9 コレティアの戦友


 どんなに着飾っていても、中身はやはりコレティアだった。


「パラティヌスの丘まで近いのだもの。自分の足で歩いた方が早いわ」


 コレティアは、屋敷の臥與がよには見向きもせずに、先に立って歩く。俺はてっきり、コレティアは臥與を使うと思っていたのだが、当てが外れた。


 ローマ市内では、警察隊と近衛軍団を除いて佩剣を禁止されている。

 普段の俺なら、用心に短剣をブーツに隠しているが、宮殿へ行く今は、さすがに置いてきた。暗殺者だと疑われて、国家反逆罪で死刑になるのは御免だ。


 余計な騒ぎを招かない為に、コレティアには臥與に乗ってほしかったのだが、仕方がない。俺はコレティアを守る為に、コレティアの半歩前を用心深く歩いた。 


 アッピア街道を行く人々が、凛と背筋を伸ばして足早に歩くコレティアを、感嘆の眼差しで振り返る。

 コレティア自身は、自分の美貌の威力を知っているのかいないのか、涼しい顔だ。


 大競技場の北東にあるパラティヌスの丘は、コレティアの言う通り、アッピア街道沿いの屋敷からは、臥與など必要ないほど近かった。


 宮殿は、政務に使われる公的な部分と、皇族が暮らす奥まった私的な部分とに分かれている。

 宮殿の中は、陳情に来たらしい巻物を持ったトーガ姿の元老院議員や、足早に通り過ぎる白いテュニカの解放奴隷の官吏等で、ざわめいていた。


 俺にとっては、初めての宮殿だ。みっともない真似はしたくないとは思うものの、つい好奇心に負けて、あちらこちらに首を巡らせてしまう。


「みっともないわよ。やめなさい。こちらへいらっしゃい」


 挙動不審で警備の近衛兵に誰何されても仕方ない俺に冷たく命じて、コレティアは大理石でモザイクが施された通路を進む。


 皇帝の謁見えっけんの間に通じる長い廊下には、謁見を待つトーガを着た人々が、長蛇の列を作っていた。

 廊下には壁に沿って椅子が置かれているが、足りていない。


 亡きウェスパシアヌス帝は、謁見を望む者とは、たとえ政敵であろうとも、気軽に対面した市民皇帝だったが、息子のティトゥス帝も、同じ考えらしい。


 コレティアは澄ました顔で並ぶ人々の横を通り過ぎると、先頭に立つ。列の中から小さな声で不満が上がったが、視線すら向けない。


「並ばなくていいのか?」


 俺はコレティアに小声で尋ねた。

 列の中には、トーガの裾に緋色の線が入った明らかに元老院議員とわかる人物もいた。俺の問いにコレティアは、つんと鼻を上げて、小声で返す。


「いいのよ。皇帝と縁続きだなんて、こんな時くらいしか役立たないのだもの。私達は急ぐんだから、せいぜい利用させてもらうわ」


 言葉を切ったコレティアは、突然、列の先頭に割り込んだ女神のような美貌の少女に戸惑う宮殿の侍従に、華やかに微笑んだ。


「あらかじめ、我が家の奴隷に、皇帝にお目見えしたいと伝言を持たせたコレティア・ペティリアだけれど、ティトゥス陛下に取り次いでもらえるかしら」


 自信にあふれたコレティアの口調は、自分の要望が却下されるとは、露ほども考えてないようだ。


「少々、お待ち下さい」


 侍従は謁見の間と通路を隔てる幕の向こうへ、さっと姿を消した。

 待つほどもなく、中にいた陳情者が出てきて、入れ違いにコレティアと俺が案内される。


 謁見の間は、天井が高い広めの部屋だった。実際の面積よりも広く感じる要因は、室内の人数に比べて、家具が少ないせいだろう。


 ティトゥス帝は壁際に置かれた長椅子に座り、手元の巻物に目を落としていた。 長椅子の前の大理石のテーブルには、巻物や書字板が小山のように積まれている。


 皇帝の側には六人の書記官がずらりと並び、うち二人が、猛烈な勢いで書字板に鉄筆を走らせていた。


 皇帝だけに許される紫色のトーガをまとったティトゥス帝は、俺達が入って来たのを知ると、巻物から顔を上げた。

