第八章 兄(4)

 夏の夜の風は意外に冷たくてエルデニネは小さく肩を震わせた。すぐ前を行くヨルワス族の男・ハドゥは時たま彼女を振り返るが、気遣わしいわけではなく、単についてきているか否かの確認らしい。合わない歩幅を調節しているのだから、鈍重な彼なりに気を使ってはいるのだろう。

 ションホルにエルデニネを任されたハドゥは、彼女が思ってもみなかった提案をして、同意を得る前に即座に実行に移した。エルデニネにとってみれば想像だにしなかった暴挙であったが、ハドゥは自身の閃きが精霊が耳元で囁いて授けてくれた知恵に違いないと語った。この時ほど予知能力が自在に使えていたならば、と思わずにはおれなかった。

「エルデニネ殿、もう少しすれば円丘に到着する。到着すればその不快感もすぐに流せるだろう」

 曇った表情の彼女を見て取ってか、ハドゥは勇気づけるように口の両端を持ち上げた。しかし、それだけで不安が解消するエルデニネではない。頭から被った布が落ちてしまわぬようぎゅっと掴む。

「わかりました。……しかし、うまくいくのでしょうか」

 エルデニネは不安を隠そうともせずに自信ありげなハドゥに尋ねた。ハドゥは力強く頷いて拳を掌に叩きつける。

「心配ない。俺は何度も馬で試してきている。きっと貴殿の髪も見事に染まろう。眼だけはどうにもできないが仕方あるまい」

「馬、ですか……」

「ああ。馬のたてがみを染めるかどうかは部族や部落によっても違うが、俺は自分の馬を盗まれたくなかったので目印に指甲花しこうかでよく染めていた。老人も白髪になると指甲花で染める者がある。それは頭の炎症にも効く」

「そうですか……。わたくしにはあまりなじみのない香りでございます」

 エルデニネは被り布の端を鼻先に被せた。薬効のありそうな独特な匂いが慣れなくて息苦しい。それに、馬や老人と己の髪をどう位置に扱われるのもあまり気分の良いものではない。当のハドゥがいい含めるところもなく、一切の悪気がないのだから始末に悪い。勿論、エルデニネに問答無用で働いた行為にも一切の悪気はない。それどころか、彼は上策だと会心しているのだ。

「貴殿が赤毛になったら、皆さぞや驚くだろう」

「わたくしも、髪から色がなくなって久しいので、自分で驚いてしまうと思います」

「ん。きっとトゥルナ族の女に見えるはずだ。名はニーネでどうだ」

 エルデニネは思わず小さな微笑みを浮かべた。唖然とするほどの策と、策を実行する速さだったが、不安とは別の場所で心が小気味良く揺れ動いている。

 そう、ションホルからエルデニネの身柄を預かったハドゥがまずはじめに行ったのは、彼女の銀色の髪を別の色で染め上げることであった。

 ハドゥは彼女を養花殿へ連れて行き、己の穹廬から持ってきた指甲花の葉を水で溶いてやにわに髪に塗り付けた。トゥルナ族に変装して円丘に避難しようという策である。

 エルデニネは悲鳴を上げることも身動きを取ることもできず、ただされるがまま、手際の良いハドゥにあっという間に水溶き指甲花を塗りたくられたのだった。べたべたとした不快は勿論のこと、独特の匂いも苦手である。だというのに、時を置かねば効力がないといわれ、拭い去ることもできず今に至っている。

 思えば、泥のようなものを髪につけたのは遥か昔、まだ家族の元で暮らしていた時以来ではないだろうか。水汲みや野良仕事で撥ねた泥に気付かずに家路に辿り着いた。いま、往時と同様に泥に似たものを頭に塗り付けて構わずに往来を歩いている。こんなおかしなことをこの歳になって行うとは想像だにしなかった。そう思うと鬱屈としていた胸がほんの少し軽やかに浮かぶ気がする。

「エルデニネ殿、少し待ってはくれないか」

 突然、ハドゥはエルデニネの手を引いて路地に身を潜めた。

「どうなさいましたか」

 質問に、彼は人差し指を唇の前に置いて答えた。

 エルデニネはハドゥの背中越しに通りを見る。すると、見覚えのある人物が普段とは全く違う服装で歩いている。

 ツァガーンだ。

 丈の短い上衣のしゅうに袴を着ている。曄人の町人の身なりだ。

 彼は王宮内の穹廬に住んでいるので、こんな夜に市街を歩いているのはおかしい。不審に思って視線で彼を追うと、袖の中から巾着を取り出し、玻璃の小瓶を空に掲げる。液体と草花が入ったそれは、確かドルラルの側仕のハワルが先日嬉しそうに眺めていたものとよく似ている。そういえば養花殿に来る商人の品の中にも似たようなものが毎回あるが、エルデニネは興味がなくてその商品を手に取ったこともなかった。

