第八章 兄(5)
冥夜之儀の終わりは扉の隙間から射し込む白い光によって告げられた。
一条の光とともに神官たちが列を成してアルマを迎える。はじめ、あまりにも鋭い刺激にアルマは思わず眼を閉じてしまった。白玉洞の奥深くから地上に出た時も同じように眩しかったが、あの時とは随分とかけ離れた世界に身を置いていると思うと不思議だった。たった数週間前のことが遠い昔か、はたまた別の世界の話だったか分からなくなる。
神官たちは恭しくアルマに膝をつき、頭を垂れるとあらかじめ用意してあった
「あの、あたし自力で歩けます」
アルマを抱きかかえた年配の神官に声をかける。
「冥夜之儀の後は心身ともに儀式に耐え抜き疲弊しております。輿をお使いくださいませ」
それが慣例であると無言で従わされた気分だ。アルマは居心地悪く肩輿に乗ったまま、されるがまま湯浴みをし、これから本祭までの間に寝起きする部屋に送り届けられた。
部屋に入るとオルツィイが笑顔で迎えてくれた。ただ、心なしか笑顔がぎこちない。
「お嬢様、冥夜之儀が成功したようでなによりです。本日は一日体を休める日ですので、室内でごゆるりとお過ごしください。必要なものがあればお持ちいたします。あ、でもお食事は斎戒のため自由には出来ないのですが」
神官たちが下がると、彼女はアルマを部屋の中に押し込むように入れて、扉をそそくさと閉めた。いつもてきぱきと働き者ではあるが、どうも気ぜわしい。
「オルツィイ、慌ててどうしたの?」
「お話は奥まで進んでからにいたしましょう」
しぶしぶ頷くとアルマは正面の寝台に座った。
朱塗りの柱に白壁。この部屋も他の場所と同様の造りだ。
円丘全体の建物がこの色で統一されているのか、或いは皇帝の斎戒に使用する天斎宮は皇帝用にもっと豪華な造りになっているため地斎宮だけなのだろうか。朱と白の色合いは鮮やかだが、神域の一部と考えると、それにふさわしく装飾は王宮に比べると清貧とも取れた。壁に沿って開かれた衝立も、黒漆に清楚な菊花を螺鈿であしらっていたが、養花殿のそれと比べるとひどく地味に感じる。
「で、冥夜之儀というのはどうだった、アルマ」
衝立の奥から尋ねられて、アルマは肩を飛び上がらせて驚いた。
「ちょっと待って!」
アルマは寝台から降りると、まるで壁際を隠すように垂直に据え置かれた衝立を動かした。はじめ、荷や日常品の目隠しと思われた衝立の奥に布団を敷いて胡坐をかくハドゥを認める。
「ハハ、ハドゥ様ぁ!? どういうこと!?」
「ん。辛い儀式だと聞き及んでいたが元気そうだ」
ハドゥは一見武骨な顔を穏やかにほころばせる。彼は意外と繊細に人の機微を観察している。経験からではなく、あくまで種野生の勘のようなものだ。
「ええっと、儀式は退屈で辛いというか……。ううん、でも曄人には慣れなくて怖いのかな。オルツィイのいっていた通り遊牧民には屁でもないよ」
「お嬢様、お言葉遣いがよろしくないと思います」
オルツィイが頬を膨らませながら背の高い女性とともに茶を運んできた。乳のように甘い香りが鼻の前に漂って、無意識に張りつめていた肩の力が抜ける。
「そうなんです。実はハドゥ様と、もう一方が内密で同室することになりまして……」
「ええ。よろしくお願いします。アルマ様」
困り顔のオルツィイの横から澄んだ薄緑の茶が差し出される。鼻孔いっぱいに花の甘い香りが充満する。
「有難う……?」
茶杯を受け取って声に詰まる。
「えっ、エル……」
いいかけたところで、アルマは唇の前に人差し指を出され、制される。
「ニーネ。ここでのわたくしの名前です。アルマ様、あなたの側仕の一人です」
「ニーネ、さま……? その橙色の髪はどうされたんです? 似合ってますけど」