 頭には宝石も花冠も着けていないが、身分を疑う者は誰一人としているまい。

 金貨に刻まれている横顔と瓜二つだ。


「コレティア! 君が宮殿に来るとは、珍しいな」


 ティトゥス帝は巻物を脇へ置いて、わざわざ長椅子から立ち上がると、血の繋がりのない従姉妹へ歓迎の意を示して、両腕を広げた。


 ティトゥス帝はいかにも軍人らしい、がっしりと重厚な体つきをしていた。

 背はさほど高くないが、体の内から発せられる威厳が、実際より体を大きく見せている。

 四十歳らしい落ち着きをたたえた顔立ちは、誠実さと責任感を絵に描いたようだが、広大な帝国を誠実さだけで統治するなんて不可能だ。

 統治者に必要なしたたかさも、隠し持っているに違いない。


「お久しぶりです、陛下。少し、おせになられたのではありませんか?」


 コレティアは淑女としてどこに出しても恥ずかしくない所作で優雅に礼をすると、ティトゥス帝を見て、眉を寄せた。


「ローマ帝国を統治する責任を負っているからな。身が引き締まろうというものだ」


 部下の前で弱音を吐くような姿は見せないつもりだろう。ティトゥス帝は、鷹揚おうような笑みを浮かべると、コレティアを眺めた。


「コレティアは、しばらく会わない内に、娘らしくなったな」

「母が聞いたら、喜びますわ」


 コレティアは、にこやかに答えた。だが、ティトゥス帝の言葉に感銘を受けた様子など全然ないのは明らかだ。


「まだ、ネアポリス湾へ赴いて、復興の陣頭指揮を執られてますの?」

 コレティアの問に、ティトゥス帝は苦い顔で頷いた。


「ポンペイとヘルクラネウムの被害が、特にひどくてな。まだしばらくは、ローマとカンパニアを行き来することになりそうだ」


 数ヶ月前のウェスウィウス山の噴火がどれほど凄まじかったかは、ネアポリス湾に居合わせた俺達が、嫌というほど知っている。


 噴火時の風向きのせいで、ポンペイとヘルクラネウムには、街を灰色一色に塗り尽くして覆うほど大量の火山灰が降り注いだらしい。


 ポンペイの人口は約二万人、ヘルクラネウムの人口は約五千人だが、噴火と、その後の火砕流によって亡くなった人数は、人口の一割以上だと伝えられている。

 加えて、噴火の後に降った雨のせいで、火山灰がセメントのように固まり、灰の下に埋もれたままの遺体を掘り起こす事態さえ、ままならないそうだ。


 ティトゥス帝の言葉から推察するに、皇帝はカンパニアで災害復興の陣頭指揮をりつつ、必要に応じて、首都へ戻って政務をこなしていると見える。


 廊下にずらりと謁見願いの者が並んでいたのも、なかなか皇帝にお目に掛かれない状況だからだろう。


「わたしの御機嫌伺いの為だけに、他の謁見者を押し退けたわけではなかろう。本題は、何だ?」


 苦笑して告げられたティトゥス帝の言葉に、コレティアは表情を引き締めた。皇帝の脇に控える書記官達にちらりと視線を走らせる。


「陛下。人払いを」


 コレティアの厳しい表情に、何事かを感じたのだろう。ティトゥス帝は尋ね返しもせずに、身振りで書記官達を下がらせた。

 と、俺を見て悪戯っぽく笑う。


「その者は、よいのか?」


「彼は私の護衛、いいえ、戦友ですの。信頼の置ける者ですわ」


 コレティアが俺を横目で見、ティトゥス帝に向き直って、咲き誇る花のように微笑む。


 コレティアに戦友と呼ばれるなんて、どうにもくすぐったくて、居心地が悪い。


 俺は、むずむずする唇を抑えて生真面目な顔を作ると、ティトゥス帝に頭を下げた。


「コレティアに戦友と呼ばせるとは、おぬし、なかなかやるな」


 ティトゥス帝は可笑しそうに笑うと、俺を見つめる。


 俺はもう一度、深く頭を下げると、持っていた旅行用の文書箱からケリアリスに託された巻物を取り出し、コレティアに渡した。


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