第十章 天還祭(4)

「オルツィイはここに隠れていて。何かあったらエルデニネ様が悲しむ」

 がたがたと肩を震わすオルツィイの背中を軽く叩く。彼女の視線はムグズに注がれて返事もできぬほど強張っている。

 しゃらん、とアルマの頭上の花蝶櫛が小さい音を立てた。それに勇気をもらってぎゅっと棒を握る手を絞る。

「御前、お守り致す」

 ハドゥが落ち着いて声を上げる。

 二人は祭壇の後ろから躍り出してムグズに向かう。神官の赤い衣装を着ているので闖入者とは思われないだろう。

 ハドゥはすぐにションホルの傍へ寄り、襲撃に備えて棒を構えた。

 アルマは胸のあたりまでの長さにへし折られた短棒を高く掲げて、耳の後ろから斜め下に一閃、ムグズの脇腹に打ち込む。ムグズは獣のように雄たけびを上げる。だが、体勢を崩してうずくまるだけで、刀は強く握りしめられたままだ。

「その刀を返しなさい! その子はそこにいてはならないの」

 アルマがもう一度短棒を構えた。

 その時、ムグズの濁った眼が妖しい光を放って振り返った。

「な、何……?」

 すぐに短棒をムグズに打ち込める間合だった。にもかかわらず、不気味な視線に囚われてアルマは尻込みした。辛うじて後ずさりして大きく間合を取る。

 ムグズは手負いの獣のように興奮した息を吐き、刀を握りしめるとアルマに突進してくる。

「おんな……! わしのおんな……!」

「……っ!」

 アルマの声を聞いて女がそこにいると知ったのだ。エルデニネの他にもすぐ近くにいるのだと。

 ムグズが刀で見境なく空を切りながら近づいてくる。刀を振り回すムグズは傍から見ても刀を取り扱う能力に乏しく見え、武の心構えのあるアルマが躱すことは難しくない。しかし、大勢の賓客やエルデニネが傍にいる中で自由に戦うには祈天殿の中は狭すぎる。

 普段から荒事に慣れない神官たちがか細い悲鳴を上げながら逃げ始めたので余計に身動きに気を遣う。

「アルマっ!」

 大きな手のひらに腕を引き寄せれた。入れ替わるように前に立ち現れた人物の背中を、アルマはどれほど待ち望んでいただろうか。

「シャマル……!」

 儀礼用の金細工が施された短弓に矢を番えた瞬間に放つ。

 ムグズの脹脛の肉を矢が貫く。ムグズは射かけられた方に体をよろめかせたが、決して刀を放そうとはしない。それどころか、刀の切っ先をを己の腕の延長のように振ってもがいている。

 二本目の矢が番われ、刀を持つ腕を射る。

 すると、シャマルは弓を床に放り、腰帯から金の短剣を鞘ごと抜く。大胆に深く踏み込んで、丸く盛り上がった柄頭をムグズの手の甲に打ち付けた。

 翡翠色の剣が漸くムグズの手のひらから零れ落ち、高い金属音を立てて祈天殿の床に転がった。

 ムグズが怯んだ隙をシャマルはは見逃さずに身動きを封じるため背中まで肘を捻じらる。ムグズは地に伏せられながらも女を求めて喚き散らしている。

「シャマル……?」

 近寄りがたかった。

 シャマルがムグズの背中を見下ろす顔は蔑みが色濃く表れていた。

 かつてこんな表情をした彼を見たことがなかった。彼は温和な人間で憎悪に駆られるはずのない人格をしている。しかし、今アルマの目の前にいる男は蔑みの表情とともに噴出する憎しみの感情を隠してはいなかった。

