【3】 闇は嗤い哭く 3

 静まりかえっていた居住スペースから悲鳴が上がる。子供の泣き声がする。

 あたしはエスカレーターの手すりを掴むと、勢いをつけて駆け上がった。


 どこかの部屋がやられたようだった。また外からか。

 さっき史仁がロケットランチャーを使っていた奴を倒したはずだが、武器を破壊しないとダメか。


 下階から喊声かんせいが聞こえる。あちらこちらからこだましてきた。

 ――いつの間にか、中にまで侵入されている。


「食料を奪え。使えそうな奴を見つけたら連れて行け!」

 指示をする声に、また喚声かんせいがあがる。


 略奪、殺戮だけではない。人をさらっていく気だ。

 生きた人間は、奴らにとっても財産なのだろう。吸血鬼と何も変わらない。

 亨悟の言う通り、生きるための食料として欲する吸血鬼よりも、たちが悪いかも知れない。


「奴ら、炭鉱の暗闇で吸血鬼と戦うのに慣れてる。甘く見るとやられるぞ」

 後ろから追いついてきた亨悟が言った。


 もといた階に戻ってくると、大部屋のあたりから人が溢れ出ていた。

 だがこのフロアの全員とは思えない。まだ部屋に隠れている人もいるはずだ。


 隠れたままでいるべきか、だが今の悲鳴や泣き声で居場所はバレている。部屋が破壊された状況で、冷静でいられるものだろうか。

 暴力で秩序は乱されて、迫ってくる驚異を前にただ息をひそめていろというのは、無理があるのかもしれない。


「上の階へ行け!」

 あたしの声に、大部屋から出てきた人々は戸惑ったようだった。

 あたしもよそ者に違いない。言うことを聞くべきか、聞いていいものか迷っている。


「杏樹達が下で防いでる。さっさと身を隠せ!」

 下階から喚声が上がってくる。

「おい、来たぞ!」

 武器もなく所在なくうろうろしていた亨悟が叫んだ。あたしはエスカレーターの前で立ちふさがる。


「亨悟、防火扉を閉めて他の階段をふさげ! 何かバリケードになりそうなのないのか」

「俺一人じゃ無理だよ! だいたい階段てどこだよ!」

 部屋から大人達が駆けだして、こっちだ、と声をあげる。亨悟はあたしを見たが、あたしは階下の闇の先を見ていた。


 男達が駆け上がってくる。銃声がしたが、弾は外れた。

 あたしは身を低くして、パドルを両手で握る。床を蹴って、上から飛びかかった。


 先頭の男の顔面に踵を食らわせる。顔面の骨がミシリと鳴る感触。

 男はエスカレーターの上でひっくり返る。その後ろの男を引っかけた――かに見えた。だが後ろの男の手があがる。


 まずい。思った時には銃声が響いていた。


 肩に激痛が走る。あつい。

 構わずにあたしはパドルを両手で持ち、思い切り振り抜いた。

 パドルの平たい所が男の頭にヒットする。男は拳銃を持ったまま、吹っ飛んでいった。


 ガタガタと音を立てて、エスカレーターの上に着地する。

 後ろ向きに段差を上まであがり、身構えるが、他に上がってくる奴は今のところいないようだった。


 来るにしても、エスカレーターの上でひっくりかえった男ふたりの体がバリケードかわりになって、簡単に上がってこれないはずだ。


 大きくため息をつく。

 ミシミシと体がきしむような音がする。体が急激に回復する時は、傷ついた時と同じくらい激痛が襲ってくる。

 銃弾は貫通したのか、肩に違和感はない。

 だけど、がくんと膝から力が抜けた。


 ――――体が重い。血がほしい。

 無意識が働きかけてくる。


 ――血が足りない。

 眼下に転がる男達の体から溢れる血の臭いがする。


 いいんじゃないか、ああいう奴らからならもらっても。それにもう死んでるかも知れない。いまあたしが殺した。

 それならもう、血をもらったっていいじゃないか。吸血鬼になる心配もない。どうせ殺した。



「紗奈ちゃん、大丈夫?」

 声が間近で聞こえて、あたしは顔を上げる。

 ちいさな少女が覗き込んでくる。


 ――なんで、子供が。部屋に隠れているはずじゃないのか。

 こんな危険なところにどうして。

 あたしみたいなよそ者の、危険な吸血鬼のところに、どうして。


「こっちに来なさい!」

 後ろから親が少女の手を引っ張って叱責する。

 子供はあたしに手を伸ばしてきた。


「あたしに触るな」

 思わず、強く叩きつける。

 吸血鬼あたしが噛みつかなくたって、この血に触れると感染するかも知れない。


 子供の体温が近い。どくんどくんと、血の流れる音がする。

 これが自分の傷口が脈打つ音なのか、子供の鼓動なのか、分からなくなった。死体の血よりも、新鮮な人間の血がほしい。


 はやく、はやくどこかに行ってくれ。




 あたしは吸血鬼になった後、しばらくその町に隠れて過ごしていた。

 人の熱と息づかい。

 間近の紘平から、町の中のどこかからいつも感じていた。


