景色が消えるその前に。

星崎ゆうき

第1話:システムと巡礼

 後ろ足を引きずっている痩せた猫が、灰色のコンコースを抜け、正面にそびえる高層住宅へ消えていった。錆びついたシャッターが下ろされている商店街は、鮮やかさの欠けたこの街に、むしろ趣さえ与えている。

 メル・アイヴィーは猫を追うように歩き出す。

 

 貧困層が多く住んでいた東京北部の一帯を取り壊し、十二階建ての高層住宅、五十六棟が建設されてから一世紀が経つ。高度経済成長期に建設された総戸数は約一万、この街の完成には十年の歳月を要したという。


 エレベーターホールや廊下の壁には、いたるところに落書きが残されている。感情を吐き出すように描かれたその記号に、何か重要な意味があるわけじゃない。記号に意味を含ませるのではなく、むしろ無意味を刻む。落書きは、ある種の精神安定剤トランキライザー

 階段わきに並んだ郵便受けから、色褪せた宅配ピザのチラシが風に舞った。


 メルはエレベーターには乗らずに階段を登る。四階層おきに停止するスキップストップ方式のエレベーターは、メルが向かう先、つまり九階には停止しないから。


 少し前まで、この高層住宅街には様々な人間が暮らしていた。労働人口の減少による生産力を補うため、国は海外からの移民受け入れ政策を積極的に行ってきた。多数の外国人が日本に移り住むことになった結果、住宅需要は急速に高まり、東京郊外に忘れ去られていた高層住宅街が利用されたのだ。


 水城みずきハルと書かれたネームタグがかけられている部屋の前に立つと、メルは彼から預かっている合い鍵で扉を開けた。家具や家電製品は、生活に必要な最低限のものしか置いていない。1DKの殺風景な部屋。開いたままの窓ガラスから、風が吹き込んできてレースカーテンを揺らした。


「いないのね……」


 ハルの居場所は分かっている。この部屋にいなければ、彼はきっと教会にいる。


 水城ハルは東京生まれの純粋な日本人だ。背が高くて、東洋人種なのに肌の色は白い。女の子に見間違えそうになるくらい中性的な顔立ちをしている彼は、信仰心が厚いわけでもないのに、しばしば教会へ足を運ぶ。彼にとって、本当に帰るべき家は、きっとあの場所なのだろうとメルは思う。


 メルの父親は、彼女が生まれてすぐに失踪して行方をくらました。だからメルは父親の顔も、声も、その温もりさえも知らない。メルの母親は、経済的困窮から逃れるようにして日本にやってきたが、日本語が上手く話せなかったこと、もともと内気な性格もあって、この街での暮らしに良く馴染めなかった。


 その当時、ごくカジュアルに横行していた薬物に手を出したメルの母親は、徐々に社会から孤立していく。やがて、抑うつ症状がひどくなり、メルの誕生日の前日に、高層住宅の屋上から身を投げて死んだ。


 メルは当時、五歳だった。教会の孤児院に引き取られ、同じく両親のいないハルと出会い、そこで幼少期をともに過ごした。ハルに出会わなかったら、メルも母親と同じように屋上から飛び降りて死んでいたかもしれない。


 木造教会は街の中心部にある。北欧系の移民が急ごしらえで作ったと言われているその外観は、ノルウェーのウルネス・スターヴ教会をまねたそうだ。コンクリートの高層建造物群と、レトロな木造教会が織りなす独特のコントラスト。メルがこの街が好きな理由の一つでもあった。


 スターヴとはノルウェー語で「垂直に立った支柱」ことだと教えてくれたのはハルだった。会堂の中央に垂直にたてられた巨大な柱は、この教会の特徴的な三角屋根をしっかりと支えている。



 綺麗に並べられた木製の椅子。その最前列の背もたれに腰を置き、本来座るべき椅子の部分に足を投げ出しながら、ハルは本に視線を落としていた。もちろん聖書とかそんな類の本ではない。


「やあ、メル」


 彼は手にしていた本を閉じると、少しだけ首を傾げ、その大きな瞳でメルを見つめる。ステンドグラスから差し込む赤と青の光が、彼の頬に反射して微かな紫を放っていた。


「今日は何をしていたの?」


「何もしていない、ということをしていたのさ」


 ハルにとって本は読むものじゃない。ゆっくりと活字をなぞりながら、彼は自分の感情を調整するためのツールとして本を開く。だから他者にとっては何もしていないことと同じ。


