第五章 似せ絵(5)
天九閣は中央区画の東向こうにある庭園の一つに建てられている。
王宮共通の黄色の釉薬が塗られた瓦屋根に、黒檀色の木材。睡蓮の葉が浮く小さな池のを迂回すると玄関が。正面奥には三層の楼閣があり、左右に翼が伸びて口の字型になっている。
天と地を繋ぎ止めるように書架が巡らされ、そのすべてに後世に伝えるべき重要な書が保管されている。
(うわっ……)
アルマはハルとハドゥの二人に連れられ天九閣の敷居を跨いだ。養花殿に比べて随分小さな建物だが、書架にみっちりと詰め込まれた書の類を仰ぎ見ると思わず口が開いてしまう。建物が見合っていないのではないかという疑念が生まれるほど、ここは書で埋め尽くされている。
「ここは書庫の一つで王宮内には他にも幾つかの書庫がある」
書物の海の中から果たして天還祭の関する文書は発見できるのだろうかを考えあぐねていると、ハドゥが適当な本を書架から引き抜いて開く。
まだ書架の一つも調べていないのに、アルマは途方もない疲労感を覚えた。
「
楼閣の奥に入るなりハルが玄関正面の長机の椅子に凭れかかった。
「あと火気厳禁、酒気もだめ。アルマちゃんは飲まないとは思うけど」
つまり灯りもいけないということだった。
「分かった。夜目は利くから大丈夫。まず目録っていうのに当たったほうが良いんだっけ……」
短い時間だ。アルマは気を引き締めてとりあえず傍にあった書架の書物を開いてみる。手に取った書には占いや皇帝が取るべき人民への礼節などが書かれている。占いのことがあるので天還祭の記述もなかろうかと紙をめくるが、祖先の祀り方や祭祀の用具が書かれているだけで、目的の内容は見当たらない。
隣の書を手に取ってみると、これまた皇帝の徳についてや先祖の祭祀方法が書かれていた。分類はされているようだ。この書架は皇帝のあり方に関する注釈が主らしい。目録の棚はあるのだろうか。
唸っているとハドゥが隣に立っていた。
「何を探している」
「天還祭に関する書物よ」
「そうか」
ハドゥは頷くでもなく、そのままアルマの元を離れて別の書架に行った。
アルマは世間話の一環だろうかと首を傾げたが、自分も同じように書架を移動する。仮にしっかりと分類されているのであれば、恐らくこの書架には目的の書物はない。思い切って違う棚を探したほうが正解に近づくだろう。
アルマは一つの棚から数冊を取り出しては目を通し、大まかな内容を把握していったが、なかなか天還祭のみの記述は見つからない。祭祀については様々な本があったが、通年の宮中行事と重なるものが殆どだ。
もしやこの部屋にはないのではと思うと焦りが滲み出てきた。ああでもないこうでもないと独りごちながら書を見ていると、またハドゥが隣に立っている。
「見つかったか」
アルマは首を左右に振った。
「何を知りたい」
ハドゥが愛想なく尋ねた。ハルはアルマを見張りもせず長机でどこかからか引っ張り出してきた書物をさして興味もなさそうに捲っているが、彼だけは書架の前にいる。双子に比すると表情が鷹揚でないので正確な感情を読むのが難しいが、もしかしたら協力してくれるのかもしれない。
「武帝時代の天還祭がどんなだったか。ちょっと養花殿で噂を小耳に挟んだものだから気になって」
「祭祀の仕方か」
「ううん、経過とかその後起きた事件の記録」
ハドゥは須臾、沈黙してアルマの二の腕を掴んだ。
「ん、外」
そのまま外へ連れ出される。さすが武官なだけあって、掴まれた二の腕が痛い。出ざまに彼はハルに目配せする。別の部屋に移動するのでついて来いの合図だったようだ。
「祭祀の経過や記録は歴史の棚にある。“史”の棚は西の部屋」
「有難うハドゥ様。でも腕を放してもらえると助かるかな。痛いわ。この掴み方、敵の動きを封じる掴み方でしょ。あたし、今日はハドゥ様や書架を殴るつもりはないから安心してね」
