第八章 兄(3)

 瑛帝が天還祭を執り行うと耳にした当初、シャマルは全く信じ難かった。

 瑛国から遠くハシャルの町やアク・タシュ村に伝達する過程で、噂が変容したのであればどんなにいいことかと願った。

 淡い希望は、だが、天還祭の貢物が用意されるにつれ、真の出来事なのだと裏打ちされるようになっていった。同時に、心の奥底から誰にも打ち明けようのない憂鬱が湧き上がり、まるで蔦が地面から生えるように、因縁の糸に己もアルマもしっかりと絡み取られているのだと感じた。

 曄末の王家への不信感から天還祭の衆望が高いと噂されているが、それにしてもシャマルは瑛帝だけは天還祭の実行に首肯しない自信があった。

 信じていたのである。だのに、結局執り行うというのだから落胆しかない。

 シャマルは荷馬車に併走しながら、幾度となく不安げに荷馬車を見やった。

 宗主国への貢物は祭祀の使者よりも先に到着する。祭壇の準備があるから、使者とともに到着したのでは遅いのだ。

 一行はアク・タシュ村から南東の草原地帯を抜け、大街道に途中から合流する道程を取った。神山サモ・タグの参拝路は道が広く均されているとはいえ、荷馬車での移動は心もとなかったし、参拝客の詣での邪魔になるために避けることとなった。

 大街道の整備のお蔭でハシャルの町から曄国まで馬で七日ないし八日。曄国国境から凰都までは三日ないし四日だ。出発点はアク・タシュ村ではあるが、順調にいけば十日ほどで到着する。

 気が緩んでいるわけではないが、草原地帯と低木地帯では身を隠す場所も少ないので、いつかのように盗賊の類に襲われることは少ないはずだ。大街道まで抜けてしまえば安全は殆ど確保されたものなので、一行が一先ず目指すのも大街道となった。

 宿は大街道周辺に取らねばならないが、大街道周辺の村落や部落の全てが豊かなわけではないので、貢物を盗まれぬかは見張る必要がある。シャマルの活躍の場があるとすれば、移動時よりも夜の時間になるだろう。

(十三年前、あの鹿を狩りさえしなければ――)

 シャマルは荷馬車の中には貢物の白玉しか入っていない、と己に何度もいい聞かせた。いい聞かせなくとも、ケリシュガンや職人たちと手ずから荷を運んだのだから間違いない。だというのに、この中に入っている貢物が凰都に届いたが最後、箱の中から呪いの類が流出し、悪い出来事が起きてしまうのではないかという不安が胸から離れなかった。

(いや、あの鹿を狩っても狩らなくても、奉納してもしなくても、彼女はあの時の姫神子で、結果は変わらなかった。僕が彼女を攫って逃げなかったんだから)

 荷馬車から視線を外して不安を払拭するかのようにかぶりを振る。

(天還祭……。あの祭祀に再びまみえようとするだなんて)

 脳裏に美しい少女の容貌が浮かび上がる。

 絹のように美しく輝く黒髪に無垢を集めて宝石にしたような瞳、桃のように赤らんだ頬と屈託のない笑顔。天女のようだと思った。

 シャマルはずっと彼女に囚われている。今でも心の全てを彼女に捧げてしまっている。――十三年前の姫神子・ユェに。

 十三年前、シャマルは遊牧七民族同盟イェッテ・カビーレの東を遊牧するカラ・アット族の一員だった。カラ・アット族は馬を部族の祖霊神として崇拝しており、名の通り黒馬をはじめとし、ざまざまな名馬を育てる技術に長けていた。

 当時、シャマルはキジルと名乗っており、父親が死に、母と妹は遠く出掛けたまま行方不明となっていたため、叔父を唯一の身寄りとして暮らしていた。

 十五で成人を迎えた彼は貢物に捧ぐ白い牝鹿を狩ったことで部族の代表の一人として天還祭に招待された。その先で出会ったのが姫神子・ユェだ。

 天真爛漫で少女らしい我儘さを秘めていて、シャマルはすぐに彼女に魅せられた。滞在中何度も交流を重ねた二人が互いに淡い感情を抱くには時間がかからなかった。

 天還祭が終われば、シャマルはカラ・アットの部落に戻らねばならない。これはほんの束の間の幸せであると互いに分かっていた。だが、運命は最悪の形で二人に別れを与えた。天還祭の本祭である天還之儀の日、ユェは神への人身御供にされた。

 目の前で神官に刀を突き立てられて事切れた彼女を、あろうことか神官は白い牝鹿だと称して参加者たちに振る舞った。即ち、神人共食で神の食物――神饌として姫神子の肉を分け与えたのだった。

 シャマルは逆上し神官に刀を向けた。しくじって取り押さえられようとした時、奇跡が起きた。奇しくも雷鳴が轟いて辺りを暗闇にし、白く光る鹿の霊がシャマルを守っていた。彼は隙を利用して天還祭から逃げた。そして、招待客の一人だったブルキュット族の少年から手助けの代わりにひとつの願いを託される。即ち、次の姫神子として曄国に攫われるであろうブルキュット族の少女を救出だった。

 彼も運命を天還祭に巻き込まれた人間の一人で、故に天還祭を恨んでいた。幼い時分に婚約者を姫神子の候補として曄国に取られ、またもや大切な少女を取られようとしている。少年は少女を探す目印にラズワルド石の首飾りをシャマルに託した。

 それがアルマ――真の名をミウェという。

 だが、次期姫神子隠匿は、つまるところ、次の国家祭祀の妨げを意味する。天還祭は天の神に豊穣と平安を祈る祭祀であるから、豊穣と平安の妨害である。よって、二人の若者の画策によりブルキュット族は曄武帝の怒りを買い、反乱のかどで滅されることになる。そうした大罪を隠したまま、逃走と放浪を経て今に至る。

 だからこそ、反乱軍の頭目を経て彼が王座に着いた時、天還祭は二度と催されないであろうと期待していた。これで運命を勝手に書き替えられた哀れな遊牧民を生み出さないで済むようになると。

 しかし、どういった天の巡り会わせだろうか。天還祭を忌む己が再び天還祭のために凰都へ向かおうとしている。天還祭が己やアルマを呼び寄せているのだろうか。

 見渡す限りの草原と花畑は一時辰にじかんもすると低木地帯に早変わりしていた。

 シャマルは愛馬を撫でた。

「君はどう思う? ボラン」

 ブルキュットの少年に貰い受けた愛馬から返事があるはずもなく、穏やかな風だけが彼を慰めるように頬に吹き付ける。

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