第三章 養花殿(1)
柔らかい絹の敷き布、花の甘く爽やかな香り、女たちの嬌声。
瞼を開けると極彩色の花々が天井の隅々に描かれている。蓮華、茉莉花、薔薇、牡丹、芍薬。花々の隙間を縫って彩雲が棚引き、天女が楽器を奏でる。
あまりにも細密に描かれていたので、はじめ、絵だと分からなかった。まだ頭がぼんやりとしているからかもしれない。天上の国かと見間違えるほど表現しようのない美しさだった。今までこんなにも美しいものを見たことがなかったから。
深く眠り続けた気がする。
うつ伏せになって気怠い体をゆっくりと起こす。のけぞって背中の筋を伸ばし、次に腕、上半身の筋と順にぐいっと伸ばしながら深呼吸する。周りを見渡す。
脚付きの寝台に明らかに手触りの滑らかな白い絹の敷き布。紗の張られた天蓋を支える細い柱は鳥と桃が彫られ、金泥で色彩が施されている。床には寝台と同程度の大きさの絨毯が敷かれていて、これも細密な模様が織り込まれていた。昔機織りの女が一枚仕上げるのに一年以上かかるといっていた絨毯よりも遥かに絵柄が細かい。絨毯の上には房飾りのついた座布団がいくつか。横に銀製の脚付き盆が添えられている。盆の上には更に花型の茶盆と銀製の杯。部屋の端には背の高い竹製の鳥かごが置かれていて、黄緑の小鳥が嘴で毛づくろいをしている。
寝台と絨毯を囲むように両端には壁が取り付けられている。鮮やかな色彩で花鳥図が描かれており、一部が塑像のようで浮き彫りになっていた。
寝台の真正面には扉はなく、大きな紗の衝立が扉の代わりにこの空間を秘匿する。その向こう側から複数の女性の嬌声が聞こえた。
アルマに分かることといえばこの壁も寝台も絨毯も銀製の脚付き盆もちょっとやそっとでは手に入れることができない高価な品々であるということだけだ。
(うん……、何でこんなところにいるんだっけ?)
アルマは見たことのない光景に頭を悩ませた。
アク・タシュ村にいたはずだ。そう思って記憶を辿り、
「あーっ!」
奇妙な二人の男に連れ攫われたことを思い出す。ということは、ここは男たちの秘密基地だろうか。
(そこらへんにいる人にでも聞いてみるか)
アルマは寝台から降りようとして、ふと、服が変わっていることに気付いた。アイシュに借りたウシュケ族の衣装ではない。
「あのー」
アルマは紗の衝立から顔だけを出して誰か話を聞いてくれそうな人物はいないか辺りを見回す。
方形の建物の中央に人口の池がある。周囲を様々な植物に囲まれていて、所々花や実をつけていた。
池の中央には背の低い噴水があり、池の生垣のような役割の植物たちの隙間から嬌声の正体であろう女たちが覗いた。
彼女たちは中衣姿のまま水浴びとおしゃべりに興じていて、アルマには全く気付かない。アルマに気付いたらしきものといえば、生垣の所々に置かれている鳥かごで、姿に似合わず低い鳴き声を上げる嘴の大きな黒い鳥くらいだ。
部屋とも休憩所とも見える部屋が池の周りをぐるりと取り囲んでいて、各々の部屋は前に衝立が置かれている。アルマが寝かされていたのもこの中の一つであろう。何一つ反応が返ってこないな、と天井を仰ぎ見ると、屋根の真中は吹き抜けになっており、曇り空が覗いていた。
と思った瞬間、一人の少女が建物の奥から速足でこちらにやって来た。
「お目覚めになられたんですね!」
池を挟んで対面によく見ると短い渡り廊下がある。少女はそこを渡って来た。
二三年下だろうか。前髪ごと頭の後ろで団子状に髪をひとまとめにしているため溌剌とした印象を受ける。彼女は中衣姿ではなく襦裙姿だ。美しい花模様の銀製の盆の中央に硝子製の水瓶と杯を乗せている。
「丁度お水をお持ちしようと思っていたんですよ」
