第2話:記憶と記録
この街には三つの高校が存在したが、今では街の中心部にある一校を残すのみとなった。じきにこの学校も廃校となる。いや、この街全体が消える運命にある。
犯罪の温床、手に負えなくなったエンフォーサー。国は高層住宅街を全て取り壊し、この街ごと消し去ることを既に決定している。経済的に余裕のある世帯は、早々に都心部の新興居住エリアに引っ越していった。この中学に通う生徒の数も十人に満たないし、学校という組織や教育そのものが機能不全状態にある。
メル・アイヴィーと水城ハルが珍しく学校に登校しているのも、今日はたまたま音楽の授業があった、ただそれだけの理由に過ぎない。しかし、残念ながらこの日に音楽の授業が行われることはなかった。学校に唯一あった電子ピアノが壊れてしまったからだ。
「直せないの?」
メルは床に転がる電子ピアノの鍵盤を適当に叩いてみるが、スピーカーからは粗いノイズばかりが鳴り響いている。
「中の基盤が壊れているのかもしらん。交換すれば治るかもしれないが、こんな旧式の部品は、今時、家電にも搭載されていないさ。エンフォーサーの体の中にくっついている部品と変わらない。やつらが修理できないように、このピアノも修理不可能だ」
音楽を担当しているこの教師は、どこかの企業のエンジニアだったらしい。理工系の学位を持っているという話だったが、なぜ理科ではなく音楽の教師になったのかは良く分からないし、きっと誰も興味がない。
「エンフォーサーって、そんな旧式の部品が取り付けられているんですか?」
ハルはそう言うと、メルの隣にしゃがみこみながら、電子ピアノの鍵盤を軽くグリッサンドする。物理的に鍵盤がはじかれる乾いた音が聞こえただけで、プツプツと断続的なノイズが相変わらずスピーカーを震わせていた。
「ああ、人工知能と行動管理クラウドの構築にコストをかけすぎたんだよ。やつらの青い目の奥にある画像処理エンジンは、二十年前のデジタルカメラのそれと変わらんさ。そもそもエンフォーサープロジェクトは予算の見通しすら立たないまま、見切り発車してしまったといわれている。今となっては処分するにも金がかかりすぎるのさ」
「だからこの街ごと……」
「まあ、この街は後世に残すべきものじゃない。この街に良い思い出がある人間なんていないさ」
「本当にそうでしょうか?」
負の文化的遺産。この街をそんなふうに呼ぶ人間もいる。教師から視線をそらし、ピアノの鍵盤に指を置いたハルに「わたしはそうは思わないよ」とメルは小声でつぶやいた。
エンフォーサーの音声認識システムは、旧型の電子楽器に登載されているものと全く同型らしい。最新のテクノロジーの集合体だと思っていたエンフォーサーの中身は、案外適当な代物でくみ上げられていた。
ある種のシステムは一見すると完璧なように見えるが、実は欠陥だらけだったりする。そして大事なのは、欠陥を含みながらも完璧に作動しているという思い込みこそがシステムをシステム足らしめるということ。
メルとハルは、退屈な授業が終わると、放課後に再び音楽室に向かった。電子ピアノは、どこに捨てられるでもなく音楽室の床に置かれたままだった。壊れた電子ピアノを裏返した彼女は、いくつかのネジを外すと、内部から音声モジュールだけを丁寧に抜き取る。
「これで彼らと会話ができるかもしれない」
「彼らって、エンフォーサーのことかい?」
「ハル、一つだけお願いを聞いてほしい」
「ああ、もちろんだよ」
「端末を借りたいの」
「集会所の【物置】に使えそうなものがあるかもしれない。探してみるよ」
高層住宅街の一角に、集会所と呼ばれているプレハブ小屋がある。かつてはこの街の自治会が、会議などに使っていた場所だが、自治会そのものが消滅した今となっては、ただの空き部屋だ。周囲には雑草が生い茂り、小屋の裏側に広がる空き地には、不法に投棄された家電製品やら粗大ごみが散乱していた。
子供らはこのガラクタ置き場を【物置】と呼んでいた。
「どう?」
メルが雑草をかき分けて作業中のハルを覗き込む。
もちろん、【物置】に散乱しているのは壊れたガラクタばかりだが、中には十分に使える家電や家具なども少なくない。この街から立ち去ることができるのは、基本的に高所得階層の人間たちだ。引っ越し作業中に、不要となった(でもまだ使用に耐えうる)高級家電製品を、そのまま捨てていく人もいる。
「ああ、メル。君は運が良いよ」
額に汗を浮かべ、やや息を切らしたハルの右手には、真っ黒なノート型端末が握られていた。
高層住宅は全居室がオンラインとなっており、情報インフラに事欠くことはない。端末さえあれば容易にネットワークに接続できる、それが移民者をターゲットにしたこの高層住宅群の売り文句でもあった。
メルは拾ってきた端末の電源を入れるとモニターをじっと見つめる。液晶画面が少し破損していたが、画面を見るのに大きな問題はなさそうだ。おまけにオペレーションシステムも正常に起動した。
「うん、大丈夫。使えそうね」
「で、何をするんだい?」
ハルは部屋の窓を全開にして、汗ばんだ体に風を当てていた。彼の真っ黒な前髪が静かに揺れている。メルはそんな彼の横顔をしばらく見つめていた。
窓の向こう側には、澄んだ昼下がりの青空がどこまでも広がっている。
「エンフォーサーは言葉を必要としていない」
「ああ、そうだろうね。確かに彼らに言葉は不要だし、そして何よりも無意味だ」
「ええ。犯罪行為という判断を下すのは、彼らの小さな頭に登載されている壊れかけの人工知能、あるいはクラウド上にある公安の意志。そんな意志が実在するかどうかは別としても、オフラインでエンフォーサーを起動させたいときもある」
「なるほど」
「エンフォーサーをはじめとする、一般意志執行インターフェイスは、専用の言語プログラムによって行動を制御できるの」
「メル、なんで君はそんなことを知っているんだい?」
「これよ」
メルは首元の黒いチョーカーを外すと、それを右手の親指と人差し指でつまみ、ハルの視線の先で揺らす。先端の金属端子が午後の日差しに反射した。
「それはメモリースティックだったのか」
「父の記憶。あるいは母の形見」
ノート型端末に接続すると、ハードディスクがカタカタと音を立て、いくつかのファイルが立ち上がった。端末のキーボードをしばらく鳴らし続けていたメルは、やがて小さなため息をつくと、「言語プログラムをダウンロードできた」と言って、鞄から電子ピアノの音声モジュールを取り出す。
音楽再生端末に、言語プログラムをダウンロードしたメモリーを接続し、イヤホンの代わりに音声モジュールとつなげた。メルが徐々に音量を上げると、聞こえてきたのは音声モジュールにプリインストールされていたボーカロイドの声だった。
「なんで歌?」
「エンフォーサーの起動停止コードが歌だったなんて……」
「こいつを作った連中は、本当は歌うロボットを作りたかったんだろうな。まあ、いずれにせよ、これを【巡礼】中に聞かせれば、彼らを止めることができるかもしれない、そういうことかい?」
「ええ、きっとね」
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