第七章 転機(4)

 天還祭は本来一年を通して行われる。故に天還祭の代表に選ばれた神官は一年神官の別名を持ち、一年間祭祀に従事する。

 姫神子の人選は前の祭祀が終わる前後に決定され、祭事の土地である禳州じょうしゅうで教育を受ける。これが曄代までのしきたりだ。

 瑛では要所を踏まえながら独自の方法に変更される。儀式は皇城と円丘で行われるのだが、細々とした祭祀を一日に複数こなすことで期間が短縮された。

 祭祀の衆望が過度に高まり、本祭・天還之儀まで十分な準備期間を取れぬためでもあったし、皇帝が程駿と謝初安を凰都から放逐したために曄代から王宮に仕えていた文官たちが出仕を渋って人員不足に陥っているゆえの措置でもあった。

 円丘の中央には天に祈祷する円丘壇という円形の野外祭壇が設けられており、白大理石の欄干が三段ある。その頂上には円形広場があり、中央には礎石のような四角い大理石が大人のくるぶしの高さほどに突出している。

 周囲には皇帝が斎戒するための天斎宮や姫神子が禊や祭祀をしながら寝泊まりする地斎宮、北側に三角錐をした三色の瓦屋根を持つ祈天殿。他にも儀式を準備するための堂宇が幾つか建てられている。

 姫神子の務めはあらかた円丘に設けられた地斎宮で行う。

 地斎宮内に引かれた水場で沐浴を済ませたアルマは真っ白の襦裙に身を包み、朱色の帯を締めて、初めての儀式に臨もうとしていた。

 案内役のツァガーンは円丘に着くやいなや、役目は果たしたとさっさと帰ってしまった。皇城における祭祀の担い手はトゥルナ族なのだから違いあるまい。

 冥夜めいや之儀。初めての儀式は姫神子の最終考査とも呼ぶべき儀式だそうだ。別段難しい行為はなく、暗夜を呪術の施した地斎宮の一室で過ごせれば良いという。明け方まで眠ってはならないという制約付きだが。

 この儀式は真の姫神子であれば何事もなしに過ごせるそうだが、偽の姫神子であった場合は気が狂ってしまうらしい。一体如何様なものを以てそうなるのかは秘匿の儀式で口外無用のため知らされない。呪術を施しているというから、相応しくない魂を追い出すような術がかかっているのだろうかとアルマは首を捻った。不合格となった場合は卜占で出た条件下から次に近似する人物が選ばれるという。

「お嬢様はきっと大丈夫でございます。何といっても天還祭の姫神子というのは不思議と遊牧民の血脈から排することが多いそうです。勿論、例外はあるようですが」

 オルツィイの根拠のない励ましにアルマは苦笑した。

 夕刻になるまで早い晩餐を取る。今日から精進食のため食卓に肉が上ることはないという。

(瑛の料理って味が薄くて食べた気にならないけど、この精進食ってやつは輪をかけておなかに溜まらないなぁ。眼でご飯は食べられないからなぁ)

 銀の脚付き盆に載せられた食事はそれぞれ青磁の小碗に盛りつけられている。主食の粟の他、刻み野菜の湯葉巻、根菜と蒟蒻の煮物、金針菜の炒め物、干し豆腐のたれがけ、山菜の和え物、髪菜と銀杏の炒め物、芋のすりおろしに棗など、美しく並べられた盆は感嘆するものであったが、量は慎ましく、ひとたび箸でつまめばたちまち胃の中に消えてしまう。野菜から滲んだ出汁があっさりとした優しさで口の中を潤わすが、複数の香辛料が混じりあった香ばしい味に慣れているアルマには物足りない。

 咀嚼の回数を増やして腹に溜まるよう念じる。すると、シャマルと数日に及ぶ仕事をする際にはいつも干し肉を用意して、小さな切れ端を咀嚼し続けた記憶が頭の端から蘇って離れない。

(はぁ。香辛料のきいた、できれば白い蝋のような脂がじゅわって滲み出る熱々の肉が食べたい……)

 ため息を吐いて箸を下ろすと、数人の女性が来て膳を下げていく。おかわりなど許されるはずもない。この者たちは全員トゥルナの女性で養花殿には住んでおらず、円丘にて奉仕しているそうだ。

 食事が終わると再び沐浴させられ、アルマはオルツィイと数名のトゥルナの女神官に導かれて冥夜之儀が行われる部屋に向かった。

 地斎宮は白壁と朱塗りの柱で出来ていて、儀式部屋の扉も同じく朱塗りだ。厳重にかんぬきがされて、錠までついている。儀式用の部屋にむやみに立ち入らせぬためと、加えて儀式中の姫神子が勝手に部屋を飛び出さぬようにしているのだろう。

 トゥルナの神官がアルマに目隠しをつける。

「さて、お嬢様。儀式は他言無用となっております。この中で見聞きしたことは他の者に一切喋ってはならない決まりです。勿論、わたくしにもお話にならないでくださいませね」

 オルツィイの言葉に頷く。と同時に、木製の扉がぎいと音を立てて開けられた。優しく背中を押されて前に進む。目隠しされて感覚が鈍っているせいか、誰が背中を押しているのかは分からない。

