10 蜂蜜みたいに甘い考え?
「シリア総督の父、ケリアリスからことづかった、報告書です」
コレティアは滑るような足取りで進むと、ティトゥス帝に巻物を手渡した。
「ケリアリスから、だと?」
シリアはパルティアと国境を接する重要な属州だ。ティトゥス帝の表情が引き締まる。
ティトゥス帝は巻物におされていた
読み進める内に、皇帝の顔がどんどん険しくなっていく。
読み終えたティトゥス帝は、渋面のまま、パピルスを巻き直した。
「にわかには信じがたい規模の陰謀だが、官吏達を納得させるような証拠はあるのか?」
「残念ながら、ございません」
コレティアがゆっくりと、かぶりを振る。
ティトゥス帝は懐の深さを感じさせる笑みをこぼした。
「なるほど、人払いを望むわけだな」
少なくとも、ティトゥス帝自身は、たとえ証拠が皆無でも、ケリアリスの報告を信じる気らしい。
「アグニの噂は、わたしの耳にも届いていた。だが、まさか、かような陰謀が隠されていたとはな」
「陛下。父の報告に加えて、新たにお伝えすることがありますの」
難しい表情で呟くティトゥス帝に、コレティアが静かな声で告げる。
「この陰謀には、ウェレダだけではなく、キウィリスも関わっておりますわ」
「キウィリスか」
ティトゥス帝は顔をしかめた。
十年前、ユダヤ人の反乱を鎮圧する為にイェルサレムを攻城していたティトゥス帝は、キウィリスと直接に戦った経験はない。
しかし、ガリア帝国を打ち建てた反乱の首謀者は、記憶に刻まれていると見える。
「私達は、低地ゲルマニアへ、キウィリスを捕えに行きますの」
「真冬に低地ゲルマニアへか。元気だな」
コレティアの宣言に、ティトゥス帝は感嘆とも呆れともつかぬ声で苦笑する。
だが、非難する響きはない。
むしろ、親子ほども年の離れた従姉妹のじゃじゃ馬ぶりを楽しんでいるかのようだ。
「ゲルマニア、ユダヤ、パルティアと、ローマ帝国中で反乱の火の手を上げようなどという大胆な陰謀は、キウィリスが計画を主導しているに違いありません。消火をするなら、火の元を押さえなくては」
「そうだな。これほど大規模な陰謀を考えつく者が、おいそれといるとは思えぬ。首謀者の一人にキウィリスがいると考えて、間違いあるまい」
ティトゥス帝はコレティアの言葉に同意して頷いた。
「陛下のおっしゃる通り、首謀者は、キウィリス一人だけとは限りません」
コレティアは、俺達が陰謀に関わる羽目になった最初の事件、ゴルテスの死体を見つけた時の状況を手短に話した。
犯人がウェレダかどうかは不明だが、ゴルテスを殺した犯人もローマにいる可能性は、高い。
コレティアは、真面目な表情で話を続ける。
「いくらローマ帝国の各地で一斉に反乱を起こしたとしても、陛下が断固とした処置で大軍を派遣すれば、反乱軍などローマ軍団の敵ではないでしょう。ですが――」
「ローマ帝国の中枢が混乱の極みに陥っていては、果断な指揮もままならぬ。つまり、わたしの身が狙われる可能性がある、と?」
コレティアの言わんとする内容を察し、ティトゥス帝が後を引き取る。
「可能性が絶無とは言えません」
碧い瞳に厳しさをにじませて、コレティアは皇帝を見つめた。
「少なくとも、ウェレダはローマに潜伏しております」
亡きウェスパシアヌス帝によって、ティトゥス帝の跡を継ぐ人物はティトゥス帝の弟のドミティアヌスだと決められている。それは、元老院も認可済だ。
但し、少年の頃から父ウェスパシアヌスの任地に赴いて軍務を学び、ユダヤ戦役では総司令官の大任を果たして、凱旋式を行うほどの戦功を立てている兄ティトゥスと異なり、ドミティアヌスは、兄と十二歳も年が離れている事情もあり、未だ、あまり政務や軍務に関わっていない。
もちろん、ローマ市民が歓呼の声を上げるような戦功もない。ウェスパシアヌス帝は、定員が二人の執政官にティトゥスと共に就任するなど、ティトゥスを共同統治者として重んじ、経験を積ませたが、どうやら次は、兄が弟に経験を積ませるように期待して、崩御したらしい。
