7 俺はもう、手の届かないところで


「本当か?」


 信じられず、思わず問い返す。


 コレティアの容貌は、どこからどう見てもゲルマン人の特徴を備えている。

 金の髪、抜けるように白い肌、ローマ人の男にも負けないほどの背の高さ、碧い瞳。


 以前に、コレティアはケリアリスが外に産ませた子どもだと聞いた覚えがある。ケリアリスはローマ人だから、必然的に、母親がゲルマン人なのだろう。


「以前、母親が死んで、ケリアリスに引き取られたと言っていたな。ケリアリスに引き取られたのは、十年前、ケリアリスが反乱を鎮圧しにゲルマニアへ進軍した時なのか?」


 俺の質問に、コレティアは、ゆっくりと頷いた。


「その通りよ。私は、高熱を出して、救護所に入れられていたの。そこへお父様が来て、私に告げたのよ。「コレティア。お前の母親は、死んでしまった。だが、わしはお前を引き取ってローマで育てたいと思っている。一緒に来るかい?」って」


 コレティアは、珍しく寂しげな表情を見せた。


「高熱で生死の境を彷徨さまよっているうちに、私は記憶を失くしていたの。私を生んでくれた実のお母様の顔も、ぼんやりとしか思い出せないほどだった。だから、反乱が終結した後、お父様に連れられて、ローマへ来たの」


 十年前のキウィリスの反乱では、全てのゲルマン人とガリア人が、一枚岩となってキウィリスの味方になったわけではなかった。

 より有利な側へ付こうと日和見ひよりみを決めた部族もあれば、ローマの味方で留まった部族もいた。


 兵站へいたんを重視し、兵糧も現地人に金を払って買い集めるローマ軍に対し、ゲルマン人は行軍中の略奪を辞さない。むしろ、積極的に行う。


 おそらく、コレティアの実の母親は、反乱者の略奪に抵抗して命を奪われたのだろう。

 もしくは、コレティアと同じ病に倒れて、手当の甲斐なく、冥府へ旅立ったのかもしれない。


「フラウィアお母様は大好きよ。今の生活に不満なんてまったくないけれども……。ゲルマニアに行って、記憶を失う前のことを探したくないかと問われればば、知りたいとしか言えないわ……」


 出逢ってから初めて、コレティアが気弱な声を出す。

 まるで、迷子の幼子のような、頼りない表情。


 コレティアも、俺と同じように、十年前の反乱によって運命の変転を迎えた者だとわかると、俺の心に労わりの気持ちが込み上げた。


 俺の視線に気づくと、コレティアは挑発するように、つん、と鼻を上げる。

 一瞬で気弱な表情が消え、いつもの勝気な光が碧い瞳に宿る。


「憐みの眼差しは、やめなさい。蹴り飛ばすわよ」


 言葉と同時に、コレティアの鋭い蹴りが俺を見舞う。

 体中の力が抜けていた俺は、かろうじて蹴りを避けた。


 ふん、とコレティアがつまらなさそうに鼻を鳴らす。


「避けられなかったら、役立たずの護衛だと罵ってあげようと思ったのに」

「どうやら、失業は免れたようだな」


 俺が苦笑いして言うと、コレティアは強い光を宿した瞳で、俺を睨みつけた。


「同情なんて、安っぽい憐みをかけないで。そりゃあ、失くした記憶と取り戻したくはあるけれど、記憶を失くしていたって、私は私よ。記憶がなければ、その分、充実した未来を創ればいいだけの話なんだから」


 コレティアの心の強さに、俺は目を見張る思いだった。


 十年前の俺に、聞かせてやりたいほどだ。

 だが、過ぎ去った時間は、決して元には戻らない。


 俺は、昔話を続けた。


「結局、キウィリスの反乱が終結するまで、俺は救護所の寝台の上で、生死の境を彷徨っていたんだ。一緒に戦った仲間が、死んだり、キウィリスに忠誠を誓わされる屈辱を味わっていたっていうのに」


 いくらか傷が回復して、動けるようになった時には、全てが終わっていた。


 反乱は鎮圧され、首謀者のキウィリスは行方不明。

 ウェテラが陥落した際に捕虜にされていた仲間達は、第十五軍団を解体され、幾つもの軍団に分けて再編成されていた。


 反乱鎮圧後の事態を知った時、俺の心に押し寄せたのは、激しい後悔だった。


 死にたかったわけじゃない。

 けれど、最後まで戦わず、のうのうと生き残った自分が、どうしても許せなかった。


 ウェテラで、仲間達と共に、キウィリスに忠誠を誓うという屈辱を味わっていれば、まだ、心の慰めになったかもしれない。

 しかし、俺はそれすら回避してしまった卑怯者だった。


 脇腹の負傷は言い訳にならない。反乱者達と戦っていた時、仲間のほとんどは、どこかを怪我していた。俺はただ、負傷した時期が、運が良かっただけだ。


「俺は、脇腹の負傷を理由に、ローマ軍を除隊した。望んでウェテラから逃げたわけじゃないが、俺が卑怯な裏切り者である事実は変わらない。罪の意識を背負ったまま、生き残った仲間達の元へは帰られなかった」


