第九章 再会(2)
戌の初刻の鐘が鳴って、シャマルは慎重に長箱の蓋を開けた。穹廬内に気配はない。考え事をしながら少し眠ってしまったせいか意識がすっきりとしている。貢物の山に身を隠しながら、足音を立てぬよう四方の幕を回って外の音を確かめる。どうやら宝物の保管庫であるのも関わらず、衛兵は立っていないようだ。
空が闇に染まったのを確認してシャマルは外に出た。篝火は門の付近にのみ焚かれていて、穹廬や建物の入口には焚かれていない。穹廬も建物も布や木でできているため火災を恐れているのかもしれない。
拍子抜けするほど人気のない王宮内をシャマルは穹廬の影に身を隠しながら進む。人の気配のする穹廬はほとんどなく、時に母親らしき女の子守唄や装備を手入れする音が聞こえた。
赤い絨毯の飾られた穹廬のに立つ。絨毯の織り模様から、十中八九ここが正解だろうと確信してた。中から鳥の羽音と小さな一鳴きが聞こえる。鳥は己の気配に気付いたのかもしれない。
シャマルは唾を飲みこむと穹廬の扉を開ける。
「誰だ? 断りぐらいし……」
扉の隙間風に気付いた青年は、六角形の小さな卓に広げられた布を手早く折りたたんでいる最中だった。しかし、シャマルを見るなり言葉を失って速足で近付く。
「お前……、まさか……」
力加減もなしにシャマルの両肩を力強く掴む。見開かれた茶色の瞳が穹廬内の小さな灯りに照らされて揺らいだ。
「久しぶりだね、アルトゥン」
シャマルは小さく愛想笑いをする。
「本当に君が瑛の皇帝なんだ」
感情をかみ殺そうと必死になる在りし日のブルキュットの少年を見て、シャマルははっきりと互いに年月を経たのだと悟った。かつてのアルトゥンなる少年から温情の眼差しを向けられたことはなかった。人情に薄かったはずの彼に感情の潮が満ち引きが表れている。
「良く誰にも見つからずに……。いや、それはいい。奥へ来い、キジル」
「ああ。お邪魔させてもらう」
六角形の卓にもう一脚椅子を引いてきて、彼らは隣り合わせに座った。
「よく、帰ってきたな」
アルトゥン――ションホルは布を脇の箪笥に掛けると、絨毯の上から酒瓶と酒杯を二口持ち寄った。互いに乳白色の酒を注ぎ合い、飲み干した。瑛の
酒杯を逆さに向けて卓に伏せると、ションホルも心得たとばかりに杯を卓に置いた。話すことが多くある気がする。だが、二人は束の間言葉を交わさずにじっと見つめ合っていたのだった。
先に口を開いたのはシャマルだった。
「風の噂でブルキュット族の生き残りが瑛の皇帝になったと聞いた時、僕は思わず耳を疑ったよ。何せ東南の曄地方と僕たちが拠点にしているエイク族の領域とでは遠く距離が隔たれているから噂に尾ひれがついたのだと思っていた」
「ああ。噂だけなら良かったんだがな。残念ながら俺はこうしてここにいる」
ションホルは自嘲気味に笑う。
シャマルの記憶ではアルトゥンという少年は人を寄せ付けず、斜に構えており、権力に媚びへつらう者を見下すある種潔癖な人間だ。決して権力、ましてや皇帝の座など望んでいたように思えなかった。歳月が流れて彼の中で変化が訪れたのだろうかとも考えたが、この表情を見ているとやはり不本意であるらしい。
「君はこういうことには興味ないのだと思っていたよ」
「お前のいう通り今でも興味ないさ。だが、仕方ない」
シャマルの言葉を肯定してションホルは首を左右に振った。
「十三年前の天還祭の後、各部族の代表は数人が帰路の途中に盗賊に襲われて死に、数人は故郷に帰った後に不慮の死を遂げている。お前なら分かるだろう? 口封じだ。俺も故郷に帰る途中、酋長たちと馬上を盗賊の一味に襲われた。それで死人を捨てて一人おめおめと逃げたわけだ」
ションホルは両手で額を覆った。シャマルも聞いていて苦しい過去だ。シャマルの父もまた、二十年以上前の天還祭の帰りに同様の理由で命を落としている。それをなぞるような出来事が彼の身の上に起こっていた。
「俺はどうにか盗賊の網を抜けたが、馬は射られていて駄目だった。お前にボランを託して、俺は禳州の馬を代わりに使ったからそう早くもなければ耐久もない。その後は徒歩で放浪して、それ偵察中のトゥルケ族の男に拾われた」