紗の衝立を避けながらアルマのいる部屋に入ると杯に水を注ぎ、どうぞ、と勧める。
次に、寝台の下から櫃を引き出し、中から大小の布を取り出す。
アルマが水を飲み終え、杯を盆に戻すと同時に、少女は「では湯浴みに参りましょう」ときびきびした動きで衝立の前に立つ。
問いを挟む隙もなく、導かれるがまま少女の後をついて渡り廊下を行く。花鳥の描かれた陶板で化粧された壁が続き、途中で二階に続く階段や沢山の部屋――さっきまでアルマがいたような囲いではなく、きっちりと戸のついた部屋である――を通り過ぎた。時に浮彫細工を施された壁はどこまで行っても朱、緑、黄、藍の極彩色で、この世の美しさをかき集めたと喧伝する。つきあたりまで来て、ようやく建物の主張は終わり、少女は扉を開けて外に出た。
「今日が晴れていて良かったですね。雨だと折角湯浴みをしてもこの回廊で濡れてしまうこともあるんです」
薄曇りの空を仰ぎ見て、少女は嬉しそうに微笑む。
朱色の柱と龍の背のような屋根が続いている。その先には殆ど正方形に近い建物がある。こちらも、背後の建物もどちらも切妻屋根をしており、黄色の丸瓦が葺かれている。そして柱と窓格子は丹青が塗られていた。
アルマは見たことのない風景に呆然とした。
ここは確実にウシュケ族やエイク族、アルトゥン・コイ族の領内ではない。
それどころか、全く異なる文化圏に連れてこられたことが今目にした建物で自明になった。
「あの、すみません」
「どうされました?」
少女はきょとんとしてアルマを見上げる。
「ここってアク・タシュ村からどのくらい離れてるのかな」
「アク・タシュ村……?」
まるで聞いたことのないように小首をかしげる。
「じゃあ質問を変えるね。ここは何ていう町か教えてもらってもいい?」
「ああ、そういうことですね」
少女はやっと合点がいったとばかりに頷いた。
「ここは
「こう……?」
聞いたことがあるがすぐに思い出せない。
「瑛国の
「うん、瑛国ね。瑛……。えっ……?」
アルマは頭を強くぶつけた気分だった。聞いたことがあるはずだった。
シャマルが若い頃に憧れた旧曄国の
「な、何で……! 何であたしが凰都にいるの!?」
少女は混乱するアルマににこやかに答えた。
「お嬢様は選ばれたのでございますよ、王の妃の候補に」
「王の妃……?」
「そうです。
「違う! 偶然だよ」
だからあの日、アク・タシュ村には人がいなかったのだ。村の婦人は外に出ないほうが良いと告げたのだ。王の使者というのは自分たちのことではなく、王の選定者のことだった。アルマは今になって異様だった光景に気付く。
「とはいえ、お嬢様はもうこちらにいらしたので当面お帰りにはなれませんよ。談判されるのであれば暫くこの後宮内で皇帝や側近たちの訪いを待ってからにしたほうが良いですよ」
少女の気楽な明るい声とは裏腹に、アルマの心はどんよりと曇っていた。大層な場所に来てしまって帰れない不安もあったし、今頃シャマルがどうしているか考えると――きっと怒っているだろう――胸が苦しくなった。
だが、ここが真に皇帝の宮殿の一角だとしたら、守衛もあって密かに脱出するのは難しいだろう。少女の言う通り、今は談判の機を狙ったほうが良いのかもしれない。
「分かった。あたしはアルマというのだけど、あなたは?」
「オルツィイと申します。いつもはエルデニネ様の
それに――、
(あたしを勝手に連れてきたあの男たち、一発殴らないと気が済みそうにない)
アルマは両手の拳を握りしめた。
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