「……あれに手を出していたのは知っているが、期間が狭まってきているな。またどこかで手に入れたのか」

 ツァガーンの姿が完全に消えたのを見計らって、二人は通りに戻った。

「あれというのは小瓶のことでしょうか」

「見ていたか。そう。小瓶のことだ」

 ハドゥが芳しくない顔でツァガーンの向かった先を眺めた。

「あの小瓶は養花殿の出入りの商人も持って来ていましたが、香水ではないのですか」

 エルデニネの言葉にハドゥが眼をしばたいた。

「知らないのか。あれは快楽の薬だ。貴殿の隣の部屋のイパク殿はあの薬で自我を失われた。使用量によっては気分の高揚だけで済ませられるが、とても依存性の高い物だと聞く」

 ムグズもあの薬の使用者だといおうとしてハドゥは止めた。

「使用頻度が高いと厄介だ。それ欲しさに悪に手を染める人間もいるほど」

「そう、ですか……」

 エルデニネは毎夜騒がしい隣人には慣れており、無関心を装うことに成功していたが、薬で心をぼろぼろにしたのだと思うと自分の責任だと責める以上に憐みが勝った。

(養花殿は誰が薬や幻想に溺れてしまいたいと思っても責められるものではないのですから……。いえ、幻想に溺れてしまったほうが幸せということもございましょう)

 俯くエルデニネの横で、ハドゥは掌に収まる小さな布帛に何がしかを書きつけていた。

 円丘に辿り着くと、守衛の脇を通って二人は地斎宮に到着した。

 オルツィイを呼ぶと、ハドゥは正体を隠したエルデニネを引き渡す。

「側仕が一人では心許ないと思い、追加の人員を一人配備することとなった。来る時に池で足を滑らせてしまって泥にまみれてしまったのでまずは風呂に入れてやってもらえないだろうか」

 オルツィイは顔見知りのハドゥと会えたことが嬉しいらしく、肘を一直線に張り、手の甲を重ね合わせると喜んで依頼を受けた。

「かしこまりました。丁度今冥夜之儀の最中で他の神官は儀式に備えてそれぞれ待機しています。ですから、ゆっくりと湯浴みができますよ」

 オリツィイはニコリと笑ってエルデニネの手を引く。

 エルデニネは彼女がいつも嫌な顔一つ見せずにこうやって笑っていることに気付いて今更ながら後悔した。養花殿とは別の場所だから余計に感じるのか、それともハドゥに無体にされた後だったから気付いたのかは分からないが、少なくともエルデニネ自身は養花殿での彼女の奉仕を気に掛けることなく、ともすれば己が予知の時に醜態を晒したくないからと、訳も話さず遠ざけていた。

(オルツィイ、あなたは薬にも幻想にも溺れず、思いやりもないわたくしにいつもこのように接してくださっていたのですね)

 握られた手は小さいのに日々の労働でエルデニネのそれよりも荒れている。エルデニネがその手を握り返すと、オルツィイは一瞬手に注視したが、嬉しそうにはにかんだ。

「オルツィイ、俺もしばらく有事に備えてここに寝泊まりしようと思う。アルマの部屋はどこだ」

 ハドゥの言葉にさすがのオルツィイも目を見開いた。

「だめですよハドゥ様! アルマ様のへやで寝起きされるつもりですか」

「ん? 何が悪い? 今は儀式の最中でアルマはいないのだろう? それに皆まとめて守らなければならないのだから、全員一室で寝起きしてもらわねば俺も困る」

 折れるどころか問題点がまるで分かっていないハドゥにオルツィイの眉が八の字を描く。

「地斎宮は姫神子とトゥルナの神官の場所なので男性は――」

「ん。それは神官がトゥルナしかいないから自ずと女の園になっているだけだ。案じているのが夜這いなら、俺は許可なしにはアルマにはしないから安心しろ。勿論、オルツィイにもしない。特にアルマにすると後が怖い」

 引き下がるようすのない彼にオルツィイは項垂れて、

「ハドゥ様。未婚の男女が同室で夜を過ごすのはこの地方ではよろしくないことなんですよ。北方ではどうだったのか存じ上げませんが。……でも仕方ありません。衝立は立てさせていただきますからね」

とため息を吐いた。ハドゥは満足げに穏やかな笑みを浮かべて頷いた。

 そうと決まればオルツィイの行動は素早かった。きっと日常の仕事もこのようにして手際よく済ませているのだろうと想像に難くない動きで、彼女はまずハドゥをアルマが滞在する部屋に案内し、室内の衝立を移動させて片隅に小さな空間を作った。決して外に出て他の神官に見つからぬよういい含めると、次はエルデニネを風呂場に連れて行く。

 禊用を兼ねた風呂場は養花殿のものよりもこぢんまりしている。

 エルデニネはここにきてやっと被り物を外した。うつむきがちに溜められた湯の近くへ行く。顔をあげてオルツィイと対面した時、彼女は息を吸い込んだっきり驚いて一言も発さなくなってしまった。