「あなたらしいわ。変なところで生真面目なのね」


 表情を引き締めたまま、コレティアが言う。

 からかう様子はない。むしろ、不器用さを慈しむような声音だった。


 たとえ、第十五軍団の生き残りが俺を許すと言ってくれたとしても、俺が自分自身を許せなかった。

 自分を許せば、籠城戦の中、死んでいった戦友達に冥府で合わせる顔がない。


「軍団を除隊した俺は、帝国のあちこちを旅しながら、危険な仕事を受けて回った。十年前の俺は、どこかへ逃げ出したくて、仕方なかったんだ。死に場所を探し求めていた」


 ヒスパニア、マウリタニア、シリア、ギリシア、ガリア、エジプト……。

 ゲルマニア以外の土地なら、ほとんどを旅した。


 どの地域も死んでいった仲間達が、いつか旅してみたいと夢見がちに話していた場所だ。間接的とはいえ、仲間達の願いを叶えるのが、俺なりの手向けだった。


 護衛などの危険な仕事を請け負って日銭を稼いでは、次の土地へ行く。

 根なし草の生活を何年も続ける内に、ようやく生き残った自分の人生を楽しむ余裕が出てきた。


 けれど、体の傷は癒えても、心の傷は、いつまでも癒えなかった。ゲルマニアの噂を聞くなど、ふとした拍子に、傷はすぐに血を流した。


 俺が自分で自分を許せない限り、心の傷は消えないだろう。

 許す日は、おそらく一生やって来ないだろう。

 だから、俺は、死ぬまで心の傷のうずきに付き合う羽目になる。


 だが、もし、行方不明のキウィリスを捕え、戦友達の仇を打てば、俺はもう負い目を感じずに済むかもしれない。


 俺の心を読んだかのようにコレティアが言う。


「ポピディウスの手紙でウェレダの名前を知った途端、何が何でもローマへすぐ帰ろうとしたのは、仲間の仇を討ちたかったからね」


 俺は、深く頷いた。

 ケリアリスの意向に逆らい、コレティアの我儘わがままな依頼を受けてまで急いでローマへ戻ってきた理由は、ポピディウスが心配だった為でもあるが、キウィリスと繋がっているかもしれないウェレダを逃したくなかったからだ。


 話し終えた俺は、疲労のあまり溜息をついた。


 十年前の話を人にしたのは、初めてだ。


 ポピディウスにさえ、話していない。付き合いの長いポピディウスは、ゲルマニアで俺の身に何かあったらしいと感じているようだが。


 頭を振って感傷を吹き飛ばし、俺はコレティアを見つめた。強い声で、厳しく告げる。


「ゲルマニアへ行くのは、よせ。キウィリスは、あまりに危険過ぎる」


 俺はいい。

 俺の命は、本当なら十年前に終わっていた命だ。キウィリスを討てるなら、命を引き換えにしたってかまわない。


 だが、コレティアは違う。

 コレティアには、いくらでも豊かな未来の可能性がある。十年前についえたはずの反乱に巻き込まれる必要はない。


「下手な冗談は、やめなさい」


 俺の忠告をコレティアは鼻で笑い飛ばした。


「あなたは、誰が止めようと、ゲルマニアへキウィリスを探しに行くのでしょう。私だって、同じよ。誰に止められたって、意志は変わらないわ」


 やや足を開いて、地面を踏みしめ、コレティアは傲然ごうぜんと言い切る。


「遊びに行くんじゃないんだ。キウィリスを甘く見るな。もし、あんたがキウィリスに捕えられたら、どうする? キウィリスは、躊躇ためらいもなく、あんたをケリアリスとの交渉の札に使うだろう。あんたは、どこで野垂れ死んだっていい俺とは、違うんだ」


 聞き分けのないコレティアに、俺の眼差しに怒りが籠る。

 コレティアは高慢に顎を上げた。


「私は、あなたに野垂れ死んでいいと許可した覚えはないわ。依頼はどうなるの? 私は、骨壷の中に報酬を入れるなんて、御免よ」


「報酬が浮いて、いいじゃないか」

 俺は、投げやりに吐き捨てた。


 コレティアの言動に、いつも以上に腹が立つ。

 思いは、口を突いて出た。


「俺はもう、俺の手の届かないところで、仲間に死なれるのは真っ平なんだ」


 自分でも思いがけない言葉だった。

 告げた内容に、俺自身が一番、驚く。


 コレティアは、珍しく虚を突かれたように目を見張った。

 それから、華やかに破顔する。


「私を誰だと思っているの。心配は無用よ」


 コレティアは、白い繊手せんしゅを俺へ伸ばした。


「私は、あなたではないから、あなたの心の傷の深さは知らない。けれど、あなたが苦しんでいることは想像できるわ。ゲルマニアには、二人で行くのよ。私は、私の意志を貫いて真実を見つける為に。あなたは、キウィリスを捕えて、心の傷を癒す為に」


 コレティアは碧い瞳を悪戯っぽく輝かせる。


「利害関係が一致しているんだもの。手を組んで損はないと思わない?」


 物怖じしないコレティアの言葉に、俺はつい、吹き出してしまった。

 俺の明るい笑い声が、路地裏に響く。


「ようやく、いつものあなたに戻ったわね」


 俺の笑い声に、コレティアも微笑む。

 コレティアの言う通り、笑う内に、胸の中の感傷や鬱屈は、どこかへ飛んでいた。


「さ、行きましょ。ぐずぐずしている暇はないわよ」

 コレティアは、再び俺へ手を伸ばした。


「ああ、そうだな」


 力強く頷いて、俺は差し出されたコレティアの手を握り締めた。


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