第五章 似せ絵(3)

 夜の帳が降りて、虫や夜鷹の声が養花殿を満たす。蝋燭の灯りは消え、部屋は濃紺の闇に包まれている。欠けた月の光が緑青の格子窓に降り注ぎ、おぼろげなまだら模様を落している。

 オルツィイは側仕たちの大部屋に戻り、アルマは自室の寝台に横たわりながらラズワルドの首飾りを胸元から出した。夜闇で青色も金色もまるで識別できない。

 寝台からは星空は見えない。凰都の空はハシャルの町や野営した草原と違って星が少ない。王宮は守りのため、夜も絶やさず火を焚いているから星が隠れてしまっているのだろう。

(シャマル、心配してくれてるよね……?)

 同じラズワルドの欠片を持つ兄。もう何日会っていないのだろう。

 宮廷暮らしに慣れたわけではないが、オルツィイとの仲は以前よりずっと親密になったし、今日は機織りでドルラルに褒められもした。ろくに書けなかった文字も今ではまがりなりに形になってきている。

 たった数日だが、目まぐるしく過ぎる日々がアルマの持つ確信を段々と薄くしている。シャマルは心配しているはずだ、きっと探し当ててくれるはずだという自信が、現実を目の前に疑問に変わってきている。

 アク・タシュ村やハシャルの町から遠く離れた凰都の自分を、例え迎えに来たところで王宮に容易に入ることは出来ない。

 それに、もしも皇帝の御手付きになってしまったらどうしようかと考える。

 シャマルは王に怒りをぶつけるだろうか。自業自得だと自分を叱るだろうか。それとも丁度良いといってこのまま嫁入りさせるのだろうか。

 それよりも、彼はまだ己を探してくれているだろうか。

 義理の兄妹という名目だけで何の繋がりも持たない事実がアルマの不安を駆りたてる。首飾りを服にしまい、ぎゅっと抱きしめて身を丸めた。

 目を瞑ると、どこかしらからコツコツと靴音が聞こえてきた。

 やけに緩慢な足音だ。足音は彩雲の間からやって来た。用を足したトズの誰かが部屋に戻るのだろうかとも思ったが、足音は躊躇するように廊下を行ったり来たりしている。居室が分からぬ養花殿の住人などいないだろうと思うと肝が冷えた。

(まさか、また不審者?)

 もう少し足音を観測しようと目を瞑り続ける。部屋には武器になるようなものは置いていない。体術は咄嗟の護身程度ならばできるが、武人に力尽くで来られたら敵わないだろう。

 足音を探りながらアルマは武器にできそうなものを考えた。寝床の天蓋を支えている柱を壊して武器にするか、銀の盆を盾がわりにして攻撃するか、あまり現実味のない案だけが水泡のように浮かんでは消える。一番手っ取り早いのは侵入された場所と反対側に逃げて身を守ることだと頭の片隅に置きながら。

 やがて足音が止まった。

 ぎいと僅かに軋んだ音を立てて東側の扉が開く。

(この部屋に入ってきた……!?)

 侵入者はつかつかと歩み寄ると寝台の上に座った。床に靴が脱ぎ捨てられた音がする。アルマは完全に侵入者の先手を取る機会を逃してしまった。

 だが、ここにきて一つの可能性を思い出した。

――彩雲の間から各居室へ向かう中央の道は王が通われる際の道なんです。

 初日にオルツィイが教えてくれたことだ。

 侵入者はアルマに覆いかぶさると、落ち着いた声音で囁く。

「参ったぞ。今宵はお前が相手をせよ」

 熱い吐息が耳にかかり、アルマは目を強く瞑った。寝たふりで誤魔化しきれる訳はなかったが、怖くて目を開きたくなかった。

「狸寝入りしても無駄だぞ。速やかに夜伽せよ」

 はっきりと用を告げられてアルマは覆いかぶさる男に両腕を突きだした。

「ごめんなさい! 絶対人違いです!」

「何を言う。ここは一応俺の後宮ということになっているから人違いなどあるものか。俺だって臣下にいわれて仕方なしに参ったので乗り気ではないのだ。伽の記録係も外に置いてきた。互いのためにも速やかに終わらせるが良い」

 男はアルマの両腕を掴んだ。どうしようと思ってアルマは目を見開く。白い布を頭部に巻きつけ、目と眉、それに鼻筋だけが露わだ。眉を顰めた彼の言葉に嘘はなく、本当に本意ではないのだろう。