 空腹が身をさいなんで、体が常に重くて、いつか頭も動かなくなるような気がした。


 だけど、どうしても人を襲えなかった。

 ここを離れれば、知らない土地なら、なんとかなるかもしれない。人を狩れるかもしれない。


 どっちにしても、もう、家には帰れない。だからあたしは、住み慣れた場所も、この町も離れることにした。


 関門橋は途中の道路を破壊して落とされていて、渡ることができない。

 今思えば、杏樹が言っていた地震の頃に、人も吸血鬼も渡ってこないようにしたのかも知れない。


 紘平が船を出してくれて、あたしは海の向こう、九州に渡ることにした。少しでも故郷から離れたかった。


 よく晴れた日だった。

 吸血鬼を警戒して、朝早く港を出て、波の強い海を進む。

 ソーラー電池を改造した動力だけでは心許なかったが、なんとか夕方には門司もじ港へたどり着いた。


 波よけのコンクリートを回り込み、船着き場の端っこに船を寄せる。


「紗奈、本当に行くのか」

 日を避けて、赤いポンチョのフードを深くかぶるあたしに、紘平は言った。


 コンクリートの地面に降りたって、あたしは紘平を振り返った。

 後悔と悲しみでいっぱいの顔で、紘平はあたしを見ていた。


「家に戻ろう。噛みつかなきゃいいんだろ。俺が血をやる」

 何度目かの言葉を繰り返す。


「村には帰れない。いつ知られるか分からない。いつ正気を失って、誰かを襲うかわからない。恐いんだ」

 あたしも同じ事を返した。


 いつ紘平を殺すか分からない。

 村の人を殺すか分からない。

 それなら――食料にするなら、殺してしまうなら、知らない人間の方がいい。

 それならできるかもしれない。


「そんなこと起きない。俺がついてる」

 でも、いくら紘平がそう言ってくれたって、今だけのことじゃない。これからずっと、いつまで続くか分からないこと。血をもらい続けて、紘平がどうなるか分からない。

 きっといつか、耐えられなくなる。

「無理だよ。どうにもならない」

 レトロな煉瓦積みの町並みの向こうへ日が落ちていく。

 あたりはもう夕暮れで、茶色の建物が赤く濃く染まっていく。早く陸を離れないと、紘平が危ない。


 あたしはもう振り返らなかった。

 その後すぐに、吸血鬼に襲われている親子を見つけたのは、本当に偶然だった。


 港を歩いていると、悲鳴が聞こえた。

 港に停泊した船の上。そこに隠れ住んでいたのかも知れない。

 そのあたりの船に転がっていたパドルを持って駆けつけ、あたしは吸血鬼の頭に振り下ろした。

 ぐしゃり、と音を立てて、その一発で吸血鬼の頭はひしゃげて潰れた。自分の体が思ったよりも早く強く動くことに困惑した。


 それよりも、むせかえるような血の臭いが潮風に混じって、あたりに充満していた。


 ――――血だ。

 大人がふたり転がっていて、子供は倒れた吸血鬼とあたしをせわしなく見ている。


 怪我をしているのか、誰かの血なのか分からないが、血まみれだった。


 怯えた目。

 時折、今もあの顔が蘇る。

 それから、あたしを押さえつけたあの男の目。あの恐怖。あの痛み。


 得体の知れないものを見る少女の目と交錯する。

 あれは、あのときのあたし。

 そして今のあたしは、あのときの男だ。


 自分が生きるために、他者を殺す。同胞を――元、同胞を。


 怪我をして、庇護者を失って、子供がたったひとりで、放っておけばどうせ死ぬ。

 こんなところで死ぬんなら、血をもらったって同じじゃないか。

 吸血鬼が噛みつけば大抵は死ぬ。殺してしまうけど、ただただ死ぬよりも、他の存在の命を長らえるだけ、意義があるんじゃないか。


 もしかしたら、吸血鬼になれば生き延びるかもしれない。

 でも、それは、この子のためなのだろうか。あたしのエゴじゃないのか。あたしと同じ苦しみを与えることになるのに。


 でも、そんなの。どうだっていいじゃないか。

 どうせ死ぬのに。それにあたしの方がすごく腹が減って死にそうだ。

 殺したっていいじゃないか。


 ――でも、怪我をしているなら、手当をして。

 あたしのいた集落のような所にたどり着ければ。

 この子を守ってくれるような人間に出会えれば、あるいは。


「行け」

 気がつくと声を吐き出していた。混乱した顔で少女があたしを見た。


 そして今あたしは、目の前の少女を見る。

 暗い病院の中、大人達の怒号と悲鳴の中、略奪と暴力の中で、あたしを気遣って足を止めた少女。

 この子を殺したくない。


「さっさと逃げろ」

 大人が駆けてきて、少女を引っ張っていく。それに心底ホッとした。


 杏樹に言われなくても、このままだと身も心もたないのは分かっていた。

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