第九章 再会(6)

 東西に走る大通りのはるか向こうに、白大理石の扁額を掲げた天命治国門が昼の光を受けておぼろげとした輪郭を揺らしている。

 円丘の北門の奥でアルマはオルツィイや側仕に扮したエルデニネ、それに円丘を拠点とする大勢のトゥルナ族神官とともに皇帝の来訪を待った。

 皇帝の行幸というのは随行が非常に多く、千人から三千人程度を伴うことが多いのだが、ごく近隣ということもあって最低限の随従にされた。護衛の武官を除けばそのほとんどが天還祭を手伝う神官だ。

 前列は祓いのために年配の神官が先行し、武官が皇帝の輿を囲む。後列には一先ず王宮に納められた各国の貢物を運ぶ若輩の神官たちが次々にやってきて、先頭と同じく年配の神官が殿から監督している。行列の半分が貢物を運ぶ者たちだ。

 アルマは皇帝の行列が近付くにつれ、ひどく喉が渇いてきた。

 昨日ハドゥにションホルは兄だといわれたからかもしれないが、彼が本当に探していた兄なのか、まだ真相は分からない。

 そういえばションホルが皇帝らしい姿をしているのは見るのはこれがはじめてだ。だから妙に緊張するのかもしれない。

「今上皇帝ご到着」

 円丘の北門を潜ると行列はあらかじめ打ち合わせたように左右に分かれた。

 中央に降ろされた輿の紗が上がると、濃紺の絹の冕服べんふくを身につけたションホルが腰を上げる。印金で翼を広げた鷹紋を豪華にあしらっている。曄式の縫製ではあったが曄地方や曄北地方の帝や王の間で重んじられる龍紋と違い、ブルキュット族が出自の彼が即位後に作らせたものだろう。

 行幸の筆頭護衛であるガザルの差し出した手を取り、階を降りる。冕冠べんかんの前後を飾る硝子や宝玉の玉飾りが清らかな音を立てて揺れた。平時三つ編みを結っている後ろ髪は冕冠姿に合わせて髻に結い直したらしく、日焼けしてがっしりとしたうなじが覗いている。

「出迎えご苦労であった」

 まるで今までが嘘だったかのようにションホルの振る舞いも姿も鷹揚であった。

 線の細い美形とは類が違うが、整った顔立ちをしているせいもあって礼服が良く似合っている。動くたびに荷葉の香がふわりと漂い、夏の気候に爽やかな風を運ぶ。

 アルマは一瞬呆けてションホルを見ていたが、周囲を見て素早く礼を取る。照れくさいので丁度良く頭を垂れる機会が訪れた。

「アルマ。姫神子としてよく励んでいるようだな」

「は、はいっ」

 思いがけず声をかけられてアルマは上ずり声で返事をした。

 だが、ションホルはそれ以上、いつもの軽口を叩くわけでもなく、次の瞬間には円丘を代表するトゥルナの年配の神官の元へ歩んでいった。そのまま振り返ることなく円丘壇を挟んで地斎宮の対面に建てられた天斎宮に吸い込まれていき、他の武官や神官たちも三々五々散って行った。

 皇帝の迎えが終わると夜までは休息である。

 クラの儀は深夜に及ぶため、夕餉まで床に横になるよう指示される。夕餉が終われば禊をしてクラの儀のための衣装に着替える。クラの儀の衣装は内衣の上に袈裟の赤い白の深衣を重ねただけであり、腰帯も細い緋色の紐を一本括っただけである。姫神子の純潔を検分する儀式であるから余計な衣装は必要ないのだろう。装飾もなく寂しいのでとエルデニネがドルラルの花蝶櫛を差して飾ってくれた。

「クラの儀の準備が整いましてございます」

 神官たちは輿を担いでアルマを迎えた。

「さ、お嬢様。いってらっしゃいませ」

「儀式がつつがなくお進みあそばせることをお祈り申し上げます」

 オルツィイとエルデニネに見送られ、輿に揺られながらクラの儀の祭壇へ向かう。

 クラの儀の祭壇は円丘壇の南側にある堂宇にある。

 堂宇の中には地下への階段が続いている。円丘の全ての水場の根源がここにあり、地下の水源で水の神を祀っているのだ。

 階段の横にはアルマと同じく深衣姿のションホルが待ち構えていた。袈裟だけが翡翠色をしていて、細い紺の紐帯を軽く結わいている。冕冠を外して、前髪を上げている姿が露わになったが見慣れないだけに違和感がある。髻は三つ編みを結い直してまとめたらしく、巾から凹凸が垣間見られる。

