第五章 似せ絵(6)

 早めに眠らなければ次の朝にしわ寄せが行くのを理解しながら、アルマはしばらく寝付けなかった。仰向けになった寝台の天井絵はもうとうに見飽きてしまって一体鳳凰が何匹描かれているのか、牡丹が何輪描かれているのか記憶してしまっている。

 ハドゥの語った天還祭の習慣や事件、手配書の似せ絵、どれも脳裏をちらついて離れない。事件を身近に感じないのに、どうしても誤飲した川魚の骨のように心の端にちくりと引っかかる。誰にも相談できる話ではない。知らずと胸に綿埃のような何かが降り積もって閉塞させられているようだった。

「外の空気でも吸おっか……」

 アルマは身を起こして部屋を出た。すぐ外が回廊なので風に当たるには便利だ。雨の日は廊下がびしょ濡れになることもあったが、日が照ればすぐに乾くので気にならない。高貴な家の生まれでもなければ、服を汚してそこいらを駆けるのに慣れているので例え回廊が水浸しになろうが何の感慨も湧かないだろう。むしろ毎日木の葉一つ残さず清潔に保ってくれているトゥルナたちに感謝している。

 アルマは風に当たりながら深呼吸をした。

 夜の深呼吸は月や星が照らす清浄な空気が体内に入ってくるような気がする。ぐっと背中を逸らせたのち、欄干に凭れかかる。陶作りの欄干で亀甲枠の中に様々な花が彫られている。夜の暗闇の中でもそれは美しい。その穴の一つに膝頭を乗せて楽な姿勢を取る。良い足がかりになるなと考えてしまう時点で、養花殿の良妻賢母になるための教育はあまり身についていない。

(シャマルの本当の名前は何ていうんだっけ。多分出会った時はシャマルじゃなかった気がする。でもある時にシャマルと呼ぶよういわれた……ような……、そんな気がする。それであたしも本当の名前を隠して“アルマ”を名乗り始めた)

 さすがに己の名前を忘れることはなかったが、シャマルの本名は幼すぎたせいもあってもう覚えていない。彼が頑なに本名を隠すようになったからだ。

(それが“キジル”だったのかな)

 そう考えるとそうかもしれない、と思えてくるのが不思議だった。行方不明人として捜索されていた少年が十五歳、それから十三年経っているのを考えると、少年は二十七歳から二十九歳だ。もしも二十八ならばシャマルの年齢に丁度合う。

(それに、あたしの昔の記憶。シャマルがあたしを迎えにきた記憶。あたしは一人ぽっちで叔父さんたちの穹廬に入れずに積み藁と寝ていたのを覚えてる。あれはブルキュット族が滅びる前ってことだよね)

――僕と一緒においで。

 そういった少年時代のシャマルの顔が段々と似せ絵と同じに思えてくる。考えれば考えるほど事実が符合する。そうやって自分があてはめているのに違いないのだが、それにしては本来の回答であったかのように辻褄があうのだ。

(シャマルを疑うわけじゃないけども、だったらシャマルは何であたしを迎えに来て、同じラズワルドの首飾りを持っていて、兄に頼まれただなんていったんだろう)

 彼に悪意があるとは到底思えない。悪意があるならば長い歳月の途中で幾らでもどうにかできたはずだ。それどころか血縁のない自分を庇って傷を見繕うこともない。

 疑ってはいけないのに胸の奥に湧き出た靄がアルマの瞳を濁した。

(ううん、だめだめ! あたし考え込むことに向いてないんだよね)

 両手で頬を軽く叩いて、もう一度深呼吸する。

 目を閉じて星の瞬きを聞く。草原で野営する時はよくそうしたものだ。本当に星の声が聞こえるわけではないが、五感を澄ませて自然の音に耳を傾けると心が落ち着く。

 ふと、自然の営みの間に物音が聞こえた。動物にしては足音が規則正しい。人だ。アルマは気取られぬよう慎重に欄干から身を離す。

 耳を傾ける。数は二人。今度こそ先日養花殿を襲撃した不審な人物の一味かもしれない。

(足音はゆっくり。でも少し周りを気にしてる……?)

 時折足音が止まる。ひそひそと何言か話している。アルマは息を潜めて忍び足で近付く。場所は養花殿の北側。北側は奥の部屋の窓と壁しかない。二階は例の嬌声けたたましい部屋のはずだが、今は声が聞こえない。寝静まっているのだろう。

(この間の男はエルデニネ様を狙っていた。ということは外から二階に侵入してエルデニネ様の部屋に向かう可能性と、あとは捕まった仲間を脱獄させる可能性があるかな)

 アルマは考えることが苦手だったが、今までの護衛業から導き出した経験則には自信がある。月に照らされて伸びる影を隠そうと腰を屈める。きっと相手は警戒している。影がよぎっても梢がしなっても身を隠してしまうだろう。

 しかし、建物の北端まであと十歩足らずを残したところで、足音の主が若い男女であることに気が付いた。断片的に漏れ聞こえる会話から聞き知った声がする。

「お会いしたかったです」

 女の声に男が同調した。

「いつまでもこうしていられたらどんなに良いでしょう」

 衣擦れの音がして、唇が鳴る。

(これは――!)

