8 あなたのような貧乏人、誰も取って食いやしないから


 俺とコレティアは、宮殿に行く準備の為に、コレティアの屋敷へ行った。


 ティトゥス帝に謁見えっけんするかもしれないのに、さすがに、無精髭ぶしょうひげとテュニカのままでは礼を失する。


 とはいえ、俺が持っているトーガは、何年も前に古着屋で買った、やたらと虫食い穴の空いたトーガ一枚きりだ。

 コレティアの屋敷で、ケリアリスのお古のトーガを借りる算段になっていた。


 ケリアリスに託された報告書以外の荷物は、ポピディウスの家の奴隷に命じて、コレティアの屋敷へ運ばせてある。報告書を入れた革の文書箱だけは、万が一の事故があってはならない為、俺が背負っていた。


 大競技場から南東へ進んで、アッピア街道へ入り、カペナ門を潜れば、コレティアの屋敷は、すぐ目の前だ。

 アッピア街道は、トーガを着、お仕着せの奴隷を供に従えた、いかにも金のありそうな男や、テュニカを重ね着した職人達、買い物用の大きな籠を持った奴隷や、奴隷が担ぐ輿等で混雑していた。

 街道の両側には、青銅器や素焼きの食器、野菜や焼いた肉を売る屋台等、様々な露店が並んでいる。閑散とした大競技場沿いの道とは大違いだ。


「お帰りなさいませ、お嬢様!」


 屋敷の呼び鈴を鳴らすと、コレティアの姿を見とめた門番が、嬉しそうに声を張り上げた。

 門番は、次いで俺を見ると、抜いても抜いてもしつこく生えてくる雑草を見るような嫌悪の目で、俺を見た。


「お前は、まだお嬢様につきまとっているのか」

「言っておくが、俺に護衛を依頼したのは、コレティア自身だぞ」


 唇を歪めて、皮肉っぽく笑って門番へ言ってやると、門番は顔を真っ赤にして憤った。

 しかし、文句は口にしない。言えば、門番が敬愛して止まないお嬢様の判断に、ケチをつけるも同然だからだ。


 口をひん曲げて俺を睨みつける門番の横を通り抜け、俺はコレティアに続いて、冬の澄んだ陽光が降り注ぐアトリウムへ入った。


 コレティアは、アトリウムで待ち構えていた人物を見た途端、駆け出した。


「お母様!」


 アトリウムの中央に設けられた噴水近くの長椅子で、巻物を読んでいたフラウィアは、突進してきた娘を細い体で抱きとめた。


「お帰りなさい、コレティア。来年の春までは、クィントゥスの元から帰ってこないと思っていたけれど、あなたはいつも、私の想像を越えた行動をするのね!」


 金を熔かしたようなコレティアの髪に頬を寄せ、フラウィアは苦笑した。


「安心して、お母様。私、すぐに旅立つ予定なの」


 フラウィアにとっては、安心できる要素など一つもないだろう。

 それでも、コレティアは明るい笑顔で母親に告げる。


「あらあら。今度は、どこへ行くつもり?」


 フラウィアは余裕のある表情を崩さず、コレティアへ尋ねる。

 コレティアは、大競技場へでも行くような気軽さで答えた。


「ゲルマニアへ――」

「ゲルマニアですって!」


 コレティアの言葉を遮って、フラウィアが悲鳴のような声を上げる。


 俺の目には一瞬、フラウィアが砂の柱になって崩れ落ちたように見えた。

 かしいだ体が長椅子に当たり、長椅子の上に置かれていた巻物が床へ落ちる。


 勢いがついた巻物は、ころころと転がり、モザイクの床の上に、パピルスの小川を作った。


「ゲルマニアだなんて! そんな、嘘よね⁉ コレティア⁉」


 コレティアを問いただすフラウィアの声は、まるで亡霊でも見たようにわなないている。衝撃のあまり、顔から血の気が失せていた。


 ふだんのフラウィアらしからぬ混乱ぶりに、コレティアの顔にも戸惑いの表情が浮かぶ。


「お母様。ゆっくり説明したいのですが、申し訳ありません。私達は急いで宮殿へ行かなくてはならないの。お父様から、陛下へお渡しする巻物を託されているのです」


 コレティアが申し訳なさそうに、フラウィアへ告げる。


「クィントゥスから、陛下へ巻物を?」


 フラウィアがおうむ返しに茫然と呟く。

 シリア総督が国営郵便も使わず、火急に皇帝に使いを送る重大さに思い至ったらしい。

 フラウィアの表情に、徐々に落ち着きが戻ってくる。


「アンティオキアで何事かが起こったのですね?」


 さすが武人の妻というべきか。顔色はまだ白いが、フラウィアは気丈な様子で娘から身を離した。

 コレティアが厳しい表情で頷く。


「お母様。私達はアンティオキアへの旅路で、ローマ帝国を揺るがしかねない陰謀を知ってしまったのです。けれど、ローマでは、まだ誰一人として陰謀の存在を知りません。私達は一刻も早く陛下に陰謀が企てられていると伝えなくてはならないのです」