「アルトゥン・コイのムグズ。あなたは哀れだ。曄に人生を塗りつぶされた人の一人だ。でも、だからといって姫神子を犯し、殺すことを僕は絶対に許さない……」

 苦々しい表情のまま、シャマルはムグズに呟いた。

 ムグズはもはや彼の言葉など理解できる状態にない。それを察知できぬ男ではないが、敢えていったのだろう。

「そうだ、刀……!」

 アルマは祈天殿の中央に弾かれた刀を拾い上げた。

 両手で恭しく持ち上げると神剣に相応しい清らかさを湛えている。夢の中と同じように七ツ星の下に龍が描かれている。

 立ち上がった程駿が忌々しげにムグズを睨み付けた後に、ションホルの傍に立つ。入れ替わりにハドゥがシャマルに駆け寄ってムグズを拘束する。

「娘よ、その刀を皇上にお持ちせよ」

 程駿に呼ばれてアルマは刀を持ったまま養花殿で習った作法で跪いて九回礼をする。

「皇上に申し上げます」

「許す。面を上げよ」

 許可をもらい顔をあげるとションホルはムグズの闖入などなかったかのように堂々と祭壇の前に座している。

「刀をお持ちいたしました」

 刀を差しだすと、ションホルは古くから手に馴染んだ愛刀のように容易い手つきでそれを受け取った。徐に立ち上がり、翡翠色の刀を片手で天に突き上げる。

「古く禳州に保管されていた『祝いの直刀』が我が手に参った。天還之儀の名の如く、天に魂を送り天下平安、五穀豊穣、友誼永続を願おうではないか」

 胸元まで刀を下ろし、両手で掲げるとションホルは唇の端に挑戦的な笑みを浮かべた。彼はエルデニネに近付く。姫神子は神への生贄に弑される運命にあるという言葉を思い出してアルマは肌が粟立つのを感じたが、取り越し苦労だった。

 ションホルはエルデニネに一言声をかけると、先頭に立った程駿とともに祈天殿の外に出ていく。

 神官たちは『天卜鶴典てんぼくかくてん』にある本来の式次第と異なることに困惑して動作が遅れたが、賓客たちはぞろぞろと皇帝たちの後をついてその場を離れた。

「お嬢様……!」

 隠れていたオルツィイが涙で頬を濡らしながら跪いたままのアルマの身を起こす。

「どういうことなの?」

 祭祀の流れの変化にも、裏切り者だと噂されていた程駿の登場にも戸惑いを隠せない。呆然とションホルや賓客の背中を見送ったアルマに、シャマルは短く「僕たちも行こう」と促した。

 皇帝の列が向かったのは円丘壇だった。

 暗い夜の星の下に円丘壇が白く浮き上がっている。大きな亡霊のようにも見える壇上には篝火が焚かれ、火の粉を天に舞い上げている。

 三段ある基壇を左からぐるりと回って昇り、頂上に辿り着くと、中央の四角い大理石の上に生きた雄牛が敷き詰められた蘇摩の葉の上で眠っている。香をかがされて眠らされているのだと分かった。

 その前には長い几が置かれ、几の下には稲穂や粟、餅や野菜が盆の上に乗せられている。

 脇には程駿とともに暇をもらったはずの謝初安が礼服を纏って一行の到着を待ち構えていた。

「皆々様に於かれましてはこの場をもって祭祀を見守り下さい」

 程駿が雄牛からほど離れたところで賓客たちを座らせる。旅装姿ではあるが所作は洗練されていて美しい。

 賓客たちが全員座るのを待って、ションホルは声を張り上げた。

「余は天還之儀を古式に揺り戻す。加えて祭祀を一部新しき試みに変更する」

 通りのいい声が円丘壇の上に反響する。雄牛の前で篝火にあてられた冕冠の飾り玉が濡れたように輝いた。

「即ち、星の神に作物を捧げ、天の神に雄牛を捧げる。姫神子は舞を捧げ、余は祈りを捧げる」

 饗応にくれていた年配の神官が驚愕して声を上げた。

「ですが、皇上。『天卜鶴典てんぼくかくてん』には姫神子の命を捧げることによってこそ、神は妻を得て、その褒美に天下の五穀を豊かに実らせるとあります!」

 ションホルは氷のような視線を神官に送る。口の端に笑みはなく、罪を処するように冷たい。

「曄の神は農耕神である。複数の古書に余すところなく述べられており、農耕神への捧げものは人命にあらず。農耕神は血肉の穢れを厭うため厳しい潔斎を課す。豊穣の一部を神にお返しすることで貢とする。よって天は人命を捧げることを望んではいない」