トゥルケ族はヨルワス族と組んで当時から打倒曄を密かに掲げていた。ションホルは二族の連合する抵抗組織に身を寄せて身の上を明かした。
「運命というのは斯くも奇なりというのか、俺はそこで昔略奪された俺の母親に会った。酋長の第四夫人になっていた」
衝撃はいかほどだっただろう。シャマルには想像がつかない。死んだはずの母親の生存を喜ぶべきか、新たな部族で確固たる地位を築いている母親を恨むべきか。その頃にはブルキュット族は曄の武帝の命で殲滅させられていたため、彼は生き残りとして象徴的に反乱軍で活躍するよう両酋長からも母親からも望まれた。
「俺は何度も断った。曄は憎いが国を覆そうという意気はなかったし、ブルキュット族が滅したのは元はといえば俺の責任だ。だが、俺にはこれがある」
「ラズワルドの首飾り……。君の分は僕が預かっているはずだ」
ションホルが首元から金の散りばめられた青い石を引き出すのに呼応して、シャマルもかつて彼から預かったラズワルドの首飾りを見せる。
「お前に預けたのは俺の。俺が今持つのは父の首飾りだ。叔父に謀殺されて地位を奪われた。表向きは鷹狩の最中の不慮の事故ということになっている。晩期のブルキュットは奴の傘下だった」
だからションホルはブルキュット族が滅亡しても異母妹だけ助け出せれば良いといったのか。そして、アルマは独りでいたのか。
ションホルが首飾りを外してシャマルのものと切り口を合わせる。アルマの持つラズワルドから大方の形は予想していたが、三つの石を集めると大きな鱗のような形になるらしい。その大部分はションホルが持つ石だ。
「この石はブルキュットの貴種にのみ持つことを許された石だ。トゥルケやヨルワスは部族を再興するのは貴種である俺の義務だといった。それでも俺は知ったこっちゃないと突っぱねた」
「なら、君は何で反乱軍の首魁になんかなったんだ」
「――イパクのためだ。俺の従姉で婚約者だったが姫神子として養成されるために連れ攫われた。あいつが後宮の端でまだ生きてると知った。俺はどうしてもイパクを取り戻したかった。だからトゥルケ族やヨルワス族達とイパクを得て婚姻を結ぶ代わりに軍の象徴くらいならやると約束した。……勿論、象徴なんてただ立っていればいいだけのご身分ではいられるはずもなかったけどな。結局あいつは薬と度々の自傷行為で心を病んで姫神子にはなれなかった。俺がこの城に入った時、イパクは後宮から退けられて安楽殿という死を待つ者の館にいた。今は後宮の片隅に移したが恐らくあと数年も生き長らえないだろう。あいつが姫神子の資格を喪失した代わりにお前の――」
「ユェが選ばれたということか……」
シャマルは、ションホルの大切な者の代わりに己の最も大切な者が選ばれたことに無念を感じざるを得なかった。しかし、順当にイパクが選ばれたとしても、今のシャマルにはそのほうが良かったとは思えない。姫神子の命を天に捧げるという悪習自体がなくならない限り、いつまでもこの不幸な円環は続くことだろう。
「それでそのまま皇帝に?」
「流れといえばそうかもしれない。トゥルケ族もヨルワス族も元は数十年前に失った自分たちの領地を回復して
勢いだけで国家を崩壊させたことにシャマルは唖然とした。けれども、世の趨勢はもはや曄朝にはなかったということだ。遅かれ早かれいずこから来る武力によって滅ぼされていただろう。南方の勢力も東方三部族の更に北東の勢力もいつでも虎視眈々と資源豊富で肥沃な曄地方の没落を狙っている。
「俺は人格や政策、それに武勇を買われて皇帝の座についたわけじゃない。瑛はトゥルケ族とヨルワス族の二大勢力に殆ど真っ二つといっていいほど分かれていて、地盤が脆い。トゥルケに至っては元々階級社会で貴種の黒トゥルケとその他大勢の白トゥルケに分かれていて互いに思うところがある。俺たちは曄の皇帝を捕えて政権の影に立ち、不信を得て三年。二年前曄帝の病没に際して禅譲されて、俺は地盤が繋がっていると見せかけるため、
口の端に皮肉を乗せた顔は、十三年前と変わらなかった。
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