 ウェレダの身柄を押さえられなかった以上、少しでも早く、ティトゥス帝に反ローマの陰謀を話し、人手を確保する必要がある。


 なんといっても、ここは世界の首都カプトゥ・ムンディローマだ。


 ウェレダを始め、ローマに潜伏しているだろう反乱者達を探すには、俺とコレティアの二人では、あまりに手が足りない。

 蟻が二匹で獅子ののみ取りをするようなものだ。


 加えて、俺とコレティアは、キウィリスを捕える為に、ゲルマニアへ行く予定だ。ローマの安全を、信頼できる人物に託す必要がある。


 フラウィアは一つ深呼吸して気持ちを落ち着けると、コレティアを見つめた。


「あなた達が、重大な使命を負っているのは、わかりました。身支度を整えて、まずは宮殿へ行ってらっしゃい。けれど、帰ってきた時には、ちゃんと説明をしてくれるわね?」


「もちろんです、お母様」


 コレティアは安心させるように、フラウィアの華奢な体を優しく抱きしめる。

 しばらく、フラウィアを抱きしめた後、身を離したコレティアは奴隷達へ、てきぱきと指示を出した。


 ◇ ◇ ◇


 俺はコレティアと別れ、別室へ通される。

 理髪師にひげってもらい、ついでに伸びてきていた髪も切られた。


 理髪師が去ると、奴隷が二人がかりで俺を着替えさせる。

 ケリアリスのお古のこざっぱりしたテュニカとトーガは、古着とはいえ、俺が今まで着た中では一番、群を抜いて上等な服だった。

 奴隷が二人して、トーガのひだを念入りに整えてくれる。


 身支度が終わり、アトリウムへ行くと、待つほどもなくコレティアがやって来た。年頃の娘の支度にしては、驚異的な早さだ。


 だが、身支度が簡素だからといって、コレティアの美貌が損なわれるわけではない。


 コレティアは、裾に銀糸の刺繍ししゅうが入った濃い緑のストラに着替えていた。白い肌と金の髪がよく映える。

 髪は高く結い上げ、ストラと同じ緑のリボンで束ねてある。露わになった耳には、いつも着けている真珠の耳飾りが揺れていた。


 唇にだけ、薄く紅を引いているのだろう。笑みの形を刻んだ唇は、ブリタニア産のもぎたての林檎のように美味そうだ。


 コレティアは、俺の姿を頭から爪先まで眺めると、満足そうに頷いた。


「旅の間の酷い格好とは、見違えるようね」


 アンティオキアからローマへ戻ってくる旅路では、公衆浴場で理髪師に髭を剃ってもらう暇さえ惜しんで、馬を駆ってきた。

 俺は久々にさっぱりとした顎を撫でて、コレティアを上から下まで眺め返した。


「あんたも、ティトゥス陛下を色仕掛けで籠絡ろうらくできそうだぜ」


 俺は一度、思わせぶりに言葉を止めて、にやりと笑う。


「ま、口を開くまでのはかない間だが」


 ユダヤの王女ベレニケとの結婚をローマ市民に反対されて以来、ティトゥス帝は独身を貫いている。

 ベレニケ王女への純情を守っているのか、適当なお相手がいないだけなのかは、俺にはわからない。


 だが、皇后へ登り詰めたいという野心を持つ女にとっては、四十歳で男盛りのティトゥス帝は、この上なく魅力的に映るだろう。


 俺の言葉に、コレティアが呆れたように肩をすくめる。


「ティトゥス陛下は、年の離れたお兄様みたいな方よ。色仕掛けなんて、する気は欠片も起こらないわ」


 ティトゥス帝の亡き父ウェスパシアヌス帝とフラウィアは姉弟だから、養子でフラウィアと血の繋がりはないとはいえ、コレティアとティトゥス帝は従兄弟にあたる。


「宮殿には、行き慣れているのか?」

 俺の質問に、コレティアは鼻をつんと上げ、いかにも余裕綽々よゆうしゃくしゃくと答えた。


「少なくとも、あなたよりはね」

「そいつは心強い。俺は、初めてなんでね」


 ひがむ気持ちは微塵もなく答える。

 皇帝に会うと思えば、俺だって少しは緊張する。


 緊張気味の俺の顔が可笑しかったのか、コレティアが声を立てて笑った。


「安心なさい。あなたのような貧乏人、誰も取って食いやしないから」


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