3 かつての惨劇の場所で


 レヌス河岸で最も目立つ建築物は、どこであれ、軍団基地の要塞だ。


 ウェテラの要塞が見えたのは、凍えるように寒い日の午後だった。


 太陽は厚い灰色の雲の向こうに隠れていて、雲の隙間から差し込んだ薄い陽射ひざしが、周囲の建物から頭一つ抜き出た要塞の外壁を、力なく照らしていた。


 俺は、見えない手に引き止められたかのように、手綱を引いて馬を止めると、かつて俺が駐屯していたウェテラを眺めた。

 コレティアも馬を止め、俺の隣に並ぶ。


 ウェテラの要塞自体は、レヌス河からは少し離れている。

 軍団基地の周りには屋台店や小屋が、手入れを忘れられた庭園の草木のように立ち並んでいた。


 軍団基地の近所に、戦闘目的以外の建物で最初にできるのは、大抵が浴場だ。基地の中には、火事を警戒して、浴場は作られない。

 次にはパン屋、床屋、売春宿、居酒屋等が作られる。労働者や行商人、売春婦等が集まってき、最後には、兵士に従いてくる家族がやってくる。


 ローマ軍の兵士は、兵役期間中の結婚は禁止されているが、実際は黙認されていた。多くの兵士は駐屯している土地の女性と夫婦となり、退役後は正式に結婚して、軍団基地の周辺に定住する。

 非戦闘員が集まってくるに連れ、軍団基地の外側に散らばっていた小屋は、次第に民間人の町へと成長していく。帝国のどこの軍団基地でも起こる現象だ。



 十年前、ウェテラはキウィリスによって壊滅させられた。


 補助部隊の隊長だったキウィリスは、ローマ軍式の攻城兵器を反乱軍に作らせ、要塞を落とそうとした。


 ウィテリウスに残された俺達軍団兵は、いつ来るとも知れぬ救援軍を待って、命懸けの籠城戦ろうじょうせんを行った。


 重傷を負った俺が要塞から搬出された後、要塞は、最終的にはキウィリスに松明の火を放り込まれて、燃やされた。

 その後、生き残った軍団兵達が、キウィリスに忠誠を誓うという屈辱を味わされたのは、周知の事実だ。


 反乱から十年が経った現在、要塞は再建され、基地の周りにも、昔と同じように、町が作られていた。まるで、焼け跡から新しい草木が芽吹くように。


 俺の中で血を流しながら止まっていた時間は、惨劇の現場では着実に流れていたのだ。


 軍団兵の妻だろうか、襟の高い服を着た若い女が赤ん坊を背負い、幼い男の子を連れて歩いていた。片手に棒っ切れを持った男の子は、それを振り回しながら、母親にまとわりつくように右へ左へと走っている。


 赤ん坊の泣き声と、赤ん坊をあやす、か細い子守歌が聞こえてきた。土地の歌なのだろう。俺の知らない調べだった。


 不意に、感情がたかぶって、俺はきつく唇を噛み締めた。痛いくらい噛まなくては、涙がこぼれそうだった。


 キウィリスを捕えたところで、死んだ仲間達が生き返るわけじゃない。それは重々、わかっている。キウィリスを捕えるのは、罪悪感に苛まれる自分の心にけじめをつける為の、俺なりの敵討ちだった。


 反ローマの陰謀を止めるという大義名分は一応ある。だが、半分以上は自分自身の為にゲルマニアまで来ているようなものだ。


 だが、今、キウィリスを捕える理由がもう一つできた。


 キウィリスの陰謀は何としても止めなければならない。もう二度とウェテラを、いや、どこの軍団基地であろうとも、キウィリスの好きにさせてはならない。


 過去の為だけじゃない。未来の為に、俺はキウィリスを捕まえる。

 俺が、ひたすら過去から逃げていた間に育まれていた平和の芽を、キウィリスごときに摘ませてなるものか。


「雨になるかしら?」


 空を覆う灰色の雲を見上げて、コレティアが呟いた。声に、からかいの響きが混じっている。目に涙を溜めた俺を揶揄やゆしているのは、明らかだった。


「晴れるさ」


 幸いにも、返した声は、俺が危惧するほど湿ってはいなかった。


 俺は、手の甲で目元を拭うと、もう一度しっかり、再建されたウェテラを見渡した。

 再建されてから、まだ数年しか経っていないからだろう。大規模な戦闘を経験していない要塞は、まだ傷らしい傷もついていない。要塞の周りに広がりつつある町も、まだ真新しい建物が多かった。


 先程の母子は、まだ散歩していた。赤ん坊は泣き止んでいたが、母親の優しい歌声は続いている。


 不意に雲の切れ間から、明るい陽射しが差し込んだ。陽光は十年前の悲劇から立直り、着実に新しい町を育んできたウェテラを祝福するように、町に降り注ぐ。


 俺は一度だけ目を閉じると、ウェテラで命を落とした戦友達の冥福を祈った。


「先へ進もう、コレティア」


 決意を込めた声でコレティアに告げ、馬首を北へ巡らせると、くつわを横に並べてきたコレティアが、俺の顔を横目で見やった。


「あの世の戦友達に、何を約束したの?」


 コレティアの口調は真面目だが、碧い瞳は好奇心で煌めいている。


「お前達が命懸けで守ろうとしたローマは、生き残った俺が守る、って約束したのさ」


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