 アルマは両手で口を押えて息を殺す。

 紛れもない男女の密会だ。

(オルツィイがいってたのはこのことだったんだ)

 落ち着いて鼻からゆっくりと息を吐く。

 声の主はツァガーンだ。ハルたちと共にいないと思っていたら、あろうことか養花殿に忍び込んでいたのだ。そして、隣にいる女はドルラルの側仕ハワル。

 ツァガーンが夜養花殿を訪れるというのはハワルに会いに来ていたのだ。彼女は何らかのきっかけで二人の関係を知ったのだろう。

 にしても、トズ族ではないとはいえ、養花殿の女性と逢瀬を迎えるのは皇帝への裏切り行為とはならないのだろうか。ションホルは双子は女好きだからと目こぼししているようだったが。

「ハワルちゃん、これあげる」

 ツァガーンが何かを手渡すと、ハワルは感激のあまり声を上ずらせた。

「玻璃の小瓶! 草花が中に入っていて可愛らしいですわ。有難うございます、ツァガーン様。これは香水ですか?」

「んーん。それは魔法の水。疲れた時とか嫌なことがある時に飲み水に一滴垂らして寝たら気持ち良くなるんだよねぇ」

「まあ! それは本当に奇跡のようですわね。結構なお品を」

 所で、とハワルは声を落して不安げに話しかける。

「先日の刺客の正体が分かったと聞いたのですが、やはり曄人なのですか」

「ああ、それねぇ……。あまり公にしないよういわれてるから誰にも内緒にしてほしいんだけど、実は曄の旧臣らしいんだよねぇ」

「まあ怖い」

「旧臣の誰に頼まれたかは口を割らないんだけどねぇ」

「もしや程駿様と謝初安様は嫌疑を免れるために配下に奉納物を壊させ、都合よくお暇を頂いて凰都を出奔なさったのでは?」

「んー、穿ち過ぎかなぁって思うけど可能性としてはあるよねぇ。特に駿は旧臣の中でも猛将軍に仕えてたから、将軍を車裂きの刑に処した俺らを仇に思ってても仕方ない」

「そういえば程駿様は猛将軍のおいいつけで平帝逃走後のお世話をされていて、身罷られた後ご実家にお戻りなさったのを今上帝がお召しになられたのでしょう?」

「うん、そうそう。引っ張り出すのに苦労したんだよねぇ。トゥルケ族は間諜を生業としているから信用できないって結局ハドゥが説得して」

 猛将軍というのは曄代末期の大将軍で武帝の寵愛を受け、数々の戦に連勝を上げてきた人物である。最期は平帝より玉璽を奪い、簒奪者として現王朝に処刑された。放浪しているアルマですらその噂はよく耳にしていた。程駿がそういったいわくつきの人物に仕えていた事実は瑛国内で不穏とみなされても仕方あるまい。

「って、他の男の話よりもたまにしか会えないんだから俺のこと考えてほしいな、ハワルちゃん」

 二人の唇と唾液の音がしてアルマは両手で耳を塞いだ。結局覆面の一味ではなかったのだから、いつまでも二人の逢瀬の邪魔をすべきではないとそろりと場を後にする。自室の戸が開け放ったままなのが幸いした。両開きの戸を軋ませないようゆっくりと閉じる。途中で何度か戸がきいとか細く鳴いたが、夜の虫や鳥の声にかき消されるよう祈るしかなかった。

(それにしてもあの二人が……。ドルラルの側仕でお堅そうな印象だけど、案外そうじゃないんだ)

 うつ伏せになりながら二人の顔を想像すると、現場を目撃したわけではないのにこっちが恥ずかしくなってくる。同時に、想いが通じ合う者同士はとても幸せそうで、アルマには心底羨ましかった。

 考えるべきはそこじゃない。アルマはかぶりを振って自身にいい聞かせた。

(そうじゃなくって、覆面の男のこと。旧曄臣に雇われた曄人か……。何故エルデニネ様を狙うのかな。狙うなら普通皇帝だよね)

 養花殿に来た日、刺客を前にトゥルナやトズの女たちはエルデニネを皇后候補第一位といっていた。しかし、まだ皇帝の手がついていない女にそこまでの価値はないはずだ。そう考えると彼女の異能――予知を利用したいのではないか。

(曄人が予知の能力を手に入れたがっている……?)