「しかし、『天卜鶴典』には……」

「汝らの書は伝統ある祭祀の書ではあるが、余はそれに遡って曄地方にまつわる祭祀の書をそこな程駿と謝初安探らせた。禳州に赴いて祝いの直刀を取らせると同時に遊牧七民族同盟イェッテ・カビーレ及び東方三部族の祭祀をも調査している。気になるのであれば後ほど程駿に出典を尋ね、討論を重ねるが良い」

 年配の神官は納得がいかぬ表情を包み隠しもしない。控えなさい、と程駿が諌めるが、神官は彼をも厭わしげに躱して反論する。

「皇上、祭祀は我々トゥルナ族の管轄にございます。曄人に下げ渡されては我々も面子が保たれません」

「祭祀の進行は汝らに任せている。それとも祭祀の内容を変える権利も汝らにあると申すか? それは皇帝の行う国家祭祀を影から操りたいと申しているのと同義であるぞ」

 睨み付けられて神官は押し黙ってひれ伏した。新帝を操る意志や謀反の意志ありと捉えられてはかなわない。

「皆様がご納得されたのであれば、皇上、そろそろはじめましょう」

 和やかな笑みを浮かべて謝初安が祭祀の続行を促した。

「姫神子様、祝いの詩を捧げて頂けますか?」

 初安の言葉を聞いて、音楽隊が祝いの言葉の曲を奏で始める。エルデニネは飛び跳ねながら体や腕を旋回させて祝いの詩を読む。


  天上平安,天下至福。

  心想事成,万事如意。

  国家平安,全家至福。

  国業順利,大吉大利。

  年年有余,歳歳平安。

  子孫享福,永世長存。

  万国友誼,永世長存。


 祈天殿のエルデニネは金の炎に舞う天女の如くであったが、円丘壇で舞う彼女は星の川の下に舞う伝承の女性のように見えた。

 金襴のうすものが翻り、襦裙から白い手足が伸びる。魅了されない男はいない。だが、色香よりも清廉さが際立つ。天の神が地上に舞い降りれば彼女に恋をすることだろう。ラズワルドを天の神はきっと彼女にも与えるはずだとアルマは夢想した。

 エルデニネに見惚れているアルマの横で、シャマルは寂寥の面持ちで舞を眺めていた。アルマの心配そうな視線に気付いて、シャマルは誤魔化すように笑った。

「昔ね、同じような詩を聞いたことがあるんだ。ちょっとそれを思い出してた」

「シャマルが天還祭に参加した時のこと?」

 己の知らない女の影に、アルマは漠然と寂しさを感じた。答えてもらえないかもしれないと知りながら、シャマルに尋ねる。シャマルはアルマが既に己の過去を窺い知っていることに苦笑いして頷いた。

「ああ。聞いているのかい。こういう洗練された大人の舞とは違うんだけど、とても惹きつけられる無垢な天女の舞と声だったよ」

 本当は舞も声も記憶がおぼろげになっている。十三年を経て、もはや過去の舞も詩も正確な形を失ってシャマルの思い出と混じりあい、理想の形を作っているのだろう。それでも、シャマルにとっては過去の姫神子の少女こそが随一の天女だ。

「全て終わったら君に話すよ。君自身のこともブルキュット族にした僕の罪も含めてちゃんと」

 ションホルが長几に穀物や野菜を捧げて神に祈るのを見ながら、シャマルはしっかりとした声でアルマに語った。

 視線を交わる。

「無事で良かった。もしものことがあったらって、心配したんだ」

 アルマは全身がじんわりと温まるのを感じた。漸く彼に会えたのだとやっと自覚した。アルマに注がれるのが例え肉親の愛情であったとしても、アルマはやはり彼の元に帰りたかった。

「うん、教えて。シャマルのこと、もっと」

 感極まりそうになってアルマは視線を外した。見慣れぬ彼の礼服の端を抓んで放すまいとした。

 ションホルが雄牛を祝いの直刀で屠る。神への祭文を唱えながら、遊牧民の方法で牛を天に還すと賓客たちから割れんばかりの拍手が上がった。

 途中に乱れた天還之儀が何事もなかったかのように無事終了しようとしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る