「では参るか」

 アルマが輿から降りたのを確認すると、ションホルは神官に地下への扉を開けさせて階段を降りた。

 暗い室内は洞窟のように涼しい。夏に入って陽ざしの照りつけが厳しく、毎日暑いせいでとても心地よく感じた。

 中央の壁際には床に半円が掘られており、湧水が小さな噴水のようにこぽこぽと音を立てている。ここが水源だ。

 神官が甘い香りのする香を炊いて小さな灯を点ける。地下室全体を照らすには些か頼りない灯りであったが、暗闇に目が慣れた頃には左右両壁に沿って台のように地面から突出した岩を捉えることができた。これがオルツィイのいっていた磐座なのだろう。

「ごゆるりと」

 神官たちが室内の支度を終えると外から鍵が閉められた。ションホルとアルマは二人で地下に閉じ込められたのだ。

 焦りがションホルに通じたのだろう。彼は磐座の適当な位置に腰を掛けるとアルマの手を引いて隣に座らせた。

「心配するな。香が切れたら扉が開く。外であれと同じ香を炊いて時間を計っている」

「えっ、う、うん……!」

 心配事はそこでないのだが、アルマは空元気に返事をした。

「そ、それで、ションホル、一体この儀式は何をすればいいの?」

 本当はオルツィイから聞いて知っているのだが、静寂に耐えかねて尋ねた。緊張が解れないせいか段々と指先が冷たくなってきた。ションホルはふいに寝転んだ。

「お前の純潔を確かめる」

「えっ……」

 アルマは赤面した。

 ハドゥにションホルは兄だといわれたが、アルマにとって彼は知らない一人の男性であった。互いに顔が似ているわけでもなければ、過ごした日々も部族での五年だけだ。

 ションホルがアルマの腕を引く。

「ちょ、ちょっと待――」

「んだが、お前が純潔だと知っているので別にすることはない。時が過ぎるのを待つだけだ」

 ションホルはすっかりいつも通りの口調に戻っていた。

「アルマ、お前も寝ておけ。神官か誰かに何か聞かれたら“至福の時を過ごしました”とでもいっておけ」

 仰向けに瞑目するションホルにやけに腹が立って捕まれた腕を振り払った。

「そういう誤解を招く言葉は良くないでしょ! 本当にあなたと、こっこっ……」

「交合して純潔を確かめられたと思われるというのか?」

 口の端に笑みを浮かべてションホルがいう。余裕のないアルマと正反対だ。

「そっ、そうだよ! お、お兄さんとだなんてできるわけないでしょ」

 恥ずかしさに言葉尻がすぼむ。

「誰に聞いた」

 ションホルは大きく目を見開いた。だが、アルマの答えを待つことなく自ら答えを導き出した。

「――ハドゥだな。あいつ、いわなくていいことを……」

 怒気を含んで忌々しそうに吐き捨てる。

「ちょっと! 何でいわなくていいのよ? あなた、本当にあたしのお兄さんなの?」

 アルマはションホルの両肩の上に手を突いて、覆い被さるように問い詰めた。黄色い灯りが互いの瞳を照らし、濡れたように輝かせる。二人はしばらくの間無言で視線を交わした。沈黙を破ったのはションホルのため息だった。

「覚えてないか。仕方のないことだな」

 物思いにふける表情でションホルはアルマの片頬を大きな手で包んだ。

「こんな風に再会するとは思っていなかったぞ、ミウェ」

「その名前を何で……」

 真の名を呼ばれてアルマは狼狽の色を隠せなかった。

 本名は凰都に来て誰にも話していない。オルツィイにもエルデニネにもだ。勿論ハドゥたちも知るはずはない。

 それどころか、長い間アルマという名前で通してきて、自身さえ本当の名を忘れ去るところだった。――シャマルに呼ばれなければ。

 誰にも語ったことのない真の名を知っているのは確かに兄に他ならない。

(だからションホルはしつこくあたしの部族を尋ねたの)

 喉元に震える感情が押し寄せてきて、アルマは思わず胸に縋りついた。

「あたしの名前を知ってる……。本当にお兄さんなの?」

「ああ。もう少し恋人ごっこをして遊びたかったんだがな」

 突然感情が湧き上がってきて目尻を濡らした。悲しいわけでも泣きたいわけでもないのにひとりでに涙が溢れる。

「お前は小さかったからもう覚えてないだろう。俺の真の名はアルトゥン。アルトゥン・ビリム・ブルキュット。ミウェ・クィジム・ブルキュット、お前の異母兄あにだ」

 頬を包んでいたションホルの手が髪に滑る。優しく髪を撫でられて、アルマの記憶には残っていないのにかすかに懐かしさを感じる。シャマルと旅を始めた時にもたびたびこうして寝かしつけてもらったからかもしれない。