 だが、夜伽をしないという選択は無いらしい。腕を寝台に押さえつけると、男はアルマの帯を解いた。

「待ってください! あたしこの間ここに来たばかりでまだ何も分からなくて――」

「関係ない。ここに入った時点でもう後宮の女だ」

「あたし、ウシュケ族と間違えて連れてこられたけど、本当に違うんですって」

 抵抗したいのに意志とは反対に腕の力が抜けていく。男の手足がアルマの上に重くのしかかる。貞操を失うことが現実を帯びてきて、声が枯れたように喉から出ない。

「やだっ! シャマル……」

「故郷に好いた男がいるのに売られてくるのはここではままあることだ。その男の名を呼ぶのを許すから観念するがいい」

 男がアルマの胸元を暴く。白い双丘の間にごろりとラズワルドの首飾りが転がる。首飾りを見た瞬間、男は色を失ったかのように黙りこくり、二の句が継げないでいた。

「お前、一体どこでこれを――」

 アルマはラズワルドに釘付けになっている男の隙を見つけて殴りかかった。

「ばかっ!」

「あっ、こら、やめろ」

 男が顔を庇う。庇った腕を殴ったところで、己の拳の方が痛い。不公平だとアルマは感じた。

 一瞬でも暴力的に支配されたことが無性に腹立たしい。体を支配していた恐怖が和らいでくるのと入れ替わるように怒りが足元から頭まで立ちのぼってきた。知らぬ間に涙が頬を濡らしていた。

 アルマは拭うこともせずに頭元にあった木製の枕を投げつけた。枕は男の頭にまともに当たり、彼の顔を覆う布がずり落ちる。

「あ、あなた――」

 アルマは顔を隠そうとする男に飛びかかった。先程とは反対に、男の両腕を掴んで開く。

「ツァガーン様じゃない!」

「何でツァガーンになるんだ。良い眺めだなアルマ。くそっ」

 ラズワルドの首飾りが男の鼻先に当たって、アルマははっとした。寝台の隅で肌蹴た胸元を隠す。

「何であなたがいるの、ションホル」

 きっと睨み付けてアルマは男――ションホルを責める。彼は気まずそうに剥がれた布を再び頭に巻き付ける。

「何でといわれても、そのままの意味だ」

「そのままって……」

「俺が瑛の大君長。曄風に言えば今上帝、ということだ」

「ええっ!?」

 目の前にいる鳥飼が、トズやトゥルナに軽蔑されているような男がこの国の新しい皇帝だという。嘘をついて養花殿に忍び込んだことを正当化しているのかもしれない。アルマはじっとションホルの瞳を覗き込む。

「なら、ツァガーン様は何?」

「は? ツァガーンは文官だ」

「そうじゃなくて、ツァガーン様が夜、たまにこちらにおいでになるのは皇帝だからじゃないの?」

 ションホルはため息を吐いた。

「噂になっているのか。大方ここの誰かに恋慕しているのだろう。あの双子は女好きだからな」

 忍んで恋をしているということか。オルツィイの言葉を最後まで確認しなかったことが悔やまれる。

「それよりも、その首飾りは一体どこで手に入れた」

 ションホルが手を伸ばそうとして、アルマはその手をぴしゃりと振り払った。

「触らないで! 大切なものなの!」

 彼は手を引っ込めてそれ以上聞かなかった。代わりに、

「それは貴重な代物だ。誰にも見せないで大事にとっておくことだな」

 とアルマの胸元を指さす。

「いわれなくてもそうするつもりだよ」

 余計なお世話だとアルマは眉根を寄せた。

 ションホルには養花殿の四阿で助けられた恩もあり、正義感が溢れる誠実な人物だと思っていた。粗野な面は男性らしい武勇だと思えば合点が行く。トズたちが見下すような人間ではなく、彼女たちの閉鎖的な視野の狭さからくる誤解だと信じていた。だが、今のことで少なからずともアルマにとって信頼に足る人物ではなくなってしまった。

 しかし、トズたちは皇帝は養花殿に通っていないといっていたが実際は何度も姿を現していることになる。

「ねえ、あなたが皇帝だってみんな知らないの?」

 帯を締め直したアルマの疑問にションホルはさほど興味なさそうに答える。

「俺の正体は口外無用だ。ただの鳥飼であったほうが都合が良いからな」

「でもただの鳥飼だったら、皇帝に何かお話ししたい時に困るじゃない」

「俺が皇帝だと分かれば媚びへつらい心にもない虚言で身を包む輩が増えるだけだ。それに皇帝はご意見箱ではない。どうせそのうち露顕してしまうのだから、今暫くは鳥飼として動きたいのだ。その方が大衆の瑛に対するどろどろの本心を聞き出せるだろう」

 ションホルは不敵に笑った。美形ではないが整った顔立ちをしていて、頼りがいがある風貌だに思えたが、外見に反して彼の心はさほど爽やかではないようだ。むしろ、毒を持った男だ。

「そうかもしれないけど奏上する相手が見つからないと困るよ!」

「高官は皆知っている。知らぬのはトズとトゥルナ、それに下級官だけだ」

「あたしだって王様に伝えたかったことがあるんだから!」

「ふん、折角の機会だ。聞くだけ聞いてやろう」

 聞くという態度ではないので、アルマは腹立たしかったが、この機を逃せば彼は皇帝ではなく鳥飼として過ごすだろう。それに、こういった態度を取られたほうがいらぬ期待をしないで済むのかもしれない。アルマは人差し指を立てた。

「一つ、あたし、ここにはウシュケ族の女性として掠奪されたようなんだけども、あたしはエイク族。後宮に入りたかったわけじゃなくて手違いで来てしまったの。だから開放してちょうだい」

 次いで中指を立てる。

「二つ、書庫で調べ物がしたいから、婦女入るべからずといわずに入らせてちょうだい」

 薬指を立てる。須臾、本当に告げるべきか迷ったが、ままよと三つ目を話す。

「最後に、エルデニネ様が予知夢を見たと仰っていたよ。あたしが天還祭の渦中にいて、危機に陥るって。恐ろしい予知だったから、早く王宮を出たほうがいいって……」

「あの女は好かん。名前も聞きたくない」

 エルデニネの名前を聞いて、ションホルは顔を顰めた。

「予知などという曖昧模糊な能力に縋って危機感を煽るのは愚かにもほどがある」

「でもこうして忠告してくれたよ。対策を講じることだってできるでしょ」

「委細分からぬまま無駄に人員を割けるはずがあるまい。元より、天還祭の守りは予測不能な事態にも対応できるよう強化するつもりだ」

 ションホルの頑なな態度にアルマはむっとした。

「ションホルってば石頭だね」

「何とでもいえ。俺は聞くだけ聞いてやるといった」

「王様だからすぐに何とかできるんじゃないの」

「そんなものはまやかしだ。皇帝はただの据え置かれただけの首だ。一人では頷くことも手を振ることもできない。多くの官の力をもってやっと手足舌を動かせる。独りでに決済を下した皇帝が平穏な世を作れたなら、そいつは生まれながらの天の王か、或いは聖なる仙の類だろう。俺は独りでは真の皇帝にななれぬ」

 怒りやひねくれているからいっているのではないのだと熱い眼差しが主張していた。アルマは押し黙って彼の瞳の奥の熱を感じ取っていた。

 ションホルが靴を履いた。

「興が冷めた。今宵は退散するとしよう」

 彼は急に体温が下がったかのようにそっけない物言いをして立ち上がった。今までの友好的な態度が見る影もなく消え去ったような気がして、アルマは思わず声をかけなければと思った。しかし、何と声をかければいいか見当もつかない。直感で気まずい雰囲気だからと明確な理由も抜きに繕う言葉を見つけられるはずもなかった。

「一ついっておこう」

「何よ」

 ションホルはわざと感情を抜いた語気で話した。そういうことも本当は出来るのか、とアルマは驚いた。

「俺の許可なしに他の男のものになるな。例えツァガーンやハルでも許さん」

「はぁ?」

「俺の手がついたものと思え。近く住処を移ってもらおう。勿論、お前をここから解放するという意味ではないがな」

「ちょっ……」

 アルマの返答を聞かず、ションホルは元来た扉から去っていった。足取りは真っ直ぐに養花殿の外に向かっているようで、来た時のような迷いは感じられない。

 部屋に取り残されたアルマは投げつけた枕を引き寄せて、元あった位置へ腹立ち紛れの力任せに押し付けた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る