アルマは色々な感想や言葉を手渡された花茶とともにぐいと飲みこんで尋ねた。茶杯に二杯目が注がれる。
「有難うございます。貴女が戻り次第経緯をお話ししようと思っておりました」
「ん。オルツィイも来い。アルマ、ここではエルデニネ殿のことは敬わずにあくまで側仕の一人として接してほしい。ニーネ“さん”かニーネだ」
ハドゥが腰を起こして衝立の奥から出て来る。オルツィイはしきりに扉の方を気にしながらエルデニネとアルマの後ろにしゃがんだ。
「まず一昨日の晩の事件だ。オルツィイはまだ知らないだろう」
ハドゥが落ち着いた声でサィンの死を切り出した。オルツィイは盆を床に落として両手で顔を覆った。主達こそ反目しあっているが、彼女たち自身は良き友にして良き
「サィンはエルデニネ殿を出し抜こうと不在を狙って忍び込んだが、運悪く彼女と間違って殺された。恐らく下手人は以前に養花殿の元四阿に忍び込んできた刺客と繋がりを持つ者だろう」
共通してエルデニネを狙ったことから容易に想像しうることだった。
「以前の刺客は牢に繋がれていると聞いたけど、裏で手を引いているのが誰か分かったんですか?」
アルマの質問にハドゥは悩ましげに首を振った。エルデニネがどこか他人事のように話を聞きながら啜り泣くオルツィイの背中を摩る。
「いや。軍でも拷問にかけたがなかなか口を割らない。あれ以上やれば舌を噛み千切って死ぬだろうと今は取り調べを中止にしている」
「それはわたくしが皇上に商人の件をお伝えする以前のお話だと思いますが、その後もまだ中断のままでしょうか」
今度はエルデニネが尋ねる。
「俺も父より聞いている。後宮を解散騒動の折に商人から懇意の旧曄臣に嫁がないかという打診がエルデニネ殿にあったが、その実反曄倒瑛のための旗印に貴殿を使おうとしたという話だった」
「そうです。目論みの漏洩によりわたくしは命を狙われているのだと……」
「それは正しいだろう。エルデニネ殿を口封じのために殺す可能性は大いにある。逆に、王妃でもないエルデニネ殿を殺す目的は単純に考えると口封じと予知の封殺、またはエルデニネ殿に目を向けさせておいて真の目的である別の人物を狙うことになる。別の人物というのは大方王ということになるが」
「でも皇帝は今まで狙われたことは――」
「ああ、殆どない。だから現時点での目的はエルデニネ殿だ。外堀を崩してその後に王を狙う手も考えられるが。貴殿は自覚がないかもしれないが信仰を集めやすいからな」
「信仰……?」
オルツィイが赤い眼でハドゥを見やる。
「銀髪、白い姿、預言者、預言の巫女、予知夢、千里眼……。どれもどこの世界でも伝説や民話で受け継がれてその聖性を信仰されている。もしくは反対にその聖性ゆえに権力者や嫉妬に駆られた者によって悪魔に仕立て上げられる。そういう特別視されやすい者を王が娶れば面倒なことになる」
アルマが旅の途中で聞いた民話や伝承にも銀の乙女や白き乙女などの話はままある。多くが伝説的な魔術師や巫女であることが多い。
「そっか。旗印にしようと思ったのに断られてしまったけども、今度は逆に瑛の旗印にされるかもしれないから都合が悪いんだよね」
確かに、皇帝の妻ということで象徴的な扱いになると信仰の対象になりうるだろう。
「市中の商人や曄の旧臣を取り調べる話は以前から出ているが、即位して間もないうちに王が権力を振りかざして無理に商人や貴族の屋敷を暴くのは悪手だ。貴殿はまだただのトズ。皇城の養花殿に住んではいるが、別に王の手つきがあったわけでもなく特別ではない。王妃や王の側室のためなら無理に屋敷を暴くこともできようが、そうでないのならむやみに敵を増やすだけで国として得策ではない」
「なら、エルデニネ様を襲った相手はずっと宮城や市中をうろついて安穏に日々生活しているってこと?」
