11 フラウィアの条件
宮殿を出て、コレティアの屋敷へ帰り着いた時には、昼前になっていた。
「奥様が、
玄関の呼び鈴を鳴らすなり、待ち構えていた門番に告げられる。俺とコレティアは噴水の水音が寂しく響くアトリウムを抜けて、フラウィアが待つタブラリウムへ急いだ。
「お母様、ただいま戻りましたわ」
コレティアがしいて明るい声を出す。
俺とコレティアが宮殿へ行っている間、あれこれ気を
コレティアの声に、椅子に座っていたフラウィアは弾かれたように顔を上げた。
大理石のテーブルの上には、読みかけらしい巻物が幾つか置かれているが、どれも中途半端に開かれている。
この状態は、几帳面なフラウィアらしくない。コレティアを待つ間、雑務を片付けようとしたが、手につかなかったのだろう。
「お帰りなさい。そこの椅子におかけなさい」
フラウィアは姿勢を正すと、テーブルを囲む椅子を示した。俺とコレティアは、大人しく椅子に座る。
フラウィアはコレティアを真っ直ぐ見つめて、口を開いた。
「あなた達の身に何があったのか、教えてくれますね?」
「もちろんです。お母様」
頷いたコレティアは、ローマを旅立った後の出来事を、フラウィアに丁寧に話し始めた。
アレクサンドリアで、ゴルテスの妻カリペから、ゴルテスがローマを揺るがす陰謀に関わっていたと聞いた話。
アグニの噂を流していたユダヤ人商人を訪ねた帰りに、シカリオイに襲撃された事件。
アンティオキアでも、アグニの噂が流れていた事態。不安定なパルティアとの情勢。
ローマのポピディウスから届いた手紙の内容。
昨晩、ローマに到着してポピディウスから話を聞いた後、今朝、ウェレダの集合住宅を訪ねた行動。
ウェレダの階上に住む老婆から、キウィリスの名前を聞いた話。
「キウィリスですって!」
キウィリスの名前を聞いた途端、フラウィアは、突然、首筋に刃を当てられたように、悲鳴を上げた。
震える唇から、あっという間に血の気が引いていく。
「キウィリスを捕えにゲルマニアへ行こうだなんて、絶対に許しません! そんな危険なこと!」
ふだんなら、コレティアが多少の無茶をしようと、
「コレティア! あなたは、キウィリスの恐ろしさをわかっていません! もし、あなたがキウィリスと会えば……っ!」
フラウィアは恐怖に耐えられないとばかりに唇を震わせると、全身を
「お願いだから、ゲルマニアへ行くだなんて、恐ろしい真似はやめてちょうだい、コレティア」
フラウィアは椅子から立ち、震えてたどたどしい足取りでテーブルを回ろうとする。コレティアは慌てて立ち上がると、母の細い体を抱きとめた。
娘を見上げて、目に涙をにじませて懇願するフラウィアに、コレティアは困ったように視線を
これほど強い反対は、予想外だったに違いない。
「でも、お母様。ティトゥス陛下には、低地ゲルマニアへ赴いてキウィリスを捜し出してくると、既にお約束してきたのよ。交換所の使用許可証まで、いただいてきたの」
「コレティア! なんて約束を! ティトゥスも、そんな無茶を認めるなんて……」
娘の手回しの良さに、苦々しく顔をしかめて、
「お母様。誰かが陰謀を止めなくてはならないの。ゴルテスの死体を見つけた時から、いいえ、アグニの噂を耳にした時から、私は反乱の陰謀に関わっているのよ。今さら、結末だけ他人には譲れないわ」
「いいえ、駄目よ、駄目! ゲルマニアへ行くことは、断固、許せません‼」
強い意志を見せるコレティアの言葉に揺れかけた自分の心を叱咤するように、フラウィアは
「コレティア、あなたには、ローマにいてもらわなければ……」
手立てを探して、フラウィアは
タブラリウムには、俺達三人きりだ。フラウィアの味方は一人もいない。
コレティアの心をゲルマニア行きから逸らすものはないかと、フラウィアはテーブルの上の巻物に、
「そうだわ、コレティア! あなた、ジウスの宴へ行ってらっしゃい。あなたは自分より弱い男性とは結婚しないんだったわね。ジウスを倒せなかったら、ゲルマニア行きは止めて、彼と婚約なさい!」
緊張と混乱が極限に達したのだろう。フラウィアは突如、テーブルの一番上に置いてあった巻物を手に取ると、コレティアに突きつけた。
巻物を受け取った俺とコレティアは、素早く巻物へ目を走らせた。
ジウスなる人物からの巻物の内容は、コレティアへの熱心この上ない求婚だった。
曰く、自分はコレティアとは年が離れているが、商売に身を入れるあまり、婚期を逃して初婚である。
その分、資産はたっぷりとあり、身分は騎士階級だが、後ろ立てさえあれば、すぐにでも選挙に立候補して元老院議員になるのも不可能ではないし、結婚後のコレティアに不自由な思いをさせはしない。
コレティアが自分より弱い男性に興味がないのは知っている。わたしは若い頃から武芸をたしなんでおり、自分で言うのもおこがましいが、かなりの腕だ。
是非とも、一度、コレティアをお招きして、腕試しをすると共に、親交を温めたい。
コレティアさえよければ、すぐにでも婚礼の儀を云々。
「コレティア、よかったじゃないか。あんたの性格を十分に受け入れた上での求婚だぜ」
俺は何気ない風を装って、軽口を叩きつつ、フラウィアの様子をうかがった。
ジウスという男は確か、コレティアとフラウィアに見事な真珠の高価な耳飾りを揃いで贈った人物だ。ケリアリスがガリアに土地を購入した相手だったか。
くだんの真珠の耳飾りは、今もコレティアの耳で揺れている。
何の繋がりもない他人に、コレティアのゲルマニア行きを阻止させようとは、フラウィアはよほど切羽詰まっていたに違いない。
現に、勢いで突飛な条件を提示したものの、フラウィアはすでに後悔の表情を浮かべている。
だが、情に流されて、絶好の機会を見逃すコレティアではなかった。
「わかりましたわ、お母様。このジウスを蹴り倒してくれば、ゲルマニア行きを許して下さるのですね?」
「え、ええ……」
自分から条件を提示した手前、まさか冗談だと
「では、早速、ジウスの屋敷へ行って参りますわ。
「ティベリス川に近い、フラミニア街道沿いの……」
コレティアに求められるままに、フラウィアがジウスの屋敷の場所を答える。
アッピア街道沿いのこの屋敷からだと、中央広場を通って、市内を北へ縦断すれば最も早い。
説明の途中、フラウィアはちらりと俺に
だが、母親にも引き留められないコレティアを、俺が止められるはずがない。申し訳ないが、俺は力なく首を横に振って、助力は不可能だと伝えた。
「ルパス。行くわよ」
椅子から立ち上がったコレティアは、フラウィアに引き留められる前に、さっさとタブラリウムを出ていく。
俺はフラウィアに一礼して、コレティアの後を追った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます