第三章 養花殿(2)
皇族貴族というのは常に人に傅かれて生活をしているのだろうか。何かにつけて複数の側仕が身の回りに付き、何かにつけて行動の補助をする。取るに足らぬ動作の一挙動一挙動、側仕が先回りして手助けをする。
余計に時間と手間がかかるのではないかと思うが、それが彼女らの勤めで、こういったまどろっこしいことで生活の糧を得ているのだと考えると口を挟むに挟めなかった。否、正確には一度口出しをしたが、側仕のオルツィイにやんわりと断られてしまった。
アルマは湯殿で三人――正確にはオルツィイを加えて四人の女に囲まれながら湯浴みをした。
湯殿は白を基調とした造りで、藍色の草花が描かれた陶板が細密に貼り付けられている。中央に段差があり、浴槽は八角形の星形を象っていた。中心には丸い井戸のような設備があり、中から湯が常に溢れ出ている。どこからか温水を引いているのだろう。溢れた湯が浴槽外縁の溝を通って地下に流れていく。
アルマは陶製の椅子に座らされながら、三人の女に服を脱がされ、湯を浴びせられ、体をこすられた。
「お嬢様、こちらの首飾りはなくしては大変なので私があずかっておきますね」
「あっ、それは大切なもので――」
言いきる前に女たちがアルマの姿勢を正す。乾いた果実を袋に入れて砕き、水で揉むと泡が出た。アルマは全身それで清められ、水分を拭われると、最後に頭からつま先まで香油を塗布される。ほのかに花の気高い香りがしたが、例え薄らとしか塗布されていなくとも違和感がある。想像以上にべったりした気分になるし、体が重苦しい。
だが、それだけでは終わらなかった。
香油が肌に染みて乾き始めた頃、今度は三人が衣装を持ってきて内衣、中衣、襦、裙、飾り帯、簪をてきぱきと着せた。赤丹色の襦裙の上に翡翠色の
「さて、着付けが終わりましたら、元の部屋でお待ち頂きます。後宮・
オルツィイが預かっていたラズワルドの首飾りをアルマに掛ける。首飾りが戻ってきたのでほっとしたも束の間。湯殿の女たちは玄関まで促すと恭しく頭を下げ、アルマたちを見送ってくれた。
回廊を戻りながら、アルマは必要以上に礼を尽くす背後の女たちを気の毒に感じた。アルマとて貴人であるわけでもなければ、何もしていないのだから。
「そのエルデ何とか様のところにはあたしから挨拶に行かなくても良いの? 何とか殿の代表なんだよね? 偉い人なんじゃないの」
アルマが尋ねると、オルツィイは点頭しながら、はいと返事した。
「ご安心ください。エルデニネ様は養花殿に来たばかりの方を煩わせるといけないのでといつもご自身がいらっしゃるのですよ。皇帝の後宮へ来るということがどういう心労を生むか、エルデニネ様はいつもお気遣いなさっています。ですから、お気になさらずに」
そうして最初の部屋に戻った頃、祭りの日のように荘厳な音楽が後宮内で奏でられていた。
「エルデニネ様がいらしているのですわ」
オルツィイが焦りがちにいった。
アルマは先程とは打って変わったようすに驚きを隠せなかった。
女たちの嬌声は静まり、鈴、笛、弦の楽器が何重にも層を成して奏でられている。
旅の途中、祝祭日に旅芸人が街中で演奏するのはよく目にしたものだが、後宮という箱の中で奏でる音は音の逃げ場がなくて耳に負担がかかる。特にアルマが居た部屋の付近は天井が吹き抜けているせいか、音の反響が一段と大きい。
どうやら件のエルデニネがいずこかに出歩く際は、斯様にして楽器隊が音を演奏するらしい。そうやって周囲に彼女が来たことを喧伝する役割があるのだろうか。或いは、演奏することで敬わなくてはならぬほどに彼女が貴い人間であるということなのだろうか。どちらにせよ過剰な演出だ。アルマは両手で耳を塞ぎたくなるのを耐え忍んだ。
「エルデニネ様、この
オルツィイがエルデニネの前に傅いた。
噴水前に集まったたくさんの人物の内、誰が件の人物か紹介されなくても、アルマには一目で分かった。アルマだけではないだろう。仮にシャマルに選ばせても、ボティルやケリシュガンに選ばせても、誰もがたった一人しか選ばないだろう。それほどまでにエルデニネという人物は異彩を放つ美人なのだ。
「トズ族のエルデニネと申します。この
「はじめまして。アルマと申します……」
圧倒する美しさに思わず声が上ずった。
楽器隊の音も、周りの色も全て霞み、一帯にある全ての光を集中したようだった。
銀糸を集めたような髪に滑らかな白磁の肌。神像の玉眼のような大粒の瞳。伏せがちなまつ毛にほっそりとした手足はさながら絵巻物の女賢人か仙女に似ている。
彼女は胸元にだけ花の刺繍が入った黒の襦裙に白い
「これから養花殿での生活にお困りのことがあればオルツィイに申し付けくださいませ。彼女からわたくしに上申するでしょう。しばらくオルツィイをあなたの側仕にいたしましょう」
「お、お気遣い有難うございます」
目の前がちかちかと光るようでアルマは息を飲んだ。すると、エルデニネとアルマの間に別の銀色の女が割って入る。
「あら、エルデニネ。後宮の主づらをするのはおよしになってくださる?」
豊かな巻き髪の女性だった。エルデニネと同じ銀の髪に銀の目をしている。口調と同じく彼女の目尻はきつく吊り上っており、華やかで美しいながらも厳しい印象を与えた。脇にいる側仕の少女に大きな棒付きの扇を仰がせているからかもしれない。
エルデニネが絵巻の仙女だとすると、こちらは女僭主。或いは王妃然としている。
「そうですわ。ドルラル様こそ至高のお方」
「ええ、エルデニネ様は異能を笠に着すぎですわ」
ドルラルの取り巻き兼側仕の少女たちが口々に主を自慢する。
エルデニネは神像のようにわずかにも動かぬ表情で呆れて息を吐いた。
「ドルラル。わたくしは養花殿の古参だと申し上げたのです。主とは一言も申しておりません」
「古参だとわざわざ主張されるところが婉曲に主だとおっしゃっているようでいやらしいのですわ」
ドルラルと呼ばれた女性の取り巻きが「そうですわ」と口々に肯定する。
「いくら曄平帝の皇后第一候補と謳われようが結局お手付きなさらなかったのですから、誰が古参で誰が新参かは関係ありませんのよ。皆が平等ですもの。無用な自己紹介は新しく入ってきたこの方に混乱を抱かせますわ」
「そういった過去の事柄こそ無用であると思います、ドルラル」
「あら、失礼いたしましたこと。そうですわね。瑛帝は曄哀帝より禅譲されてから一度もこちらにはお目見えになっていませんもの。それどころか誰もそのお姿を知らせあそばせませんわ。過去の栄華は無に等しくございますわね」
エルデニネは何も答えずにドルラルから視線を外す。無視をされ始めたと思い込んだドルラルは眉を顰めた。二人が日常的に不仲であることが容易に察っせた。
両者の輪の中に無理やりに入れられたアルマは如何様に言葉をかければ良いのか、或いはかけないほうが良いのか考えあぐねて視線を右往左往させる。
「なんとまあ、恐ろしいな後宮というのは」
脇で見ていたらしい男が呆れ声を上げた。
「トズ族は孔雀族とも呼ばれているようだが、孔雀というのは毒蛇を食らうんじゃなかったのか? だが、毒蛇とはまるでトズの女たちのようだな。毒に浸りすぎて自ら毒を出すようにでもなったのか」
茶色い髪に布を巻いた男だ。巻布から長い三つ編みを一本出し、肩にかけている。布の上には黄緑の小鳥がちょこんと乗っている。手桶を二つ持っており、生肉や果物、それに種実類が入れられている。歳はシャマルと同じくらいに見える。うっとりするほどの美形ではないが、はっきりとした目鼻立ちで、引き締まった体躯はどこか華がある。
彼が面白がるような表情をすると、女たちは露骨に不快感を示した。いつの間にか楽器隊も演奏を止めていた。
「鳥飼はお呼びじゃありませんわ」
ドルラルが忌々しいとそっぽを向いた。
「いや、孔雀というのは元来攻撃的な性質。なわばりを争うもの。争いを好む者を神が選んで
鳥飼と蔑んで呼ばれた男は尚も続ける。
「わたくしはこれで。機織りの続きがいたしたいので失礼します。本日は商人の訪問もあり貴重な日ですから」
エルデニネも興が削がれたといわんばかりに踵を返す。
「俺だってお前たちに用事があって来たんじゃない。鳥のようすを見に来たんだ」
男が手を伸ばすと鳥たちは備え付けられた止まり木から飛翔して、彼の腕や肩に止まった。男は嬉しそうに鳥たちを空いた手で撫でたり、頬ずりする。後宮の女たちに対する不敵な態度と打って変わって、鳥を見る目はらんらんと輝いており、時折少年の表情が覗く。
「そっちは新顔か?」
アルマを認めて尋ねる。
「はい。アルマと申します。手違いでこちらに――」
「手違い?」
男が怪訝な顔をした。
「あたし、二人の男にここへ連れて来られたんですけども、後宮に入ろうと思って屋外をうろついていたわけじゃなく……」
と、言いかけて、アルマははっとした。
床を不自然な影が覆い、みるみるうちに大きくなる。
「……なに?」
咄嗟に天井を仰ぐと、吹き抜けから黒い覆面姿の男が刀を片手に飛び降りてくる。
「危ないっ!」
突如、覆面の男がエルデニネに襲いかかる。飛び降りる際の衝動を利用した渾身の一撃から庇うように、アルマはエルデニネを押し倒した。
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