「だけどな、ミウェ。俺を公衆で兄と呼ぶのは金輪際なしだ。お前が王妹殿下やら長公主と呼ばれたいなら話は別だが、そうでなければキジルとともにもう一度旅に出たほうが良い」

「キジルって、シャマルのこと……?」

 上目遣いに尋ねたアルマの言葉にションホルは頷いた。

「そうだ。以前の天還祭で生き別れの妹――ユェを失った代わりに、次に生贄になるはずだった俺の妹の命を救った」

 だというのに、自分が迂闊に攫われて姫神子になっているとシャマルが知ったらどう思うだろう。アルマは胸がちくりと痛んだ。

 何より胸を痛めつけたのは、自分はシャマルにとって救えなかった実の妹の身代わりなのかもしれない可能性だ。妹と過ごすはずだった日々を自分との日々に重ねているのかもしれない。そう思うと自分を通して一体誰を見ているのか、考えるだけで胸がぎゅっと締め付けられる。

「お前が王宮で一生を過ごしたいというなら俺は歓迎するが、王宮の暮らしが想像よりもずっと窮屈で味気がないのはお前ももう分かっただろう? なら“ミウェ”に戻らず“アルマ”のまま一生を過ごせ。俺だって本当はそうしたいんだ」

「お兄さんだってそうすればいいわ」

 ションホルは困ったように微笑んだ。

「そうしたいのはやまやまだが一旦即位すればそうもいかん。イパクを連れ出すのも無理な話だしな。せめて見取るまでは暗殺されないようにするさ」

 柄にもなく寂しそうな影を浮かべるションホルの元婚約者のイパクは、酒や薬に体が蝕まれている。子を孕むことも不可能であれば、自傷行為を避けるために男娼を侍らせて房事に耽らせなければたちまち正気を失う。その上、残りの命も少ない。

「幸い、王城内では好きに鳥を飼うことを許されている。ブルキュット族を再興する気概はないが、折角代々秘儀として伝わっている鷹匠の業をすたれさせるのも勿体ないのでな。手慰みにでも興味を抱いてる連中に伝えようと思う」

 アルマを心配させないための言葉であった。

「ねえ、もしあたしがまたシャマルと旅に出たら、今度お兄さんに会えるのはいつ?」

 不安が募って馬鹿なことを聞いてしまった自覚はあるが、答えが欲しかった。またすぐに会える、と。

 しかし、ションホルは無駄な期待は持たせなかった。さあな、とまるでそんな未来が訪れないかのように答えをはぐらかす。

 アルマにも分かっていた。瑛国皇帝の王妹の地位を捨てて、一介のエイク族の女と生きる道を選んだならばそうそう容易に皇帝なんかと道を交えるはずがない。これから兄のことは風の噂に頼るしかない。アルマはまだましだ。ションホルはただの用心棒の女の生死を知ることはない。

「ミウェ。ラズワルドを持ってきたか」

 ションホルは懐から首飾りを取り出した。アルマも勿論身につけている。大切な物だとオルツィイに伝えてからというもの、彼女はどんな服の上からでも必ずラズワルドの首飾りをかけてくれる。

「ええ」

 アルマも首飾りを出す。ションホルの石のほうが一回りは大きい。ションホルはアルマの持つ石に己の石の切り口を合わせる。

 二つの石がぴったりと合わさった形が羽を広げた歪な鳥のように見えた。

「これが父上の石、そしてお前の持つのが母上の石だ。キジルの持つ俺の石を合わせれば雫の形になる。俺の持つ石の形を忘れるな。お前が兄にあったという記憶になる」

 兄妹は長い年月を埋めるようにたわいのない話に花を咲かせた。

 香が切れて神官が迎えに来る。一条の光が外から差し込んできて、一時の暗闇の夢から覚めるよう促してくる。

 若い神官があまりの睦まじさに誤解して顔を赤らめた。儀式らしからぬ仲の良さを感じたらしい。

 しかし、神官が入ってきてからションホルは一人の兄から一人の帝に戻った。神官たちが恭しく挨拶を述べるのを鷹揚に答えて天斎宮へ帰っていった。

 アルマは心の中に穏やかな日差しのような熱を感じていた。

 だが、同時に隙間風のような寂しさも流れ込んでいた。輿の中からションホルの輿を目で追うと風はいっそう強くアルマの隙間を吹き付けた。

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