2 傷痕にふれるのを恐れるかのように


 俺達は、アグリッピネンシウムで一週間、滞在し、キウィリスの縁者など、少しでも手がかりを掴もうと努力した。


 だが、無駄だった。アグリッピネンシウムは、十年前の反乱など忘れ去って、何事もなかったかのように、静かで平穏だった。


 キウィリスなど、影も形も見えない。ローマに対する反乱を企てていそうな不穏な空気など、毛ほども感じられなかった。


「これで、次の目的地は決まったわね。レヌス河の河口、ノウィオマグスね」

「ああ、そうだな」


 出立を決めた朝、コレティアに次の行き先を告げられた時、覚悟はしていたものの、我知らず鼓動が早まった。


 このまま、レヌス河沿いを北上すれば、ノウィオマグスの前に、必ずウェテラを通らなければならない。


 十年前、俺が重傷を負って戦線を離脱し、俺が所属していた第十五軍団が、キウィリスによって壊滅させられた軍団基地を。


 今までずっと、傷痕きずあとに触れるのを恐れるように、心の奥にしまい込み、避け続けてきた場所だ。


「レヌス河を船で下るのも面白そうね。レヌス河は、イタリアでは見ない大河だもの。景色だって、イタリアとは全く異なるし」


 俺の動揺を読み取ったコレティアが、軽い口調で船旅を提案する。


 レヌス河にはローマ軍の艦隊も存在する。

 軍船であるガレー船の漕ぎ手は、みな現地人のため、十年前の反乱時には、指揮官のローマ人を殺して、ガレー船ごとキウィリス側についたという、曰く付きの艦隊だ。


 軍船だけではなく、レヌス河には物売りの小舟や、荷を運ぶ船等も行き来している。運搬船の荷は大抵が葡萄酒だ。


 コレティアが言ったように、レヌス河沿いは切り立った大岩や河島等が点在して景色が良いから、気候がいい季節には、河下りの船も出る。


 たいていがかなりの高額料金で、その上、地元の抜け目のない行商人が、ゲルマン人の部族が使う兜やら、怪しげな古びた角杯やら、スエビクム海産の琥珀やらを言葉巧みに乗客へ売りつける。


 さすがに、真冬に河下りする酔狂な船はないだろうが、金さえ払えば、俺達を乗せてくれる運搬船はあるだろう。


 船旅ならば、ウェテラの近くで船室に閉じこもれば、俺の知らない内に通り過ぎてくれる。


 だが、そもそも俺は、船旅には反対だった。


 広い流れがうねるレヌス河と比べれば、ローマ流れるティベリス川など、小川同然だ。レヌス河は俺が今まで見た河の中で、一番、激しく轟きながら流れていた。


 アグリッピネンシウム辺りのレヌス河の東岸には、テンクテリ族の領土が広がっている。

 強力なゲルマン人の部族で、ガリア人と同じように馬をよく乗りこなす。


 十年前の反乱では、キウィリスに忠実な手下となって、レヌス河を渡ってきては、盛んに町々を攻撃した。


 今では河の向こう岸遠くへ退いているという話だが、本当かどうか、確かめた者はいない。


 万が一、船が難破したり、河が荒れて臨時停泊して、東岸に上陸する羽目になった時の事態など、想像したくもなかった。


 ゲルマン人らしい背の高さと金髪を持つコレティアはともかく、濃い茶色の髪にがっしりした体つきの、どこからどう見てもローマ人にしか見えない俺は、数ミリアリウム遠くからでも目立つだろう。


 ゲルマン人の敵意をかき立てるのは間違いない。キウィリスを見つける前に、余計な騒ぎを招きたくはなかった。


 それに、今までの旅路では、コレティアの失くした記憶の欠片が眠る町には巡り会っていない。


 川旅の間に、コレティアがかつて暮らして町を通り過ぎてしまうとも限らない。

 なにせ、どの町で暮らしていたかという記憶すら、コレティアは失くしているのだから。


 何より、今ここでウェテラから眼を逸らせては、一生ずっと、過去から逃げ続ける羽目になる。それでは、ゲルマニアまで来た意味がない。


 俺は目を閉じて、一度だけ深呼吸した。


 目開けて真正面からコレティアを見つめる。

 腹の底に力を込めると、動揺はどこかへ消えていた。


「船を借りる必要はない。このまま、馬で北上しよう」


「わかったわ」

 俺を見返して、コレティアは満足そうに頷いた。


 コレティアが俺の言葉に素直に同意するのは珍しい。俺が笑って指摘すると、コレティアは機嫌を損ねたように顔をしかめた。


「勘違いしないでちょうだい。たまたま、私も船旅よりも馬での旅の方がいいと思っただけの話よ。真冬に冷たい川風に吹かれて一日中、過ごすだなんて、真っ平だもの」


 口では可愛げのない言葉を言っているが、コレティアが俺の気持ちを気遣ってくれたのは、馬鹿でもわかる。

 俺が礼を言うと、コレティアはつまらなさそうに鼻を鳴らした。


「礼なんて要らないわ。無駄口を叩いている暇があるなら、早く出立の準備をしなさい」


「はいはい、お嬢様」


 今朝ばかりは、コレティアの命令口調も気にならない。俺は、いそいそと出発の用意を整えた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る