第十章 天還祭(1)

 船に乗っていた。乳白色の川に空が翡翠の色をしている。とろみを帯びた滑らかな水質の川が陽も見当たらないのにきらきらと金色に光っている。幅の広い川でどこに岸があるのか、アルマには探せなかった。たくさんの浮島があり、柏やなぎ、榊に楠と多種多様な緑が枝葉を伸ばしている。

(ああ、またこの夢だわ)

 冥夜之儀で居眠りをしてしまった時も同じ世界の夢を見た。船が己の意思に関係なくどんどん進んでいくので、同じ地点ではないけれども。

(あの見事な大魚、一体どこへ行ったのかな)

 以前の夢の中ですれ違った大きな魚影を探す。とっくの昔に逆行した大魚をどうやって見つけるのかは分からなかった。ただ、夢の中ではそれがごく当然のことで、殊更疑問を抱く問題ではない。

 暫く水面に首を伸ばして凝視したが、大きな魚影は見つからない。精々緋鯉ほどの大きさの魚影がまばらに水中を泳ぐだけで、あとは藻草が揺蕩うだけだ。船首から船尾、右舷、左舷と色んな方向から見てみたが、それらしきものは現れない。次第に疲れてきてアルマは乱暴に腰を下ろした。

 ふと、右手の甲にひんやりとした何かが当たった。さっきまでなかったはずだ。櫂にしては冷たすぎる。

 アルマは恐る恐る右手を見やった。刀が落ちている。

「何かな、これ」

 鞘も鍔も柄もなく、抜身の刀身が翡翠色の空を反射して清浄な輝きを放つ。たった今研ぎ上げたように鋭く美しい。しかし、傭兵たちが持つような実践的な刀には到底見えない。まず、反りが殆どない。直刀だ。刀身には七ツ星が彫刻されている。持ち上げてみるとずっしりと重い。

「綺麗……」

 アルマは真っ直ぐに立て鑑賞した後に、刀身を傾がせて七ツ星を煌めかせた。七ツ星はアルマもよく知っている星官せいざで、旅の際に探せば方位を知る足掛かりになる太一を求めることができた。

(そういえば養花殿の授業で……、えっと、何の授業だったかな……。曄人の王朝は天の皇帝の化身とされていて太一と同一視されていたんだっけ。だからこそ世の旅人を導くことができる……)

 曄人の宗教というのは星にまつわる宗教で、天そのものを神と崇めることの多い遊牧民たちとは少し概念が異なっている。

(この七ツ星、何だか不思議だな。何かが足りないような気がする)

 刀剣の価値も美術品の価値も分からないのに、アルマは刀身の中頃に光る星々を鑑賞していると何故だかこの刀身には何かが不足していると考え始めた。

 否。こういう刀身の中央にのみ文字や絵を彫刻する刀も存在する。

 そう思おうとするのに、水中に自ずと浮かび上がる気泡のように、アルマの心の中に疑問という気泡が沸いてくる。

「……龍だ」

 理由はないけれどもそう思った。

「龍を連ねる十四の星が七ツ星の下にはある」

 理由をこじつけるならば、こうだった。そしてもう一つ、

「七ツ星を頂く太一が皇帝なら曄までの皇帝は五爪の龍、だったっけ」

 自信なく呟いた瞬間、船体が揺らいだ。咄嗟に船にしがみついたので、刀がどこかへ流されそうになる。

「だめっ……!」

 水の流れに奪われそうになる刀を引き寄せて胸に抱く。しかし、あたかも刀それ自体が水を呼ぶかのごとく、川の水は渦を巻いて天に昇り、刀を目がけてくる。

 凍えるように冷たい水がアルマの全身に降りかかる。だが、彼女は刀を抱きしめたまま、ぎゅっと目を瞑って耐える。

 気配がした。

 刀とアルマを覗くように何者かが正面にいる。

 アルマは水の幕に囲まれながら恐る恐る眼を見開いた。天から降り注ぐ滝のような川水の向こう側に大きな魚影が見える。

「あ、あなた……」

 魚影が正面からアルマを襲う――と思ったが、煌めく宝石のような鱗を伴ったそれは激しい勢いで刀に衝突し、その翡翠色の刀身の中へ吸い込まれていく。

 気を抜くと両手の力では支えきれないほどの強さだが、耐えなくてばと強く念じるほどに刀はアルマの両拳の上に真っ直ぐと背を伸ばす。

 ついにすべての魚影が吸い込まれて、刀身には龍の姿が刻まれた。

 周囲は元の穏やかな光景に戻っている。

(何だったの……?)

 珍妙な面持ちで刀を覗き込む。

 抜身の刀身だった刀は、もはや抜身ではなく、黒と金の鞘に納められ、美しい金銅の鍔には二つの翠の玉がついている。勿論柄も柄巻をされている。

 何と神々しく美しい刀なのか。アルマはうっとりとして眺めた。

 鯉口を切り、刀身を覗くと、七ツ星の下には確かに龍がいた。龍からはまるでそこが居場所であるかのように穏やかな気持ちが流れ込んでくる。

「あの魚、大きいと思ったら龍だったなんて」

 刀を全て抜きたい衝動に駆られたが、アルマは敢えてしなかった。夢の中の刀だというのに、刀を抜いてしまえば何かを斬らずにはいられない気がしたのだ。

 かちんと鯉口が封じられた。と同時に、アルマは眼を見開いた。

 川がない。

「……あ、れ? 刀がない」

 身を起こすと、そこは地斎宮の己にあてがわれた部屋だ。

 寝台の斜め前には衝立があって、ハドゥの気配がする。

 オルツィイとエルデニネは隣の部屋で話しながら天還之儀の支度を整えているようだ。

 夢だと理解しているのに、夢ではないような気がした。刀身を抱いた冷たさがまだ頬や手に残っているような気がして、アルマはじっと己の両掌を見つめた。

「ん、どうしたアルマ」

 ハドゥが衝立の隙間から片目を覗かせた。

「ハドゥ様。あたし、刀を持っていなかった?」

 小首をかしげたのだろう。衝立の隙間から一瞬目が消える。

「刀など今も昔も持っていない。それともお前が護衛をする時は刀を身につけていたのか」

 アルマは首を左右に振って答えた。

「なら刀などないぞ」

 ハドゥのいう通りだ。

 己は生まれてこのかた刀を常時身につける習慣はない。己の武器は第一に弓。そして第二に棒。

 シャマルだって刀ではない。剣だ。それにあの刀は直刀だった。太古の昔はいざ知れず、今時護身に適したものではない。

「そう、だよね……」

 両手に残るひんやりとした冷たさを握りしめるようにアルマは拳を作る。遠くでオルツィイがハドゥに盗み見を止めるよう叱っている。

「アルマ」

 ハドゥは隙間から覗くのをやめて背を向けながら声をかけた。

「寝ていた時に見たのなら、その夢は大事にしたほうがいい。夢は抽象的な予言であり、警告であり、道しるべだといわれる」

 胸に引っ掛かりを残す夢だった。だから、安易にそんな夢など気にするなといわれたくなかった。故に、ハドゥの言葉はすとんと心に落ちて、アルマを尊重してくれるようで嬉しかった。

「有難う、ハドゥ様」

 照れくさく礼を述べると、ハドゥは眼を細めて微笑んだ。

 やがて神官たちがやって来た。天還祭の最後を飾る天還之儀の幕開けだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る