第7話 尊い命

 俺の家はそれはもう田舎にある。


 職場からの通勤には山道を通らなければならないのだが、奈良でもないのに鹿はほぼ毎日見るし、狸やキジだって頻繁に見掛ける。


 夏の夜には大量の蛾をはじめとする虫が自販機にへばりついて、前に彼女を天体観測に連れて来たときにはドン引きされ、外に出たくないとか言われた。


 そんなある夏の日、珍しく残業が続き、疲れ切って車を家に飛ばしていた。

 早く帰って眠りたい一心で、いつもより少しだけ速度が上がり、慣れた道なので機会のようにハンドルを操作していた。

 すると、カーブを曲がったところで、明らかに何かを轢いた感触があった。


 厚みのある柔らかい物体......


 たぶん、元から死んでたんだろ。

 俺の頭の片隅では、タヌキかウサギが俺の車の前に飛び込んでくる姿が過ぎり、轢き殺したのなら確認して、そうでなくても役所に連絡しなくてはならないな、とスピードを緩めないままどこか他人事のように思っていた。


 家に帰り母が作ってくれた夕食を食べると、そのまま風呂にも入らずに泥のように眠った。


 翌朝目が覚める居間に行くと、母が深刻そうな顔でどこかに電話している。

 父が俺の顔を見るなり、「お前、昨晩気付いたか?」と、言って来た。

「なに?」

「外だ、来てみろ」

 父と俺は寝間着のまま玄関の外に出た。

 外に出てすぐ、赤黒く変色した汚れが目に入った。

「なにこれ、血?」

 その幅十センチ程のところどころ掠れた血液らしきものは、玄関前だけでなく門扉から続いている。

「きもい、なんなんこれ......」

「わからん、誰かが動物の死体かなんかを引き摺って歩いたんだろ。悪趣味な悪戯だ。母さんが警察に連絡して、すぐに来てくれるように伝えて貰ってるから。母さんだけじゃ危険だし、警察が来るまでワシも家にいる」

 父は怒ったように言い残して家の中に入った。

 動物の死体という言葉に俺は反応せざるを得なかった。

 昨晩、轢いた何か。

 玄関前の汚れが特に濃く、よくよく見れば足跡のようにも見える。

 人間の赤ちゃんのような足跡が、試し押しの印鑑のように無数に重なっているーー


 粟立つ体をさすり、俺は身支度をしようと頭を切り替えて家の中に入った。

 洗い立てのワイシャツに袖を通し、お気に入りの光沢のあるコバルトブルーのネクタイを締めて気持ちを立て直した。


 やがて出発しようというときにやって来た警察官と入れ替わり、玄関の裏手においてある車を取りに向かった。

 内心少し怯えていたのだが、特に車に異常は見つからない。

 胸をなで下ろしエンジンをかけると、俺は大好きなLemonをかけて歌いながら出発した。 


 暫くすると、昨晩何かを轢いたカーブまで差し掛かる。

 俺はあまり意識しないように、歌う声のボリュームを上げた。その甲斐あってか、何事もなく無事に通り過ぎる事が出来た。


 安堵の息を吐いてふとバックミラーを見ると、俺の座席の真後ろに、頭が半分ひしゃげた、目が空洞の赤ちゃんが張り付いていた。

 血みどろの小さな手は俺に向かって伸びようとしている。


 そのまま俺は事故を起こし、意識を失った。

 

 目覚めたのは病院だったが、事故が何故起こったのか聞かれても、俺は本当のことを言えなかった。

 頭が変だって思われたくないのもあったし、もしかしたら警察が赤ちゃんを轢き殺した犯人を捜しているかもしれないって思ったんだ。


 本当のところはどうなんだろうか。


 その後、血みどろの赤ちゃんは俺の目の前には現れてはいない。


(完)

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