第十章 天還祭(5)

 男は養花殿の塀の屋根に上ると、身軽な動作で跳躍し、養花殿の二階に着地した。

 飛び移った拍子に袖元に隠していた牢の鍵が養花殿の草むらに庭園に落ちたが、丁度いい。迂闊に人を引き入れる養花殿のトゥルナの女は沢山いる。そのうちの誰かが疑われることだろう。

 湿気を孕んだ風が男の黒い覆面を靡かせた。

 養花殿は哀れだ。

 銀髪銀眼を得て晴れてトズ族の仲間入りをすれば今まで同輩だったトゥルナ族を顎でこき使うことも可能だ。しかし、トズ族になったからといって全てが安泰なわけではない。皇帝の寵愛を受けなければ養花殿でのみ咲く花に過ぎない。仮に寵愛を受けて身籠っても、トズ族は異能の種族。曄王朝ではトズ族の男児は不吉とされていて死産扱いされてきた。男児が万一異能を開眼させれば、異能に甘んじて努力を怠り天が乱れると信じられてきた。子は死んでいれば勿論死産だが、生きていても産声を上げてわずか数刻で天に送り返される。故に子が王座を手中にすることはない。

 女児を生んだとて、その子も親と同じようにトズの銀髪銀眼を得るとは限らない。トズ族の容姿と異能は血脈から代々受け継ぐものではなく、天の下しし奇跡なのだ。

 けれども、トゥルナ族とトズ族のみが同一の血脈の中でそういった階級社会を作っているわけではない。他の部族だって少なからずそういった面は存在する。

 それでもトゥルナ族たちはまだましだ。男はそう思っている。

 トゥルナとトズの関係は奇跡そのもので同腹から生まれようが、妾腹から生まれようが、上位の階層に属せるか否かは天が決める。生まれた家がそのままその者の価値とはならない。

 曄も、他の部族も多くは生まれた家が、父が、母がその者の階層を決めてしまう。

 曄時代はそうであったが、この度瑛帝は奴婢を解放した。奴婢に甘んじていた連中は働き場所を失ってどう身を立てればいいか路頭に迷い、怒っている者も少なくないが、じきに良い方向へ向くことだろう。

 男のなけなしの良心が軋むように傷んだ。

 足場にしている屋根瓦が小さく音を立てたが、気に病むべき音ではない。そうだ、もう気に病むべきことではないのだ。己は生まれてこの方ずっと奴婢で、功を上げてうまくごまかしても生まれは卑賤なるものなのだ。後戻りができないと嘆くどころか、そもそも退路などないのだ。

 男は五年前に曄の都の城壁を潜った。

 しかし、それよりもずっと以前から密かに曄側の間諜をしていた。

 己が甘い汁を吸い続けるには、幼い頃から培った間諜や暗殺の技術を以て手に入れるほかに手だてはなかった。でなければ、ずっと蔑まれて奴婢以下の扱いを受けるだけだ。

 間諜の報酬として手に入れたこのかりそめの地位は、しかし、間諜を辞めてしまえば裏切り者として正体を明かされるか、或いは消されて終わるだろう。

 やっと手に入れた地位、それに付随する親しき友、帰る場所である家族――。間諜や暗殺にまみれた暗い生活に射した光だ。それらを失うのが、男にはどうしようもなく恐ろしくて仕方がない。

 だから、曄が倒れ、瑛が立った今でも、長い間繋がっていた縁を切ることができない。男は今も正体を隠匿し、卑賤なる者の生業をしている。

 そのうちに果たして己の所業は正しいのか分からなくなった。かといって今更辞められるものでない。葛藤の内にやがて現実逃避に薬に手を出した。

 薬は気分を良くするだけでなく、自分を自在の人間だと思わせた。

 しかし、効果が切れると自分の人生をより一層惨めに感じさせた。姿の見えない何者かが背後から耳元に囁くのだ。お前は全てが嘘にまみれている卑賤の身で、やがてこのかりそめの生活には引導が渡されるだろう。

 頭を掻き毟るほど怖くて、今度は薬から手が離せなくなった。

 だが、その心配ももうすぐなくなる。

 瑛帝は奴婢の解放を宣言した。己も旧来の所属を捨て、瑛の地に住処を移し、瑛人となれば解き放たれる――はずだ。今度の暗殺が成功さえすれば、間諜から足を洗う約束がある。そうしたら、薬をやめられるし、家を持ち、嫁を取り、奴婢の地位を名実ともに脱却することができる。

 男は狡猾に笑うと次こそは仕留めねばと隠し持った匕首を握りしめた。

 天還祭の本祭の夜は円丘に守衛の数が割かれる。加えて、牢から囚われていた刺客の男が逃げ出して城内は更に手薄になっているはずだ。前日にムグズを放って女が円丘にいることを教えている。他の仲間の手引きできっと天還祭の祭祀をかき乱していることだろうから、円丘へ向かった人間がここへ舞い戻る心配もない。

 二階の奥の部屋は皇帝の気の違った妾が住んでいて今宵も騒がしく狂気じみた笑い声を上げている。この声が大きければ大きいほど己の犯行を隠してくれる。今宵はついている。

 男は妾の部屋を無視してその隣の主のようすを伺う。

 元々物静かな女であったが、今日もかすかな寝息が聞こえる程度だ。以前に誤って別の女の側仕を殺して以来、部屋の主は命を狙われていると悟って閉じこもってばかりである。数日姿を見ないこともあるが、ここには世話をするトゥルナ族の女が沢山いる。生きるに何の苦労もない。

 養花殿の廊下側の戸は夜鍵が閉まっている。建物内の扉は皇帝がねやを訪れる時のために鍵はしない。

 だが、男は廊下側からいとも簡単に鍵を開ける。盗みや侵入、密偵や暗殺は彼の得意とするところで部族挙げての生業だ。外側から侵入を試みたのは、物音が自然の雑音で消えやすいからだ。

 戸に手をかける。

 そろりと透かし彫りの施された木の戸を横に滑らせると、標的は厚く布を何枚も被って眠っている。

 縮こまるような寝相に男は匕首を己の頬の横に振り上げた。仰向けに寝ていないせいで己の影により目覚めることもないだろう。

 白い寝台に咲いた赤はどれほど綺麗だろう。純度の高い氷から神性を見出して彫刻したかのように美しい容貌であるから殊更に息を飲む美しさをしているに違いない。

 男は、死者の瞳孔の開ききった焦点の合わぬ、まるで等身大の人形のような姿が好きだった。魂の入れ物に命を吹き込む点眼の作業まで遡ったような、人形を作った神の気持ちになれるからだ。

「おやすみ、エルデニネちゃん」

 軽薄な口ぶりで呟き、今度こそ息の根を止めると決意して渾身の力で匕首を首に振り下ろす。

 だが、気が昂ぶったのも束の間、男の匕首は同じく匕首によって阻まれた。

「悪いけど、眠ってないんだよねぇ」

「なっ、何で……!」

 男の犯行を阻止したのは、寝台に横たわっていたエルデニネではなく、己と同じ顔をした男。

「何でじゃないよぉ。俺の方が何でって聞きたいなぁ。あんたは養生のためにぐっすりおねんねしてないといけないはずでしょう? ツァガーン兄ちゃん」

 男はすぐには答えなかった。

「覆面しても俺には分かっちゃうんだよなぁ。双子だから」

 同じ顔の片割れの指が強引に黒い覆面を剥がす。男――ツァガーンは抵抗するのも忘れてされるがままに顔を晒す。

「……ハル、天還祭に随行したんじゃなかったのかよ」

 ツァガーンは蒼白になった。エルデニネの寝床になぜ弟がいるのだろうか。彼は己の行為を知らないはずだ。話したことすらない。だというのに、まるで予め仕掛けられた罠のように弟はここにいる。

 動揺の傍らで、彼を傷付けずに済んでほっとしている自分がいた。

「俺、そんなことちっともいわなかったよねぇ? 床に伏せた兄ちゃんを放って天還祭楽しむほど兄弟を想わない弟だって思ったぁ?」

 しかし、弟の安全を安堵する己に対して、彼は言葉とは裏腹に苛烈な怒りを瞳に秘めていた。

「ね、何でエルデニネちゃんを襲うの? 彼女、何かいけないことした?」

 ハルは残忍に微笑むと戸惑うツァガーンに匕首で斬りつける。

 ツァガーンは柔軟な身のこなしで弟の本気の一撃を躱した。

「いや、してない。してないけど、そういう依頼なんだ。……程家の指示で」

「ふぅん、程家の」

 次の一撃はまだ来ない。互いに匕首を握ったまま、視線で火花が散る。

「嘘だね」

 ハルはツァガーンの言葉を真っ向から否定した。

「程家は曄の代々寵臣ではあったけど、今あの家は反瑛じゃない。駿は瑛に沢山不満があるし、諫言もするけど倒瑛のためじゃないよ。駿は平帝の遺言で元々瑛に仕える準備をしていたわけだし、それは父君にも許可を得ている。それに程家がエルデニネちゃんを殺しても一利もないでしょ。あれっ? 駿をうまく利用したつもりかな? あの子はさすがに秀才と誉れ高いだけあって自分や実家が利用されることは承知済みだったよ。まあ、こんな間抜けな罠、駿じゃなくても見抜けるけどね。駿たちが凰都の外へ行ったのは内朝としての地方監察。勘気を被って暇を出したことにしたのに釣れてくれて有難うね」

 ツァガーンは背筋が粟立った。

 いつから明るみに出ていたのだろうか。ハルもアルトゥンも知っている。となれば、ハドゥやガザルも把握しているということだ。それをずっと泳がされていた……?

「忘れないでねぇ、兄ちゃん。あんたが間諜であるのと同時に、俺もまたトゥルケ族の間諜なんだよぉ。兄弟仲良しこよしでしょぉ」

 ハルはにんまりと笑うと袖の中から破かれた紙を取り出した。

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