 扉の中に進むと体に幕がかかった。恐らく儀式の部屋を見られないよう入口に張っているものだろう。香が焚きこめらえているのか、香木の清澄な香りが漂っている。

「目隠しを外させて頂きます。どうぞこのまま前へお進みください」

 どうやら背中を押していたのは神官らしい。オルツィイは共に入室していないようだ。衣擦れの音がして、こめかみの圧迫感がなくなると、神官たちはそそくさと退出し、扉を閉めた。錠の音がする。

 目の前は真っ暗である。手を伸ばすと、ここにも大幕が吊り下げられているようで、アルマは幕を潜って中に進んだ。

「――うわっ!」

 思わず息を飲んだ。

「な、何これ……。これが、冥夜之儀……?」

 背筋にぞわりと悪寒が遡って来た後、鼓動が早くなるのを押さえながら、アルマは眼前の光景に目を見張った。

 背の高い燭台が天井高く設けられたひな壇を照らす。ひな壇の上には山羊と水牛の頭がずらりと並べられている。焦点の合わぬ目は故意に部屋の中央に向けられ、眼光を失った玉眼は燭台の光をむなしく照らし返す。

「しゅ、趣味が悪いわ……」

 アルマはごくりと唾を飲んだ。近付いて観察してみると、息を吹き返しそうなほど生々しい。しかし、無造作に、小さく開いた口は動物が死んだ際のそれにそっくりである。ずらりと並んだ生首の剥製を眺めながら、何故歴代姫神子が殆ど遊牧民出身の少女だったのか理解した。

 薄暗くて気味は悪いが、見慣れた光景だ。

 一度にこんなに大量に屠殺することはまずないが、重要な儀式の時や運悪く家畜が冷害などで死んでしまった場合には何頭かの死骸が並んだり解体される場合がある。それでなくとも遊牧民たちは儀式の度に生贄に動物を捧げる習慣を持つ者たちが少なくない。一つの部族に長く滞在することのないアルマでさえシャマルとの旅の中で幾度も目にしてきた。

 それに比べて養花殿の女性たちや曄人などは一度に家畜を屠殺するのを目にすることも珍しいだろう。神への捧げものも大極宮で見たように穀物や野菜、それに果物だ。見慣れぬという点から比較すれば、確かにこの部屋の様相は異様で恐ろしいだろう。

「……百五、百六、百七、百八っと」

 とはいえ、慣れた光景だと悟ってしまえばアルマにはもう驚きも恐怖もない。朝が来るまでの時間を持て余して剥製の数を数えるも、すぐに終わってしまう。部屋をうろうろしたり、今後の展望を想像したりするがどうにも暇である。誰か話し相手でもいれば良いのにと思ったが、無理な話だ。生首に話す気は起こらない。

 そうこうしているうちにアルマは自然と船を漕ぎ始めてしまった。

(う……、寝ちゃ駄目だって分かってるんだけど……)

 何度も頭を振って眠気を遠ざけようとしたが、引き寄せられるように眠りの世界へ没入してしまった。

 次に目を覚ました時、アルマ船に乗っていた。

 船頭もおらぬのに、船はひとりでに川を下り、緑の繁った小さな中洲の群れを次々と通り過ぎる。空を見上げる。翡翠色の空に桜色の雲が流れている。不思議な色をしているが、天気は良い、と何故だか思った。

 はっきりと姿を認識できないが、周囲には鳥や狐、栗鼠や鹿などが生息しているのが分かった。

 ここがどこかは分からなかったが、夢なのだとアルマは悟った。儀式の最中に眠ってしまってこんな夢を見ているのだと考えた。にしては、暗闇も生首のはく製も出てこぬ美しい夢である。

 この船がどこへ向かっているのかは分からないが、自然と不安はなかった。手を伸ばせば中洲の木々にも、水にも触れることができた。だが、触れていると知覚できても感触はない。夢だからだろう、とアルマは片付けた。

 滑らかな水質の清らかな水面を眺めていると、やがて大きな魚影が見えた。

「何だろう」

 船から首を伸ばすと、恐ろしく長い魚影が船底をかすめるようにして川を逆行していく。どんな大魚にしても長すぎる。

「魚じゃない……?」

 振り向いた時にはもう魚影はなかった。船は全く揺れず、もっと水中の奥深くへ潜り込んでしまったのだろうか。

「どこへ行くの。そっちで良いの?」

 己の意思とは別に、アルマは魚影に向かって尋ねていた。もう影も形も見えないというのに何故語りかけるのか、と俯瞰しているもう一人の自分が指摘する。

 ハッと目が覚めた。

(やっぱり、夢……。寝ちゃってたんだ)

 辺りを見渡すと元の部屋だ。山羊と水牛の頭の剥製が陳列され、部屋の中は暗い。どの位時間が経ったのかは分からないが、耳を澄ませても部屋の内外はしんと静まり返っている。夜はまだ明けていない。

 アルマは先程の不思議な夢を思い出す。だが、たった今見たはずの夢なのに、美しい世界にいたことしか記憶に残っていなかった。小首をかしげるも、夢というものの性質自体が夢のように簡単に霧散するのであるから仕方ない。

 アルマは諦めると、再び朝までの長い時間をどう過ごそうか考えあぐねるのであった。

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