つまり、現時点では、次代の皇帝となるべきドミティアヌスは、まだ皇帝の責務に見合うだけの経験を積んでいない。
今の状況で、ティトゥス帝に万が一の凶事が起きれば、ローマ帝国は麻のように乱れるだろう。
「陛下。どうか、御身にお気をつけ下さい。人払いをお願いしたのは、このためでもありますの。敵はどこに潜んでいるか、わかりませんもの」
話す内容に反して、コレティアの碧い瞳は悪戯っぽく輝いている。
ティトゥス帝は察しよく、コレティアが言外に伝えようとした内容を感じ取った。
「コレティア。おぬし、ローマ市内に潜伏している反乱者どもの調べは、わたしに押し付けていくつもりだな?」
「私達はローマから離れますもの。調べたくても、体は一つしかありませんわ」
苦笑したティトゥス帝に対して、コレティアは肩をすくめて悪びれる様子もない。
「何より、狙われるのは陛下御自身ですもの。御自分の身は自ら守っていただかなくては」
コレティアの言葉に、ティトゥス帝は、やれやれと吐息した。
「やるべき仕事がこうも多くては、気が滅入るな」
顔は苦笑しているが、声には僅かに疲れがにじんでいる。
俺はティトゥス帝に拝謁するのは初めてだが、今までの言動から察するに、ティトゥス帝は限られた身内の者以外には、決して弱音を吐かぬのだろう。
「仕方がありませんわ。皇帝たる者、帝国中で一番、働き者でなければなりませんもの」
素っ気ない口調で告げたコレティアは、不意に優しく微笑んだ。
「働き者の陛下には、次にお会いした時に、ゲルマニアでの波瀾万丈の冒険譚を聞かせて差し上げますわ」
「それは、楽しみにしていよう」
ティトゥス帝は明るく笑って、コレティアに目配せした。つまり、ゲルマニアのキウィリスについては、コレティアへ一任するというわけか。
もし、コレティアが男に生まれていれば、ケリアリスの秘蔵っ子として、ゆくゆくはティトゥス帝の片腕となっていただろう。
だが、女の身では、男社会の政治組織の中で実力を振るう機会すら、与えられない。
たとえ、皇帝の意を受けてキウィリスを捕えたとしても、表立ってコレティアが称賛される事態は、あり得ないだろう。
もっとも、コレティアは自分の好奇心を満たす為に行動しているのであって、称賛など、最初から求めていないだろうが。
「春には、ローマへ帰ってくる予定ですわ。次にお会いできるのは、メガレシア祭の頃でしょうか」
メガレシア祭は、
メガレシア祭の間、キュベレー神殿は公開され、神殿の前では劇が演じられる。最終日には、大競技場で戦車競走も行われた。
まもなく十二月だが、低地ゲルマニアへは、往復だけでも四ヶ月以上はかかる。
もし、帝国中で一斉に反乱が起きるのならば、早くて次の春だろう。
冬は、戦争には適さない季節だ。
コレティアは春までにキウィリスを捜し出し、陰謀に終止符を打つ気だ。
「少しでも、役に立つだろう。
「ありがとうございます。お心遣い、痛み入りますわ」
ティトゥス帝の言葉に、コレティアは丁寧に礼を述べた。
「心おきなくメガレシア祭を迎えられることを期待している」
「私もですわ、陛下」
深く頷いたコレティアに、労りの眼差しを注いだティトゥス帝は、次いで、俺に視線を向けた。
「おぬし、名はなんと申す?」
「ルキウス・セウェリウス・ルパスと申します」
「コレティアを、頼むぞ」
「振り落とされぬよう、気をつけます」
俺と陛下は、コレティアのじゃじゃ馬ぶりを知る者同士だけに通じる苦笑いを、交わし合う。
「あら。陛下とルパスは、意外と気が合う御様子ですわね。けれど、私を簡単に乗りこなそうだなんて、蜂蜜のように、甘い考えですわよ」
俺とティトゥス帝の顔を交互に見やって、コレティアは剣呑な笑みを華やかに浮かべた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます