第十章 天還祭(3)

 本当にこれで良かったんだろうか。

 アルマはオルツィイとハドゥとともに神官の赤い衣装に袖を通して祭壇の裏手に身を隠していた。

 音楽隊の音楽は止むことなく美しい天上の音楽を奏で、身代わりの姫神子となったエルデニネの玲瓏たる歌声が入り混じりこの上なく美しい調べが祈天殿に満ち溢れた。

 祭壇の背後からこっそり盗み見てもエルデニネの舞と歌は文句の付けどころがなく、賓客全員が天女さながらの姿に恍惚として見入っている。

 地斎宮でエルデニネはアルマに「運命を変えなくてはなりません」といった。

 彼女は以前見た予知を再び語った。そして、予知を変えるにはアルマが姫神子のままであってはならないと指摘した。

「今までわたくしは予知に抗うことはしませんでした。抗うという考え自体がありませんでした。予知は決められた未来で必ずその通りの事件が起こると思っていたのです。しかし、今一つ、その予知が真実たりえるのか、それとも変えられるものなのか試してみたいのです。ですから、姫神子の座をわたくしにお譲り頂けませんか」

 エルデニネは姫神子が大神官を天に還す、即ち生贄することからアルマを遠ざけるだけではなく、こういった理由を試してみたいのだと主張した。

「もしも予知が何らかの未来の枝葉を回避するために神がわたくしに遣わした能力であれば、姫神子を交代することこそご神意であり、決して神罰が下るものではないと思います」

 彼女の表情はもはや無関心で無表情な氷の仮面ではなくなっていた。熱意に気おされてアルマは姫神子を譲った。元々姫神子自体を名誉とも思っていなかったし、関心もない。ただ、練習の成果が発揮できないことだけが残念だった。

 アルマの下ではオルツィイが真の主の晴れ舞台を複雑な面持ちで鑑賞している。天還之儀の要となる儀式への不安からだった。同時に、めったに見らぬ美技に目を潤ませて感嘆の息を何度も吐く。


  幸神信明,是我真証。

  発願於彼,力精所欲。

  光明悉照,威神難量。

  疆場翼翼,黍稷彧彧。

  自天降康,豐年穰穰。

  來假來饗,降福無疆。


 祭祀の詩はいくつもが即興である。

 祈りの文章に常套のものはあるが、即興は大層重宝される。というのも、閃きそのものが神意とされるので、決まった文章はない。心に降りてきた言葉を舌に乗せて衆目に披露する。それが神意であり祈りになる。

 とはいえ、そう教わった日から多くの姫神子というのは詩作をするのであろう。勿論、情感豊かな者や閃きの多い者は即興詩を歌うという。果たしてエルデニネがどちらの部類なのかは分からぬが、一文も思いつかなかったアルマにとってはどれもこれも詩文の教科書に載っているものと同等に素晴らしく感じた。

 音楽が変わる度にエルデニネは舞を変え、即興的に詩を読んで天の祈りとして捧げた。この場の誰もが初めから彼女が姫神子として選ばれし人物であったかのように、騒ぎ立てることはなく、じっと天女の舞を鑑賞する。

 うすものの袖が空の気をかき混ぜ、森羅万象を自由に扱うかの如く表現される。襦裙から覗く軽やかなつま先は軟玉のようで思わずその手で撫でてみたい欲求を引き出す。

 頭に被った布の閃きや、薄い乳白色に隠された花のかんばせが見る者にいかな美しい素顔かと想像を掻き立てる。たおやかな体の凹凸はゆうに少女を逸脱しているが、色香は成熟には今一歩足らずに、かえって無垢な印象を植え付ける。

 このまま儀式が終わらなければずっと彼女の舞を見ていられるのに。

 アルマでさえそう思ったのだから、他の賓客たちもそう思っているに違いない。

 アルマは沢山の賓客や神官の顔を端から順に一巡した。ふと、祭壇の近くに見知った顔を見つけた。

(――シャマル!)

 雷に打たれたかのような衝撃だった。須臾、呼吸を忘れた。

 茶色の髪に同色の目、顔に走る二本の刀傷。ずっと会いたかった義兄がここにいる。

 縁に銀糸を刺繍した見たことのない翠緑の礼服を纏い、腰には宝石の散りばめられた金の宝剣と儀礼用の弓矢を携えている。背筋は胸を張って真っ直ぐ伸び、遊牧民たち同様足を組んで座っていた。その視線は熱心にエルデニネに注がれ、オルツィイとは別の複雑さを滲ませる。

 盛装した義兄は今までに眼にしたことのないほど風貌良く見えた。

 アルマはすぐさま駆け出したくなる気持ちを抑えつけて落ち着いた。ずっと終わらなければいいのにと思っていた舞や詩が、すぐさま儀式とともに終わりを迎えればいいのに、と急速に心変わりを遂げる。身勝手だと分かってはいるが、気持ちが自然と逸る。

 もう何年も会っていなかったようにアルマは感じた。目頭が熱くなるのを唇を噛んで堪える。

(あたしを助けに来てくれたの……?)

 分かり切ってることであるのに、アルマはシャマル本人の口から返事が聞きたかった。その価値がある人間だと思われたかった。

 にわかに、音楽隊の旋律が乱れ始めた。

 不揃いになった音の塊の隙間から、何事が起ったのか雑談を始める賓客が現れる。

 アルマたちは祭壇の裏からきょろきょろと辺りを見渡して状況を観察した。

 エルデニネはざわめきを無視してまだ音を奏で続けている音楽隊に合わせて舞を披露している。祭壇の正面に腰を下ろしているションホルの様子は、アルマたちの場所からは窺うことができない。

「お待ちなさい!」

 祈天殿の南扉から若い男の声がする。息を切らせて声を荒げて走っている。

「そこに入ってはなりません!」

 しかし、男の制止もむなしく、扉は乱暴に開け放たれ、招かれざる客が現れた。

 ぼろを纏った老人だった。

 体は泥に汚れ、黒い垢が肌にへばりついている。ぶつぶつと独り言を呟いているその唇からは涎が垂れ、目に見えそうなほど荒い息をしている。いでたちとは対称的に翡翠色に輝く美しい刀を手に持ち、その切っ先には少量の血が付着していた。

「わしのおんな……。やはりわしのおんなをかくしていた……」

 老人は刀の柄を両手で握って祈天殿に舞うエルデニネの元に足を進めた。

「ムグズ……!」

 ハドゥが呟いた。

 話に聞いていたエルデニネを襲った祝爺ツゥイェになるはずだった男だ。一目で正気ではないと分かる。

 誰もが異様なようすに恐れおののく中、彼を追ってきた若い男が三度制止の声をかける。

「止まりなさいといっているでしょう、ムグズ! あなたの出番は未来永劫訪れないのですよ!」

 男は少し前に勘気を被って暇を出されたはずの曄の旧臣であった程駿だった。彼は小奇麗な旅装のまま、ムグズを追いかけると背中に飛びかかった。

「じゃまをするな……。わしのおんなだ……!」

 老人は白昼夢にいるような焦点の定まらない瞳に、突然獣の牙を剥いて程駿を振り払った。程駿は床にしたたかに肩を打って苦悶の表情を見せている。

「え、エルデニネ様……! お助けしないと……、でも……」

 オルツィイが神に祈るように悲愴な声で悲鳴を上げた。

「御前ですよ! 控えなさい! 儀式の血はここで流すものではありません! その刀をお返しなさい!」

 それでも口で説き伏せようと試みるが、ムグズの異様さを前に誰の目から見ても無駄な行為にしか見えなかった。周囲は突然の荒事に困惑していて、誰も程駿に手を貸すことはない。ションホルでさえも未だ祭壇の前に鎮座している。

 ムグズが狙いを定めず乱暴に刀を振り回す。翡翠色の刃が灯りに照らされて濡れたような輝きを見せる。

「あの刀――!」

 アルマは思わず声にして呟いた。

 ムグズが手に持つ刀には七ツ星と龍が刻み込まれている。

「どうした、アルマ」

 ハドゥがいつ外に飛び出すべきか慎重にはかりながら尋ねる。

「ハドゥ様、あれがあたしが夢に見た刀なの。あれはあの人の手にあっていいものじゃない!」

「取り戻したいか」

「うん。あたし、きっとあの刀にあなたの居場所はそこじゃないっていわなきゃいけないんだ」

 鮮明に頭に刻みつけられた夢の断片を思い出してアルマは意を決した。

 ハドゥもこくりと頷いて行こう、と合図し、天井から幡をつるしているために今回はお役御免だった幡立ての棒を引き抜いて真っ二つに折ると、片方をアルマに手渡した。

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