9 あの手は、あなたの手だったの?


「ローマの鼠が忍び込んでいるらしいな」


 開けられた落とし戸から、正確なラテン語の発音の男の声が降ってきた。


 俺は、腰にいたグラディウスの柄に手を掛けて、身構えた。一方、コレティアは雷に撃たれたように立ちすくんでいる。


「変な気は起こすなよ。鼠の蒸し焼きを作るのは、御免だからな」


 男の声に呼応するように、別の男達の声がした。

 ゲルマン語なので、俺には何と言っているかはわからないが、罵声なのは、嫌でもわかる。声の数から推測すると、少なくとも五人か六人は外で待ち構えているようだ。


 同時に、先程の言葉を裏づけるように、ぱちぱちと炎が爆ぜる音が耳に届いた。 男達の何人かが、松明を持っているのだろう。


 俺は素早く周りに視線を走らせた。

 だが、隠し部屋には、落とし戸以外に、出入り口はない。


 ブーツにくるまれた足が落とし戸から伸び、ぎっ、と縄梯子がきしんだ。

 

 俺は身構えたまま、降りてくる男を見守った。


 今、この男を刺すのは容易い。

 しかし、そうなれば、外の男達が黙っていないだろう。地下室にいる俺とコレティアは、袋の鼠も同然だ。男の言葉通り、火を放たれて焼き殺されるに違いない。


 縄梯子を降りてきた人物は、背の高い男だった。

 大柄な体に似合わず、動きは敏捷だ。背中を覆うほどに長く伸ばし、緩く編んだ髪と、胸に達する髭を赤く染めている。

 染め残した金色の地毛がちらちらと見える様は、燃え盛る炎を連想させた。


 男は悠然と縄梯子を降りると、俺達を振り返った。一つきりの碧い目が、侵入者を鋭く値踏みする。失明している方の目は、縫い閉じられていた。


 俺は、奥歯を噛み締めて、斬りかかりたい衝動を抑えつけた。

 見間違いようがない。


 ユリウス・キウィリス。


 この男こそが、俺の仇であり、反ローマの陰謀の首謀者だ。


 キウィリスの年齢は五十代後半だろう。しかし、頑健な体格にも、鋭い知性の光を宿す碧い瞳にも、老いはどこにも感じられなかった。

 身にまとう威圧感は、鍛え上げられた体を、更に大きく見せている。十年前、ウェテラの籠城戦で姿を見た時よりも、老獪ろうかいさが加わっているようだ。


 キウィリスを今、ここで刺せば、首謀者を失った陰謀は瓦解するだろう。俺はグラディウスの柄を握る手に力を込めた。


 コレティアさえ、この場にいなければ、俺の命と引き換えにキウィリスを討っていた。

 キウィリスを道連れにできるなら、それほど悪い最期じゃない。


 だが、フラウィアと交わした約束がある。コレティアだけは、必ず無事にローマへ帰さなくてはならない。


 俺は、キウィリスを斬りたい気持ちと、コレティアを守らねばと思う義務感の間で、激しく揺れた。


 シリア総督ケリアリスの娘であるコレティアの身分を知れば、キウィリスもコレティアの命を奪う真似はすまい。


 元老院議員の令嬢は、ローマに対して立派な人質になる。ましてや、コレティアは血の繋がりはないとはいえ、現皇帝ティトゥスの従兄弟だ。

 人質としての価値は、計り知れない。


 たとえ、俺がキウィリスを殺したとしても、外の男達の中に、キウィリスの十分の一でも頭が働く奴がいれば、コレティアの命は保証される。


 俺の中で、キウィリスへの殺意がどんどん高まっていく。

 激情のあまり、視界が暗く、狭くなる。


 キウィリスは腰の剣の柄に、触れてさえいない。今なら、敵はキウィリス一人だ。こんな機会には、二度と恵まれないだろう。


 しかも、奴の視線は俺ではなく、コレティアに集中している。


 俺は、ちらりとコレティアに視線を走らせた。今、唯一、懸念があるとすれば、コレティアがいつものコレティアらしくない状況だ。


 常に、瞬時に的確な判断を下して実行するコレティアが、キウィリスを見て凍りついている。

 キウィリスの威圧感に飲まれたわけじゃない。コレティアは、そんなしおらしい性格ではない。


 キウィリスに視線を戻した俺は、今まで考えもしなかった共通点に気がついた。


 キウィリスとコレティアは、よく似ている。

 強い意志を感じさせる顔立ちだけじゃない。


 鋭い知性を湛えた碧い瞳も、亡霊でも見たように、お互いを見つめ合う表情も。


 張り詰めた緊張を破ったのは、キウィリスの声だった。


「コレティア……。生きていたのか?」


 キウィリスの声に撃たれたように、コレティアが体を強張らせる。


「……あなたが、キウィリスなのでしょう?」

 コレティアの声は、微かに震えていた。


「初めて会うはずなのに、私はあなたを知っている。あなただけじゃない。この町や家、この部屋のことも……。私、思い出したの。昔、ここで遊んでいた私を抱き上げて、頭を撫でてくれた人がいたわ。大きくてたくましい手……。あの手は、あなたの手だったの?」


 これほど不安そうで頼りなげなコレティアを、俺は初めて見た。


 まるで、迷子になった幼子のように、碧い瞳が揺れている。キウィリスと同じ、深い海のような碧い瞳が。


「コレティア。記憶を失くしているのか?」


 キウィリスがコレティアへ一歩、踏み出す。

 俺がコレティアを背中へ庇うより早く、キウィリスが告げた。


「コレティア。お前は、私の娘だ」


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