二の腕を掴んでやや上に抑える――昔ボティルに体術を教わった時にかけられたことのある業だ。これ以上剣や拳を振らせないように腕の動きを封じるためのものだ。
「すまん。つい癖で」
ハドゥは照れながら――とアルマは認識した――手を放した。さすが武官なだけあって力が強い。アルマは痛みのあまり無意識に腕を摩ってしまう。
西の部屋はハドゥがいう通り曄代に起こった事柄をつぶさに記録している書物が保管されている。
「ハドゥ様は天九閣に詳しいのね」
「ハドゥは時間が余ったらすぐここに来るもんなぁ」
「俺は爺様方の話す伝承や神話が好きだから、物語を読みにここにくる。本当は文官になりたかったが父や叔父に反対された」
ハドゥはぱらぱらと手に取った書物をめくる。
「文字の読み書きも出来るようになったが武官だといわれた」
武骨な外見からは想像がつかないくらい愛おしそうなに文字を追う。書物が好きなのだ、とアルマは意外に感じた。
「まあハドゥみたいに武術の才に恵まれてたら武官にしたがるのも分かるわな。俺やツァガーンにはまだこの先もいけるって野生の勘はないもんねぇ。この先行くと危険って匂いは嗅ぎ取れるけどさぁ」
ハルの言葉にハドゥは残念そうに肩を落とした。
「俺は古老の伝承や神話を集めている。伝承や神話には民族の歴史と血潮が流れている。伝承や神話を辿ると芋づる式に歴史がついてくる。そういうものをまとめる仕事は俺にぴったりだと思うのだが……」
「多分そう思ってるのハドゥだけだよね」
ハルが追い打ちをかけるとハドゥは顔を俯けて残念がった。アルマは笑ってごまかしながら別の書架に移動する。
曄代は最後の哀帝を入れて十五代の皇帝から成るのだが、国の正史とされる『曄書』は一部が書架に並んでいるのに、肝心の武帝の父王の時代から先がない。武帝の時代は最盛期であったといわれるが、末期は混乱期でもあったので未だ執筆途中のまま完成していないのかもしれない。
他にめぼしい書物はないものかと辺りを見回した時、壁面に止められた数々の似せ絵が目に入った。
「ねえ、これ何?」
アルマが尋ねると、二人は背後に立って壁をしげしげと見つめる。
「ああ、それ以前の手配書だねぇ。まだ掃除できてなかったかぁ」
「手配書?」
「そうそう。お尋ね者。曄の皇帝が捕まえようとした人間の似せ絵。今の王様が殆ど恩赦にしたけどねぇ」
ハルが壁を撫でた。半数以上は破かれたり、墨でばつ印がつけられているが、幾つかは往時のままである。似せ絵の周りには墨書で名前や特徴、何をしたかが書かれている。窃盗や殺人を犯した犯罪人や、行方不明の人物など様々な人物が描かれている。
「恩赦の分とまだ捕まえないといけない分と判別しにくくなっちゃうから、本当は綺麗に剥がしておかないといけないんだけどねぇ」
ハルはそういって墨でばつ印を書かれた一枚を破り取った。
ふと、天還祭という文字が目に入った。
「あっ、これ……」
すっかり暗くなった部屋の中で、目を凝らしてみると、行方不明人と書かれた少年の似せ絵がある。
「あっ、その人は今も捜索中だから剥がさないでねぇ」
ハルが制す。アルマは書かれた内容を見て唾を飲んだ。
『行方不明人。黒馬族。天還祭に於いて第一名を獲得する。祭りの中失踪。茶色の髪と目をしており、成人、齢十五なり。弓を得手とする。』
似せ絵には十五歳らしい少年の顔が描かれている。短い前髪にきりっとした眉、目鼻立ちに極端な誇張はなく、曄北の地帯を探せばどこにでも居そうな人物だったが、何故だかシャマルを思い出してしまう。
名前は『克孜爾』と書かれている。『キジル』の音写だ。
(名前は違う……)
そう思ったが、尋ね人であるからには自分のように名を変えて生きている可能性は高い。
(そういえばシャマルはあたしと違って本当のエイク族だったっけ……?)