「そう。それはきっと良いことね」


 メルは、ハルの足元に腰かけた。鞄から携帯用の音楽再生端末を取り出すと、イヤホンを耳に押し込みゆっくり目を閉じる。会堂に吹き込んでくる緩やかな風が、メルの白いワンピースと銀色の髪を揺らした。

 ハルにとって本を開くことが感情の調整を担っているように、メルにとって音楽を聴くことは情動の制御を可能にしてくれる。

 だから二人は壁に落書きをしたことがない。


 やがて、柱の影が会堂の床に長く伸び始める。陽が傾きかけているのだ。昼と夜の境界、外の光が最も鮮やかさを増す時間帯。ハルは椅子の背もたれからゆっくりと床におりる。


「帰る?」


 メルは逆光に映し出されたハルのシルエットに思わず目を細めた。


「うん」


 様々な価値観や信仰を抱えた低所得層が暮らすこの街では、当然ながら多様性が重視された。しかし、多様性の重視はまた、ある種の自由を容認し、様々な犯罪を正当化する理由にもなった。元々周辺の治安環境が悪かったこともあり、移民者が集まるにつれて、街全体は急速に荒廃していく。

 そして、いつしかこの場所は【都会のスラム】と呼ばれるようになった。



 部屋に戻ったメルは開けっ放しだった窓を閉める。正面には、航空障害灯の赤い点滅に縁どられた高層ビル群が宵闇に浮かんでいた。経済的に余裕のある富裕層の多くが、今はあそこで暮らしている。


「もうすぐ来るね」


 そうつぶやいたメルの後ろから、ハルは彼女を抱え込むように抱きしめる。視線を向けた先の路地に人影は見当たらない。この時間に不用意に外出するのはとても危険なのだ。


 高層住宅街のスラム化に伴い、急速に悪化した治安状況に対処するため、国家公安部は汎用型人工知能を搭載したヒューマノイド、ヒト型一般意志執行インターフェイスを導入し、無人の治安維持システムを構築した。エンフォーサーと呼ばれた彼らの行動管理は、公安局がクラウド上で一手に行うという当時としては画期的なシステムだったらしい。


「ああ、見えてきたよ」


 一定の警邏プログラムに従って、この街に配備されている十五体のエンフォーサーが、日没から夜明けにかけて、高層住宅街入り口のコンコースを抜け、建造物の間を網の目のように張り巡らされた狭い路地を歩いてく。陽が明けるころになると、教会周辺に集まり、そして夜が明けると彼らは四散する。

 日々繰り返されるその光景を、人々は【巡礼】と呼んだ。


「僕はこの街が嫌いじゃない」


「あたしもよ、ハル」


 政治的意思決定が、総務省の管理する人工知能に委ねられるようになると、国家は【巡礼】するエンフォーサーを、この街ごと放棄することを決定した。処分しようにもコストがかかりすぎるエンフォーサーはこの街に閉じ込めておくのが合理的かつ効率的というわけだ。

 この街の生活は、今ではエンフォーサーの【巡礼】とともにある。それはある意味で人間と機械の共生と言っても差し支えない。


 真下の路地を通過して行くエンフォーサーたちは、外観は人間と見分けがつかない。しかし、不用意に彼らに近づくと、クラウドから切り離された人工知能は、見境なく公務執行妨害という裁定を下し、目の前の人間、いや人間を含めたあらゆる生命体に対して強制執行プログラムを作動させる。

 

 片目をつぶされた野良犬も、足を怪我した痩せた猫も、エンフォーサーによる正義がもたらした犠牲。エンフォーサーを捕獲してレアメタルを取り出そうと計画した不良たちが、団地わきのゴミ捨て場に無造作に放置された事件以来、正義の執行システムに近づこうとする人間はいない。


「いつか、わたしは彼らと話がしたいの」


「そう。それは素敵なことだ。例えば、どんな話がしたい?」


「好きな食べ物の話とか」


「彼らはきっと何も食べないさ」


「そうかな」


「そういえばメル、冷蔵庫にプリンがある。よかったら食べるといい」


 メルはハルの手を握り返す。いつだって彼の手は冷たい。

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