恐怖の種を植えつけられた側の人間からしてみればとんでもない話だ。しかも、死人まで出ている。
「そうだな。安穏かは分からない。だが、正しき道理をのらりくらりと躱して私腹を肥やす人間はいつの世にも少なくない」
「やっぱり程駿様と謝初安様が影で糸を引いてるのかな」
ハドゥはその言葉に反応して眉を顰めた。
「何故そう思う」
「養花殿ではそういう噂が流れてるよ。曄の旧臣だから瑛にとっては獅子身中の虫だって」
「ええ、トゥルナでもよく耳にします」
オルツィイも同意したが、ハドゥは首を振る。
「確証がない」
噂というものは火のないところに煙は立たぬというではないか。納得がいかず、アルマは唇を尖らせる。
「それに、この間の夜、あたし聞いちゃったんだ。ツァガーン様がハワルに刺客が旧曄臣だったっていっていってたこと……」
アルマは養花殿の夜を思い出して打ち明けた。ハドゥは腕を組んでしばし考え事をした。
「その噂は信じなくても良い。ツァガーンは女性には口が軽い」
腕を解くと、彼はそれ以上ツァガーンとハワルの件に言及することはなかった。無理やり話題から引き離されたように。
「それで、俺たちがここに来たわけだが、昨日、エルデニネ殿がまた襲われた」
「えっ!?」
思わずオルツィイと声が重なる。視線をエルデニネに注ぐと、彼女は思い出したくもないようで憂鬱に肯定した。
「オルツィイ、アルマ様。養花殿の塀の向こうに小屋があるのは知っていますね」
「オルツィイが入らないように注意してくれた小屋、だよね……?」
オルツィイがこくこくと頷く。
「その小屋への門が開いていて、御花園にいたわたくしは偶然小屋の住人――
エルデニネは御花園で起こったことの経緯を話した。話す際中彼女はしきりに喉元を摩った。思い出すだけであの老人に馬乗りになって首を絞められたのを思い出すのだ。
「ん。それで一人にするのも不安だから俺がここに連れてきた」
自力で説明するのが辛いようだ。言葉に詰まって押し黙るエルデニネを待たずにハドゥが話す。
「
一石二鳥だというハドゥ。
「あ、あたしも守ってくれるんだ? ハドゥ様。でもあたしは自分の身は自分で守れるよ」
守られるという立場がこそばったくて思わずはにかむ。
「ん。ア……、お前たちはションホル、と呼んでいるのだな。ションホルからアルマを頼まれている。神子としてではなく一人の女性として守ってほしいと。大切な女性だといっていた」
歯の浮くような台詞を斜に構えたションホルがいうとも思えないが、アルマは恥ずかしくて思わず赤面した。ションホルに対してではなく、それを周囲の状況も考えずにさらりといってのけるハドゥに対してだ。周りの二人もションホルとアルマの関係を疑ってか、涙を引っ込めて頬を赤くしている。
「お嬢様、ションホル様といつの間に……!?」
「なってない! なってないよ!?」
オルツィイが顔を赤くしながら焦ったようすでアルマに問い詰める。そういえば、彼が夜に部屋を訪れたことは誰にもいっていない。
「で、ですからあの晩もションホル様とご一緒だったのですか」
エルデニネまで事件の晩のことを邪推される。
「あれはションホルが強引に……」
言葉の選び方を間違ってしまい、言葉端だけで勘違いしたエルデニネが両手で口を押えた。
「連れて行かれただけでやましいことは何もしてないっ!」
夜に一緒にいたのは確かなのだが、二人が怪しむようなことはなかったし、これからもないとアルマは考えている。しかし、うまく二人の邪推を否定できない。こうなると分かっていたならば事前に別の想い人がいるとオルツィイにくらいは話しておけば良かったのかもしれない。
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