「驚きましたでしょう、オルツィイ。騙すような形になってしまって申し訳ございません」

 先にエルデニネが詫びると、オルツィイは魚のようにぱくぱくと無言で息を吸って、数拍のちにやっと声を上げた。

「え、え、エルデニネ様……! 何故こちらに……!」

「お静かに、オルツィイ」

 エルデニネはオルツィイの唇に人差し指を当てた。

「今はニーネとでも呼んでください。わたくしも側仕の一人なのですから。……先に髪をすすいでもよろしいでしょうか」

「は、はい……!」

 追加の側仕が己の主であることにも驚いたであろうが、泥のようなもので髪も眉も塗りたくられている姿にも驚いたのだろう。戸惑ったオルツィイは狭い風呂場を一瞬彷徨って、やっと盥と布を見つけてきた。

「理由は後で話させてください。オルツィイ」

「話してくださるのですか?」

「ええ、無論です」

 湯を張った盥で流すこと数回、エルデニネは長い髪を掌で掬い上げた。西方の人間によく見る赤茶色の毛に染まっている。鏡がないので全体的にどういった仕上がりなのかは分からないが、念入りにすすいでもこの鮮やかな色彩は溶けそうにない。

 オルツィイがエルデニネの髪丁寧に布で挟んで拭く。

「オルツィイ、そのまま聞いてくださいますか」

「はい……」

 オルツィイは声色に少しの不安をにじませながら答えた。

「今までわたくしはあなたや他のトゥルナたちを遠ざけてきました。一つにはわたくしも元々はトゥルナでしたから、身の回りの世話は自分でできるということと、今一つは予知の力を見られたくなかったからなのです」

 エルデニネは一呼吸おいて覚悟を決めると続きを話す。

「わたくしの予知は突然白昼夢のように問答無用で押し寄せてきて、何事もいわずに去っていきます。良い未来だけではなく、見知らぬ地での殺人なども見てきました。一体何を見せられるのか怖くて、泣きたくなったり、吐き戻しそうになる時もあります。そういう姿を見られたり、驚かれたり、或いは不快感を持たれるのが恐ろしくてあなた方を無下に扱ってしまいました。許して欲しいのではありません。ただわたくしの自己満足で謝ります」

「エルデニネ様……」

「最初から説明すれば良かったのに、わたくしはその責任を怠りました」

 オルツィイの手がぴたりと止まる。

「そうですよ……」

「オルツィイ……?」

 声を震わせる彼女を、エルデニネは気遣わしげに振り返る。

「そうです。説明してくれれば良かったんです! 私はエルデニネ様にお仕えしたいのに、エルデニネ様の邪魔になっているのではないかと。嫌われているのではないかと。なのにしつこくずっと付きまとって呆れているのではないかとずっと不安だったんです!」

 布が強く握りしめられていて皺を形作っている。自分たちの関係性もまっすぐに張られた美しいものではなく、皺の迷路のような複雑なものだったのかもしれない。それをのばす時が来たのだ。

「許さないで良いと仰るのでしたら許しません。私にこれからはちゃんとお世話させてください。アルマ様にしたように。お世話をして、お話をして、お茶を淹れさせてください。予知からあなた様を守ることはできません。でも寄り添うことくらいなら、頑張れますから……!」

 エルデニネは己がなぜ妹のような彼女を今まで放っていたのか自分が不思議でならなかった。潤んだ眼の彼女を抱きしめようと思って、濡れた肢体に気付き、両手を取るに留めた。

「私は、アルマ様のことも好きです。でも本当の主様はエルデニネ様なのです。だから、円丘に来た時は思わず泣きそうになってしまいました。姫神子になられたのがあなた様じゃなくて良かったと、そう思ったのです……」

「オルツィイ、それは――」

「『天卜鶴典てんぼくかくてん』を覚えておいでですか? 天還祭の姫神子が儀式の最後に身を挺して神に祈りを捧げるのを考えると……」

 エルデニネはトゥルナ族しか触れられぬ聖典の存在を思い浮かべた。だが、故郷で銀髪銀眼を得た後に養花殿に入ったため、聖典の内容は他人の口承を漏れ聞く程度でしか知らない。

「どういうことですか?」

 オルツィイは首を振った。

「姫神子は最後、大神官に宝刀で弑され、天への供物となるんです」

――生贄、人身御供。

 背筋に悪寒が走る。

 エルデニネは己の予知した場面を思い出して身震いした。予知が突然命を得て生々しく蠢き始めたような気がした。

 アルマが姫神子に選ばれる予知は当たった。ならば、男性の「また奪われてなるものか」という声は何だろうか。あれはアルマが再び天還祭に参加するという意味ではなく、男性が以前の天還祭で人を失っているということではなかろうか。

 だとすると、天還祭の期間中、どこかで乱闘騒ぎが起きるはずだ。神官でも王でもない男性が祭祀に参加する期間は決まっている。遊牧七民族同盟イェッテ・カビーレの代表たちが祭祀場で天還祭の本祭である天還之儀を見守り、帝国と義兄弟の契りを更新する時に他ならない。

 だが、エルデニネはもう一人で抱え込まなくて良いことを知っている。

「オルツィイ、アルマ様をそうさせてはなりません。ハドゥ様とともに方策を考えましょう」

 今までに見ぬ主の強い想いにオルツィイは動揺を見せつつも、いわれるがままにこくんと頷いた。

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