十三年もともに暮らして、それすらも知らないことに愕然とした。
「ねえ、何でまだこの人を探しているの?」
「んー、それは王様に聞かないと分かんないねぇ」
「今皇帝が探している理由は分からない。でも曄帝が探した理由なら分かる。多分」
ハドゥがいった。
「その男は天還祭の一番手。一番手は天還祭の大神官になる。天還祭を取り仕切る義務を負う。祭りを終えた後、一年神官として生贄となる。昔からそういう約束。だから今後の天還祭のことを考えて曄帝は天に選ばれた一番手を探してた。そう思う」
「そういやぁ養花殿の離れのムグズおじさんは次の大神官になる予定だったんだっけぇ?」
アルマはオルツィイが近寄ってはいけないと忠告した離れを思い出した。養花殿の壁の向こう側に居る人物はそういった経緯を持っているようだ。
「ん。でも皇帝は大神官の存在を許し難く思っている。今度の大神官は御身自らされるよう変更された」
「そりゃそうだよねぇ。両脚を切断されて神性を得る代わりに養花殿での女犯を許されるってのは俺も趣味じゃないなぁ。ムグズおじさんはまだ斬られる前だったから良かったよねぇ」
「だが、快楽の薬を飲み過ぎて自我を失った」
ハルは皮肉げに口の端を上げると、手中の似せ絵を折りたたんで破いた。曄の国家祭祀である天還祭は想像していたような豪華絢爛で神聖なお祭りというよりは、ひどく原始的で血腥い儀式らしい。
「あの!」
アルマは思い切って二人に尋ねることにした。めぼしい書物を探し当てられそうにもなかったし、きっと刻限はもうすぐだ。
「ブルキュットの悲劇っていうのが前回のお祭りの後にあったと聞いたのだけども、何か知らない?」
「それがお前の調べものか、アルマ」
ハドゥが聞き返す。
「うん……。皆殺し事件を興味本位で知りたくなったとはいい出せなくて聞きづらかったの……。あまり気分の良い話じゃなさそうだし」
「そうだよねぇ。この噂好きぃ! って軽蔑されちゃうかもしれないもんねぇ」
ハルの口調は陽気だったが眼は冷めていた。
「曄の皇帝は俺らを“動物の姿を借りた神を信奉している人間”じゃなくって、ずばり動物そのものだと思っているのか、すぐに絶滅させようとするからやんなっちゃうよねぇ。以前はビュレ族、今度はブルキュット族。俺らトゥルケも半壊するほど痛い目にあったわ」
聞くべきではなかったとすぐに後悔する。陽気とは程遠い声音にアルマはぎくりとした。一体どれだけの怨嗟が秘められているというのか。否、曄を打倒するまでの紆余曲折に血も涙も流れないはずはない。特に彼らは王の側近なのだから、辛苦も人一倍だろう。
「ハル、怖がってる。アルマはトゥルケ族の内紛には関係ない。ヨルワスは武人、トゥルケは密偵。職業部族である上での内紛と裏切りは天の気まぐれ。仕方のないことだ」
「仕方ないで家族を殺されたらたまったもんじゃないけどねぇ」
「過去を知ることは辛いが悪いことではない。アルマは人を傷つけるために興味を持つ娘ではないだろう」
ハドゥが手を伸ばしてアルマを己の方に寄せると、ハルは元のにやけた顔に戻って、ごめんごめん、と謝った。アルマも迂闊に古傷を抉ってしまったことに陳謝した。
「ん。確かに曄のしたことは許されない。ブルキュット族の殲滅などもってのほかだ。だが、曄には重要だったのだろう。何せ二番手の血縁の女が手に入らなくては天還祭は行えない」
「どういうこと?」
「天還祭は大神官ともう一人、姫神子が二人で執り行う。第二に素晴らしい貢物をした者の血縁の少女が次回以降の姫神子として後宮に入る習慣があった。さっき一番手が大神官になるといったが、大神官は姫神子を生贄として神に捧げる役割がある。両脚を断ち、人を脱却し、聖なる存在となった大神官にのみ行える儀式だ」
ハドゥはこの知識を書物からではなく人に聞いたといった。
「ブルキュットは二番手唯一の血縁の少女を曄の使者が迎える前に他の男に略奪された。丁重に少女を保護しなかったブルキュットの者たちは祭祀の重要性を理解していないと怒った。罪を贖う機会を与えられたが己の部族を大事に思うあまり、人買いから買った子供を差し出し、それが明るみに出た。曄はブルキュットに恭順の意思なし、反逆の意図ありと見做し鏖に処した」
宗主国に反逆したとしてブルキュット族は滅ぼされてしまったのか。アルマは自分がいたはずの部族に複雑な思いを抱いた。ひどいと悲嘆するのは簡単だが、悲嘆にくれるほど部族を身近に感じていないのだとハドゥの話を聞いて自覚してしまった。どこか遠くの話のような気がする。
かといって、哀れに思わぬほど他人の話ではない。その中には己と同じ血脈を持つ親族たちや生活をともにした仲間たちが沢山いたはずだ。もしかすると乳をくれた女なども居たのかもしれない。
一つ気がかりがあるとすれば、唯一記憶に残る歳の離れた兄のことだ。いつも一人ぼっちでいた己の傍に兄はよく来て語らってくれた。だが、幼い記憶は曖昧で、己が彼を思慕していたこと以外、姿かたちは勿論、声や話し方も覚えてはいない。まるで己の作りだした幻影かのように、ただ優しかった影だけが微かに頭の奥に残っている。
「残酷な話だが、兄弟国とはいえ、曄にとっては国の繁栄と平和のための貢物を拒否した反乱者とみなされたのだろう」
「有難うハドゥ様。書物は見つからなかったけど、知りたいことは大体分かった、かな」
アルマが礼を伝えると、丁度漏刻門の鐘が鳴った。
道中、漏刻門の扁額が掲げられた門を通らなかったので、王宮のどこに位置するのかは不明だ。かん、かん、と鐘を叩く音の大小から、天九閣のすぐそばでないことだけは予測できた。
「それじゃあ行こっかぁ」
ハルが破いた紙を懐に入れる。表面上さっきのことはなかったかのようににこにことして見える。それが却ってアルマを不安にさせているとは知らずに。
二人はアルマを養花殿の前まできっちりと送り届けた。アルマの身を心配してではない。彼女が二人の目をすり抜けて再び天九閣に戻らないようにだ。
夜も更け、養花殿は寝静まっている。ハシャルの町ではこの時間、まだ酒場に男たちが溜まっていることもあるのに、この王宮ときたら守衛以外は静かに夜の淵に沈んでいるようだ。その代りに朝は日の出よりも前に起こされるので少しの夜更かしも許されない。漏刻門の鐘で時間がきちんと管理されている。
「そういえばさぁ、アルマちゃん」
「何でしょう? ハル様」
先程の緊張が解けないせいでよそよそしく返事してしまった。
「何でブルキュットのこと気になるの?」
「それは……、養花殿で噂を聞いて気になって……」
「ふぅん」
アルマは、あ、と思った。先程の冷たい視線だ。
「何か縁でもあるのかな?」
「まさか……」
感情の全てを射抜くような目に覗かれて、思わず顔を逸らす。
「そっかぁ」
顎を指で押されてハルの顔が近付く。
「もし王様を陥れるために何か探ってるんだったら、俺、女の子でも容赦しないよぉ」
ハルは羽虫を叩き潰した時のような嫌悪の顔をして、口元だけ歪に笑っていた。アルマはこういう表情をする人種を知っている。目的のためなら人殺しを厭わない人物だ。
息が詰まる距離でこくこくと何度も頷くと顎から指が放れた。
ほぼ同時に、先を行くハドゥがいらぬちょっかいをかけぬように注意した。ハルは軽口を叩きながらハドゥの元へ駆け寄ったが、反対にアルマの胸は恐ろしいほどに波打っていた。遠くなる彼らの話し声を見送りながら、自室の戸の前で暫く動けそうになかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます