12 君が望むものなら、何だって買い与えよう


 フラミニア街道沿いのジウスの屋敷は、金の掛かっていそうな、立派な屋敷だった。


 ガリアからローマへ出てきたという話だから、屋敷はその際に購入したものだろう。

 他人を拒むようにそそり立つ高い塀といい、顔が映りそうなくらい磨かれた玄関扉のびょうといい、何十万セステルティウスも払ったに違いない。


 結婚すれば、コレティアに不自由はさせないと書いてあった巻物の言葉は、少なくとも金銭面では、真実らしい。

 一つ問題があるとすれば、結婚相手のコレティアが、贅沢ぜいたくなどに魅力を感じる性格ではない点だが。


 俺がジウスの屋敷を観察している間に、コレティアは扉の呼び鈴を鳴らしていた。屋敷の立派さには、いささかも感銘を覚えないらしい。


 出てきたヌビア人の屈強な奴隷に、コレティアは傲岸不遜に尋ねる。


「主人のジウスは、在宅かしら?」


 今のコレティアは、宮殿に行く為にめかしこんだ格好のままだ。普通、元老院議員のお嬢様は、臥與レクティカに乗らず、供の奴隷もなしに、見ず知らずの他人の屋敷を訪問したりしない。


 奴隷は、目の前に美の女神ウェヌスが降臨したように、瞬きも忘れて目を見開いた。

 やって来たのは戦の女神ミネルウァだと、嫌でも、すぐに気づくだろうが。


「いるの! いないの!」


 コレティアが苛立たしげに奴隷に問いただす。


「い、いらっしゃいます」

「どこにいるの?」

「しょ、少々お待ち下さい。只今、取り次ぎますので」


 気を許せば、どかどかと上がり込んで家捜ししかねない剣幕のコレティアを、門番の奴隷は必死で押し留めた。


 ここでコレティアの侵入を許せば、門番の意味がなくなる。自分の職を守る為に、門番はアトリウムを通り掛かった若い女の奴隷を見つけると、大声で呼び止めて、主人への取り次ぎを頼んだ。


「ど、どうぞこちらへ」

 門番が俺とコレティアを玄関広間アトリウムへ通す。


 いらいらとジウスを待つコレティアの横で、俺はのんびりと、ジウスの屋敷のアトリウムを見物した。


 床にはモザイクで、何羽もの鳥が描かれている。凝っているモザイクで、燕やうずら、鳩等、一羽一羽、鳥の種類が異なっている。


 アトリウムの中央には、当然、私費で引いた水道が、噴水から流れ落ちている。


 噴水の周りには、なかなか趣味のよい、しかも、明らかに大金の掛かっていそうな大理石の彫像が、何体も飾られていた。ギリシアの有名な彫刻家ポリュクレイトスやクレシラスの模作もある。


「コレティア・ペティリア! わざわざ、君から、わたしを訪ねてくれるとは!」


 アトリウムに響いた芝居がかった野太い声に、床のモザイクの鳥が何種類いるのか数えていた俺は、顔を上げた。


 ガリアから来た商人という触れ込みから、てっきり、背が高くて体格のよい、ブラカエズボンを穿いたガリア人を想像していた俺は、現れたジウスに予想を覆された。


 おそらく、両親のどちらかがローマ人なのだろう。ジウスは茶色の髪に同じ色の瞳の、がっしりして背の高い男だった。ローマでは珍しく、顔の下半分を覆う顎髭あごひげを生やしている。


 ローマ人の男は、基本的にひげを生やさない。俺だって、文化的な生活を営んでいる時には、公衆浴場で理髪師に髭を剃らせる。


 髭を生やす風習があるのは、ギリシア人やゲルマン人だ。

 ゲルマン人の場合は、髭を整える習慣はなく、伸ばし放題だが、文化的なギリシア人は、鼻の下から顎にかけて、ちょうど顔の下半分を覆うように、美しく髭を整える。


 ローマ人は、ギリシアから様々な文化を取り入れ、学んだが、顎髭はローマ人に受け入れられなかった。ローマでは、過度にギリシア風なのは、軟弱だとして、嫌われる。


 顎髭といい、アトリウムに立ち並ぶギリシア風の彫像といい、ひょっとするとジウスはギリシア趣味なのかもしれない。

 つやつやと顔色のよく、現世利益を重視していそうなジウスからは、ギリシア哲学に傾倒していそうな雰囲気は、微塵みじんも感じられなかったが。


「初めまして。あなたが、ジウスね?」


 確認するまでもない。房飾りのついた立派なテュニカを着たこの男が、屋敷の主人だと明らかだった。

 それでもコレティアは、男を真っ直ぐに見つめて尋ねる。


「いかにも。わたしがジウスだ。コレティア、会えて嬉しいよ。噂で聞いた以上に美しい」


 ジウスは歓迎するように両手を広げると、コレティアを頭の天辺から爪先まで眺め回した。


 値踏みするような粘着質な視線だ。

 俺は言葉を交わす前からジウスに反感を抱いた。


 ジウスがコレティアに結婚を申し込んだ理由は、決して、コレティアの性格が気に入ったからではない。

 皇帝と縁続きであるという家柄や、元老院議員の娘である身分、人目を引く美貌などが魅力的だからだ。


 その証拠に、ジウスの目は、全く笑っていなかった。芝居がかった動作や言葉とは裏腹に、コレティアを見つめる眼差しは、まるで利用価値を確かめるかのように冷えきっている。


 万が一、ジウスがコレティアの蹴りをかわしたとしても、二人の結婚はあり得ないだろう。


 コレティアも、ジウスの眼差しに気がついたはずだ。商品を検品するように自分を値踏みするジウスをコレティアが夫として認めるはずがないし、ケリアリスとフラウィアも、娘が不幸になる結婚を許さないだろう。


「美しい、だなんて、求婚の手紙は饒舌だったけれど、誉め言葉は、ありきたりね」


 コレティアは、形良い鼻をつんと上げて、つまらなさそうに告げた。


「あなたには、一つ確認しておきたいことがあるのだけれど」

「何かな? 美しい花嫁殿」


 コレティアを花嫁呼ばわりするとは、ジウスの奴は気が早い上に、かなりの自惚うぬぼれ屋らしい。

 コレティアの蹴りをかわせると、信じて疑っていないのだろう。


「あなたが出した、結婚の条件についてよ」


「ああ、もちろん、君に不自由をさせたりはしないよ。君が望むものなら、何だって買い与えよう」


 鷹揚おうように頷いたジウスに、コレティアは芋虫でも見るような視線を向けた。呆れ果てたように鼻を鳴らす。


「私が聞きたいのは、あなたが蹴り倒されて怪我を負ったとしても、それはあなた自身が望んだことで、ケリアリス家に不服を申し立てるなんて事態は決してしないという確約よ」


 コレティアの言葉に、ジウスはとっておきの冗談を聞いたとばかりに吹き出した。


「ずいぶんと自信過剰なお嬢さんだ。いいだろう。わたしが蹴り倒されるなどという事態はありえないが、君が、それで安心するというのなら約束しよう」


「それを聞いて、安心したわ」


 コレティアが誰もが見惚れずにはいられないような、華やかな笑顔を浮かべる。 と同時に、ジウスに向かって、一歩を踏み出した。


 煌びやかな姿を誇示するように歩む姿は、コレティアの美貌を見慣れた俺でさえ、幻惑されそうだ。

 ジウスがごくりと唾を飲み込む音が聞こえた気がする。


 ジウスの目の前まで近づいたコレティアが、不意にあでやかに微笑んだ。

 と、コレティアの体が一瞬、沈む。


 裂帛れっぱくの声と共に、コレティアが跳んだ。

 服の裾からむき出しになった左足が、うなりを上げてジウスへ迫る。濃い緑色のストラが、羽のようにはためいた。


 ジウスは体を屈めると、辛うじてコレティアの左足を避けた。

 髭の下の唇を歪め、ジウスが傲慢な笑みを浮かべる。


 直後、ジウスの左側頭部の急所へ、本命のコレティアの右膝が綺麗に入った。


 笑みを顔に刻んだまま、脳震盪のうしんとうを起こして意識を刈り取られたジウスが、白目をいて前のめりに倒れる。


「さ、用は済んだわ。求婚はお断り。帰りましょう、ルパス」


 床にうつ伏せになったジウスには目もくれず、俺を振り返ったコレティアが、鬱憤うっぷんを晴らして気分良さそうな笑顔を向ける。


「ジ、ジウス様!」


 呆然と突っ立っていた門番が、コレティアの声に初めて我に返ると、ジウスへ駆け寄る。


 ジウスを介抱する門番を尻目に、俺達はジウスの屋敷を出た。 


 おそらく、ジウスは自分の身に何が起こったのかわからないまま、昏倒しただろう。コレティアの蹴りをかわした達成感に満たされたまま、意識を失ったはずだ。


 ふと疑問が湧いて、俺は、一歩先を踊るように軽やかに歩くコレティアに声を掛けた。


「コレティア。どうして、わざわざ左足を目眩めくらましに使ったんだ? あんたの利き足は、そもそも右足だろう?」


 コレティアは俺を振り返ると、呆れた目で俺を見た。


「あなた、気づかなかったの? ジウスの歩き方。あれは確かに、ただの商人の身のこなしじゃなかったわ。武芸に秀でている、という手紙の言葉は、虚言ではなかったようね」


 アトリウムの床のモザイクの鳥を数えていた俺は、ジウスの足取りなど見ていなかった。


 しかし、利き足ではないものの、コレティアの左足の鋭い蹴りは、普通の男なら、かわせもせずに蹴り倒されていたはずだ。

 一発目の蹴りを避けただけでも、大したものだ。

 ジウスは自分の武芸の腕前に自信があったのだろう。コレティアの蹴りを避けてみせるから結婚させてくれなどと、手紙に書くわけだ。


「理由は、もう一つあるわ」

 歩みを止めぬまま、コレティアは楽しげに微笑んだ。


「ジウスの鼻っ柱を、折って、踏み砕いてやりたかったの」


 俺はジウスの眼差しを思い出していた。

 コレティアを値踏みしようだなんて、愚かな真似をした報いだ。同情する気持ちなど、芥子粒ほども湧かない。


「さあ、やるべきことは済んだわ。お母様に報告したら、支度をして、ゲルマニアへ行きましょう!」


 コレティアは晴れやかな表情で伸びをすると、はやる気持ちを押さえきれない、とばかりに、ローマの青い空を見上げた。


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