 そういう線ならあるかもしれない。アルマは体勢を変えてごろりと仰向けになる。

 予知能力を持つ女、しかも端麗な容姿の持ち主だ。手に入れさえすればどのようにも利用価値を見出せるだろう。予知能力が想像よりも曖昧でエルデニネ様本人にも委細が知れぬことも公にしなければ漏れはしない。或いは、予知能力ごと皇帝の手駒になりそうな人間を消そうとしている線も捨てきれない。

 ならば何故、最も命を狙われやすい皇帝は――ションホルは狙われないのだろうか。刺客を送り込んだ曄の旧臣は瑛国を覆す気はないのだろうか。

――王宮の曄人は獅子身中の虫ですわ。

 以前にドルラルが程駿を評した言葉だ。トゥルナ族やトズ族の帰属意識が曄にも瑛にもないからこそ出た言葉だろう。

 旧曄臣の中に曄朝再興を影で掲げている人物がいる。とすれば、皇帝も命を狙われてきているということになる。

 ただ、ションホルに命を狙われているかと尋ねたならば、皇帝というのは常にそういうものである、と答えるだろう。

(ションホルのことはきっと衛兵や側近のハドゥ様が守っているはずだよね。あたしは少しエルデニネ様のことを気を付けてみようかな)

 先日エルデニネと話したことで親近感を抱いていた。側仕を傍に置きたがらない彼女のことだからいらぬ世話に違いなかったが、長らく用心棒をやっていた癖かもしれない。

(こんなことばれたら、シャマルは首を突っ込むな、やめておけっていわれるんだろうな)

 心配性な兄を思ってアルマは苦笑した。彼の口うるささを思い出すと、途端に安心して眠気が襲ってきた。



 穹廬の骨組みに張った紐に蝋燭がぶら下がっている。火が揺らめき、壁や床に飾り付けられた数々の絨毯を照らす。人、家畜、花、生命樹、神話……多岐にわたる細かい図像が織りこまれていた。真っ白で味気のない天井とは全くの別世界だ。

 扉が開き、夜の心地いい風が穹廬内を撫でた。入室してきた黒髪褐色の男を見上げて、ションホルは気だるげに手にしていた書簡を置いて寝台から身を起こす。いつでも就寝できるように寝台の横に机を移動させていた。

「早く閉めろ。風で紙が飛ぶだろう」

「すまない」

 ハドゥが謝って扉を閉めた。しっかりと閉めきったのを確認すると、彼はションホルのする横に椅子を運んだ。

「鳥は随分と育ったようだな」

 ハドゥは扉を一瞥して頬を緩める。喜怒哀楽に乏しく見える男だが、表面上だけで人並みの感情は持ち合わせている。彼は大極宮の前でションホルが世話をしている三羽を指していったようだ。ションホルも口の端を上げる。

「だろう。此度の遊牧七民族同盟イェッテ・カビーレには稀なる射手がいないようだからな、大祭の一番手は俺のものってわけだ」

 ションホルは声を上げて笑う。

「で、程駿や謝初安のようすはどうだ」

「ああ、これを見ろ。鳩の足に巻き付いていた」

 ハドゥは懐から小さな紙を取り出した。広げてみると、掌を台にして書いたのであろう。歪で読みにくい文字が走り書きされている。

 ションホルは手紙の内容を読むと表情に色をなくして両手で目を覆った。深く息を吸い、一拍ののち吐き出すと、手紙を空中の蝋燭の炎で燃やす。

「大丈夫か」

 ハドゥが気遣わしげな視線を送る。ションホルはじりじりと燃えゆく小さな紙切れを見つめていた。

「ああ、問題ない」

 燃えかすを足でにじり、塵にすると、彼は再び寝台に戻る。

「ハドゥ、やはり内通しているようだ。以前から怪しいと思っていたが確実であったならば処断しなくてはならんな。いつまでも泳がせておけぬ」

「曄人と密通していたか」

 ションホルはこくんを首を縦に振る。

「正直俺は手を下したくない」

「無理もない。これまで仲良くやって来た。腹の裏は分からないが少なくとも共に辛酸を舐めてきた仲だ」

「馬鹿みたいだ。助けられてきたし感謝もしているのに斬るしかない、か」

「俺も同じだ。これは俺らがどうにかする。お前は皇帝に祀り上げられた重荷を背負っている。それに比べれば手を汚すことくらいどうってことはない」

 ハドゥの言葉に、ションホルは、すまん、と呟いた。眉間には深く皺が刻みこまれている。望んで皇帝に立ったわけではなかったが、大会議イェケ・クリルタで長老たちに指名されてなってしまったからには仕方がない。瑛において多数決は重要なのだ。それに、大体にして建国直後の皇帝の役割は古い膿を出すことだ。

「こういう時にしか俺は役立たない。こういう時は武官であって良かったのだろう。多分」

 ションホルはくすりと笑った。

「俺はあんたを文官に推したけどな。じじいたちが皆して反対しやがったんだ」

「なら、余計にお前のために応えてやる恩義がある」

 ハドゥは苦悩を払ってやるようにともがらの背中を叩いた。

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