているに違いない。これはダメなやつだ、逃げるか、どうしよう、なんで俺の部屋で――。
考えているうちに音は止んだが、次の瞬間、全身が粟立った。頬に規則的に撫でる風がある。息だ。
もう祈る事しか出来ない。早くこの時間が過ぎるように、朝が来るように。
そこへ、玄関の引き戸を開く音と、大きなくしゃみが聞こえた。
吐息が頬から遠ざかるのに合わせて俺は飛び起き、素早く部屋の入口の鍵を開けて「助けてくれ!」と、二階の階段の手前にいた男に駆け寄った。
「え、なに」
男は後退り、俺が震えながら指を差す方を見た。
「誰か俺の部屋にいるんです、助けて下さい、頭ガンガン壁に打ち付けて、なんか息が、頬に」
わけも分からない事を夜中に喚き散らしているうちに、二階から「どうしたー?」という声が聞こえてきた。
「またあの部屋だよ、誰かいるってさ」
そう言うと、酒の匂いがするその男は面倒臭そうに俺の手を振りほどいた。
「俺もう寝るし。部屋にいたくないなら漫喫でもカラオケでもどっか行ってくれ」
「待ってくれ、前にもこんな事があったのか」
俺は二階へ上がろうとする男に縋りついた。
「しょっちゅうだよ、その部屋は人の入れ替わりが激しいんだ」
「でも、あんたらも音は聞いてるだろ、変な音。なんだよ、なんで平気なんだよ」
「無視したら終わりだろ。お前もこんなに激安で住めるのに文句言うなや」
男は今度こそ俺を突き放すと、ふらふらと二階へ行ってしまった。俺は呆然と彼を目で追ってその場に立ち尽くしたが、部屋からまた物音が聞こえてきたので、たまらず外へ飛び出した。
朝になってから近くに住んでいる大家さんに物音の正体を尋ねに行った。すると、俺よりもずっと背が低い腰の丸まった老婆は、溜息を付きながら面倒くさそうに「嫌なら出て行っとくれ」と、しわがれた声で言い放った。
怒りが湧き上がって来たが、追い出されてはたまらないと仕方なくそこは大人しく帰り、代わりにその怒りを不動産屋にぶつけた。
『いや、でも僕はきちんと内覧にもご案内しましたし、物音についてはこちらも情報を得ていたなかったですし』
「そんなわけないだろ、何が人気の部屋だ!他の住人がしょっちゅう人が入れ替わるって言ってたぞ!」
『高山さーん、いいですか、よく聞いてください、僕も地方出身者ですけどね、ここだけの話、普通は安いアパートなんてろくな人間が住んじゃいない。事件なんてしょっちゅう起こる。お隣で殺人事件が起こったって何ら不思議じゃないですよ、今時。それに比べてあなたの家、皆さんまともだ。家賃の滞納すらない。あそこは身元のしっかりしている人しか案内していない、これ本当ですよ。家電まで揃って身一つで入居出来る激安のとっておき物件です。変な物音がするくらいなんです?何か危害を加えられたのですか?他にこんな良い物件ありませんよ、かなり見たあなたならお分かりになりますよね?』
不動産屋の言葉は極論過ぎる。でも確かに、今の家の水準で探すとなると、家賃は三倍から四倍はする。金がない。
『どうします?僕は別にいいですけども、これから探すとなるとかなり困難ですよー。それに、引っ越し代に電化製品、かなり出費が出ると思いますけど。大抵は敷金も入れなきゃいけませんし、場所によったら礼金もありますし』
俺は頭を抱えた。屈辱ながら、そのまま引き下がるしかなかった。様子を見よう。他の住人が言うように、無視してやり過ごせばいい。
それからも毎夜、奇怪な物音は起こり続けた。
一年経ち予告通り隣の住人の入れ替わりが起こり、二年経ち上の階の人間の入れ替わりも起こった。
三年、四年と経過し、とうとう卒業に合わせて家を引き払う前日になった。
恐ろしいもので四年間ですっかり物音に慣れてしまい、安眠出来るまでに俺は成長した。そして、調子に乗ってしまった。最後の晩に音の正体を見てやろうと思ったのだ。
その晩は畳を擦り歩く音がした後、壁に頭を激しく打ち付ける音が続いた。寝返りを打つ振りをして頭をその音の方角へと向けると、慎重に薄く目を開いた。
暗闇の中に浮かび上がったのは、頭を壁に打ち続ける人影だった。裸の男だ。とても幽霊なんかに見えない。もしかして、本当に毎晩人が入り込んでいたのだろうか。
「おい!」
声を上げたが、男は全く反応しない。警察につき出してやろうと思い肩を掴もううとした手は、するっと抜けて壁にぶち当たった。俺は悲鳴を上げながら、腰を抜かして畳に尻もちをついた。
男は首をぎこちなく傾けながら移動して今度は格子戸に頭をぶつけ始める。延々と動作が止まる様子はない。俺は必死に部屋の隅に這いずって移動した。
格子戸なんてこの部屋にはなかった。それに、布団がなくなっている。変だ、ここはどこだ。夢の中なのか?
そこへ廊下が軋む音と共に、明かりが近付いて来る。緊張して構えていると、燭台を掲げた着物の美しい女性が格子越しに中を覗きこんだ。
「あんた、助けてくれ、ここはどこだ!」
女性は裸の男を憂いを帯びた瞳で見つめると、俺の声には見向きもせずに立ち去って行った。
そして、突然体に強い揺れを感じて目が覚めた。
「意識が戻ったぞ、すぐにご家族を!」
看護師さん達が忙しなく動き回っている。頭がうまく回らない。やがて、母親が化粧が崩れて泣きはらした顔で俺の目前に迫った。
「よかった、よかった!どうなるかと」
母親はそのまま視界から消え去り、嗚咽する声だけが聞こえた。
「何があったんですか……」
喉が渇いて張り付いて痛い。いや、痛みはそれだけではない。顔面に鈍痛がする。特に左目の奥が痛い。手で触れてみると包帯の感触がした。
「きみね、今朝ここへ額と目を負傷した状態で運ばれたんだよ。通報したのは同じ家の住人で、どうも彼の話だと、一晩中壁に自分で頭を打ち続けていたみたいだ」
どうしてそんな事をしたんだろうか。俺は夢を見ていただけなのに。そこで母親が再び俺の視界に入り、左目の包帯に優しく触れながら唇を噛みしめた。
「もう目が見えないなんて――」
体の痛みなんかより、その言葉は鋭利な刃物のように俺の心を突き刺した。
後々詳しく聞くと、俺の眼球は完全に潰れてしまったらしい。
その後は普通に生活出来るまでに回復したが、不眠症で薬がなければ眠れなくなってしまった。
あの夢がなんだったかなんて考えたくもない。俺は未だに後悔している。ケチってあの家に住み続けなければ良かったと。
(完)
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