第二章 白玉洞(5)
薄暗い、というよりも暗い。蝋燭の一つでもつけてほしいものだとシャマルは思ったが、相手がめしいた女性であれば、無用の長物として燭台を置いていないようだった。
代わりに、香炉が置いてあって、アイシュは隣の家――というよりも小屋だとシャマルは感じた――に入ってすぐに香炉の蓋を開け、自宅から持ち出した小さな炭を入れ、その上に練った丸い香を置いた。暫くしないうちに花の香りが細い灰色の煙となって一条棚引いてくる。
暗いのもそのはず。この小屋はアイシュの家よりも板が密に接がれていて、外の光が入る余地がない。
外からは単なる小屋にしか見えないが、その実部屋のほとんどが穿たれた洞穴内に属している。ただ、アイシュの家と違って立ち上る冷気や湿気は感じない。地下や水路に繋がっていないからだろう。
岩山の多い地域はよく山に洞窟を掘って扉をつけ、集合住宅のようにして住んでいるので、この家もそういった類なのかもしれない。
中央に木製の寝台が二台置かれていて、清潔な布が敷かれていた。傍には小さな机があるが、何か書き物でもするというよりは物置として置かれているようだ。香炉も勿論この机の上にあって、気を付けて荷物を置かねば引火しかねない。
ここは白玉洞へ来た旅人の休憩所。一夜の宿として提供している。
白玉洞を訪れた者は勿論、よそで採掘した鉱物を加工しに工房を訪れた人間も対象だ。そういった人々の世話はアイシュの役目らしい。
「体を拭いたいので出ていっていただけませんか」
シャマルはアイシュに頼んだ。例え彼女の瞳に映ることがなくても、人目があっては服を脱ぎにくい。
「私は村長よりシャマル様のお体をほぐすよう言いつかっておりますのでできかねます。ご心配いりません。私には見えませんから」
居心地の悪さを察していないのか、彼女は村長の言いつけを守るため動こうとしない。
「ならばせめて戸口のほうへ。目の前に立っていられると気になりますから」
苛立った口調になってしまったかもしれない。だが、他人の表情を察せないならばはっきりと意思を伝えたほうが互いにとって良いだろう。
アイシュは無言で戸口に行き、背を向けた。
シャマルはそれを確認して寝台に腰を下ろし、袖をまくりあげる。革靴を脱ぎ、脛巾を外して体を拭く。革靴はしばらく乾かないだろう。きっと明日も湿ったままだ。
「ここで少し休憩していっても良いですか」
「はい」
「手技療法は結構です。村長にお叱りを受けるなら僕から説明します。それか、口裏を合わせましょう」
「そういうわけにはまいりません」
アイシュはまだ身なりを整え切っていないシャマルの前へ進むと跪く。シャマルは慌てて肌蹴た衣服の釦を留める。
「私は白玉洞に訪れた方々を癒す役割を与えられています。そうしなければならないのです。そうして命を繋がねばならないのです」
アイシュの白い手がシャマルの腰帯に伸ばされ、結び目を解く。いつの間にか彼女は自身の胸元の釦を外していた。白い双丘の谷間が目に入って、シャマルは腕を顔の前にやった。聖女然とした容姿のアイシュが、突然淫らな悪魔のように思えた。
「何をするんだ! 手を離して!」
彼女はシャマルの気持ちに反して、手早く彼の袴の前紐に手をかける。限界だった。
「きゃっ!」
アイシュが小さく悲鳴を上げて地面に尻をつく。シャマルは青い顔をして歯を食いしばった。
「君って人は……!」
乱暴を働きたくはなかったが、我慢ならなかった。さもなければ、アイシュは何をしでかしたか分かったものではない。否、きっとこのまま淫らな行為に手を染めたであろうし、シャマルは被害者たりえた。
古の巫女は子種を得るために旅人や参拝者と関係を結んだという。ウシュケ族にそういった習わしが伝わるのか、或いはアク・タシュ村か白玉洞の巫女だけに限るのか知る由もないが、彼女が「命を繋がねばならない」といったのはそういうことではなかろうか。
「非礼とあらばお詫びいたします。ですが、そのように怒りを募らせるのはいけません」
「非礼とか、そういうことじゃないだろう!」
「怒らないでください。折角はしゃいでいたシャマル様の神霊が、小さな牝の鹿の幸霊が戸惑ってしまいます」
「僕を覗くな!」
アイシュが一体“何”を見ているのか理解して、シャマルはかっとなって叫んだ。
普段は気が昂ぶっても、腹に据えかねても、冷静さを失わず声を荒げることはしないシャマルだが、人を侮辱する行為にも、己の突かれたくない事情を見透かす行為にも激情が走る。
机の荷を押っ取ると乱暴な足取りで小屋の戸口へ向かう。引き抜かれた帯を乱雑に結びなおす。
「この地では昔から旅人は幸運の種を運ぶと言うのです……」
アイシュは戸惑って、今にも泣きだしそうな声で呟いた。
「それは君たちの都合の良い解釈だろう。僕を君たちの論の中に押し込まないでくれ」
彼女は答えなかった。長い間白玉洞の巫女の役目として他の者にも当然同じような行為をしてきたあろう。この美しい容姿で寝所に侍られれば行きずりの旅人の中には思わぬ幸運が舞い降りてきたというものも決して少なくないだろう。妓楼の金が一回は浮くのだから。だが、その中に嫌悪を抱く者だっていたはずだ。
シャマルには彼女がたまらなく恐ろしく、たまらなく恨めしかった。
村の閉鎖的な理論の中に生きているからというよりも、善悪の判断がないこと。それどころか、何がいけないのかまるで思いつきもしていないこと。己の力で思考することを放棄している。これらすべてに疑問の余地すら抱かないのだ。否、抱かないように躾けられたのかもしれない。
そうであるかも知れないが、シャマルはたまらなくていい放った。
「僕はあなたを軽蔑します」
冷え切った指先で扉を開ける。
「こうでないと私はここから解放されないのです……」
震える声を絞り出すアイシュを一人残して。だが、シャマルはおぞましい小屋を去ろうとして、突然、血相を変えて走ってきたケリシュガンに肩を掴まれた。
「大変だ、シャマル……!」
息を切らしたケリシュガンは半ばシャマルにもたれかかりながら、途切れ途切れに言葉を吐いた。
「どうしたんですか」
命からがら逃げ帰ってきた兵のようで、シャマルは驚き慌てて外傷を確認した。どこにも出血や打身はない。シャマルが俯きながら肩で息を吸うケリシュガンの顔を覗き込むと、彼は膝の力を抜いてずるずるとその場に座り込む。
「アルマが……」
「え?」
シャマルの胸が早鐘を打つ。
「アルマが、王の使者に、略奪、された……」
「まさか……」
「すまん、走ってなど、追いかけられるはずも……」
確か、奇妙な時刻に奇妙な間隔で鐘が二度鳴っていた。
仮にそれが王の使者とやらに対する合図であれば、村長が知っているはずだ。村人がなりを潜めていたのもそのためだろうか。たまたま女が出歩いているのを見つけられて攫われたのか、それとも衣装からウシュケの民と勘違いされて連れ去られたか。
考えてみれば、固辞するシャマルにアイシュの手技療法と称する行為を無理にあてがったのも、アルマにウシュケの衣装を着せるよう指示したのも村長だ。
そうであれば、やはり向かうところは一つしかなかった。
「村長の元へ行きましょう。色々と、問い詰めなくては腹の虫が納まらない」
シャマルはケリシュガンに肩を貸して息が整うようゆっくりと歩き出した。
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