第3話 触らないで
私はその民宿の部屋に通された途端に帰りたくなった。隣の客と襖一枚なのである。
やはり格安なのには理由があったんだと内心泣きそうになっていた。
彼氏に心境を隣に聞こえぬようにこっそり伝えると同じことを思っていたらしく、従業員に他の部屋に変えてもらえないか尋ねて来てくれることになった。
待っている間、部屋の中を見渡す。古いが清潔感はある殺風景な和室で、テレビと小さな机、布団が二組隅に積まれている以外は何もなかった。
暫くして彼氏が首を横に振りながら部屋に戻ってきた。
まず、私達が泊まる部屋の向かい側に、ガラス張りではあるが電気の灯っていない部屋があったので、従業員にそこに移して貰えないか尋ねたらしい。
従業員はそこは今は客室ではないと言う。
他に客室はないのかと尋ねれば、今は隣の客と襖で仕切られている部屋一室のみを提供しているとのことだった。
彼氏は物置となっている向かいの部屋で寝かせて欲しいと食い下がった。
従業員はそれはちょっと、と言葉を濁して逃げてしまったらしい。
田舎だったので近くにホテルもなく、私たちは諦めてコンビニで買った夜ご飯を食べた。
元より素泊まりで眠ることが出来れば良いと決めた宿である。
さっさと寝て早朝に出発しようと決めた。
私は夢の中で商店街の中で小さな男の子と向きあって立っていた。
彼は真っ直ぐに私を見つめてくる。
やがて彼はゆっくりと私に手を伸ばして来た。
私は自分でも不思議なのだが「触らないで触らないで」と念仏のように呟き続ける。
自ずと口から言葉が出てきた。
呟き続けたまま、私は目を覚ました。現実でも口が動いており、声帯が震えているのを感じた。
目を覚ますと彼は横にいない。
トイレに行ったんだとそのまま目を閉じた。
朝になって身支度を整えると、バスの始発に合わせて宿を出た。
彼氏はバスが走り出して暫くすると「怖がるだろうから、民宿を出てから言おうと思ってたんだけど」と、話し出した。
朝、歯を磨いている時に襖越しに泊まっていた客と会ったらしい。
その中年の男性客は彼氏によく眠れたか、と尋ねたという。
夜中トイレに目覚めたぐらいでよく眠れましたよ、と言ったところ、それはよかった、あの部屋は出るんですよ、すぐ下の部屋の天井には子供の手形のシミがたくさん付いていて、僕たちはそれを消すために呼ばれたんです、と言われたらしい。
彼氏は馬鹿にして笑っていたけど、私は血の気が引いた。
また、ガラス張りの部屋は対処の仕様がないものがいて、閉鎖してしまったらしい。
彼氏に昨晩見た夢の話を詳しくすると、彼の顔はさっと強ばって青ざめた。
どうしたのと聞くと、目線を横に流し小さな声で囁いた。
「そこにいる」
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