6 十年前の反乱


 薄暗いインスラから外へ出ると、冬の白っぽい陽光が、いやにまぶしかった。


「ゲルマニアへ行くことになるかしら?」


 無言の俺の隣を歩くコレティアが、剣闘士の試合でも見に行くような気軽さで言う。


「冗談はよせ。今は何月だと思っている? あと二日で十二月の朔日カレンダエだぞ。真冬のアルプス越えをするつもりか!」


 俺の剣幕にも動じず、コレティアは、あっさりと答える。


「ハンニバルは、街道も通っていない時代に、真冬のアルプス越えを成功させたわ」


「代償に、片目と、多くの兵を失った」


 俺は間髪を入れずに返した。

 ローマ暦五三五年(紀元前二一八年)に行われたハンニバルの指揮による大軍のアルペス越えは、ローマ人なら誰でも知っている有名な史実だ。


「噂によると、キウィリスも隻眼せきがんだそうね。しかも、ハンニバルと同じように、ローマを狙っている。隻眼になると、ローマが魅力的に映るのかしら?」


 コレティアが悪戯っぽく、碧い瞳を輝かせる。

 俺は苛立たしい気持ちを隠さず、口を開いた。


「下らない共通項を探して、何になる。俺はゲルマニア行きには反対だ。真冬にアルペスを越えて、低地ゲルマニアへ行くなんて、まともな人間のする行為じゃない。常識の持ち主なら、冬の間は、便利で快適な首都から出やしない」


「まさか、あなたから、常識を説かれる日が来るなんてね。また大嵐になりそう」


 自分の方が、俺より、よほど非常識なくせに、自分の行状を棚に上げて、コレティアが驚いた振りをする。


 と、急にコレティアの表情が、生真面目に一変した。

 真っ直ぐに俺を見つめて、問いかける。


「ルパス。あなたは、ゲルマニアの何を恐れているの?」


「恐れてなんかいない!」

 考えるより先に、言葉が口を突いて出る。


 コレティアは俺から眼差しを逸らさぬまま、ゆっくりと、かぶりを振った。


「いいえ。ウェレダと初めて会った時も、キウィリスの名前を聞いた時も、あなたの様子は、変だった。まるで、行き場のない深い怒りと哀しみを抱えて、立ちすくんでいるみたいに。ゲルマニアで、何があったの? ゲルマニアがあなたの心の傷に触れるから、行くのを躊躇ためらっているのでしょう?」


 俺はコレティアの真っ直ぐな眼差しに堪えられずに、視線を逸らした。

 助けを求めて、左右へ力なく視線を彷徨さまよわせる。


 裏路地には、俺達以外、誰もいなかった。どこかのインスラの一室で、火鉢で朝食の小麦粥プルスを作っているのだろう、小麦の煮える匂いが漂ってきた。


 足元に転がった植木鉢は、大きく欠けて土がこぼれ、何の植物だったのか皆目わからないしなびた根が覗いていた。痩せこけた犬が、残飯を探して路地の向こうを横切っていく。


 俺が生まれ育った集合住宅の前の路地も、同じような様子だった。

 地区は違えど、貧乏人の暮らしなんて、似たようなものだ。


 幼い頃に母親と死別し、十七の年に親父とも死に別れた俺は、気の合わない継母と義弟のいるインスラから、一刻も早く逃げたかった。

 ローマではない遠くへ行けば、明るい未来が待ち受けていると、少年だった俺は信じて疑わなかった。


 だから、ローマ軍団に志願した。

 兵士になれば、ローマから離れられるし、少なくとも食いっぱぐれる心配はない。


 不意に、体中の力が抜けて、俺は路地の壁にもたれかかった。

 そのまま、ずるずると座り込みそうになるのを、足で踏ん張ってかろうじて堪える。

 ここで座り込めば、もう二度と立ち上がれない気がした。


 コレティアは静かな眼差しで俺を見つめたまま、沈黙している。


 俺は、空を見上げた。


 よく晴れて澄んだローマの青い空だ。

 寒冷なゲルマニアの空は、もっと冷ややかで、凍りつくような青だった。


「十年前のキウィリスの反乱の時、俺も低地ゲルマニアにいたんだ」


 呟いて初めて、俺は唇の震えに気がついた。

 唇だけじゃない。全身が、わなないていた。


 だが、一度、滑り出した言葉は、それきり止まらなかった。

 開通したローマ水道のように、胸の奥から言葉が溢れ出す。


「俺は、ウェテラにいた。第十五無敵プリゲミナ軍団だ。俺はまだ、軍に入って二年目の若造だった。だから、皇帝に名乗りを挙げたウィテリウスに、首都へ連れていかれなかったんだ」


 十年前、皇帝に名乗りを上げたウィテリウスは、競争相手に対抗するために、ゲルマニアに駐屯していた軍団兵の精鋭を多数率いてローマへ進軍した。


 結果、ウェテラに駐屯していたのは、ほとんどが俺のような新兵か、年季明け間近の老兵、もしくは傷病兵だった。


「カストラ・ウェテラで起こった事態は、知っているだろう?」

 俺は、自嘲的に唇を歪めた。


 瞼を閉じれば、今でもありありと思い出す。


 突如、カストラ・ウェテラを取り囲んだ、キウィリスに率いられたゲルマン人達。

 キウィリスの降伏勧告。

 拒否した途端に始まった、苛烈な攻撃。

 雨のように降り注ぐ敵の投げ槍ピルム

 傷ついて倒れる仲間。

 絶望的な籠城戦。


「軍団兵で怪我をしていない者は、一人もいないような状況で、俺達はキウィリスの攻撃に堪えた。他の基地の状況がわからない中では、それしか方法がなかったんだ。基地の外へ討って出て会戦を挑むには、兵の数も、練度も、指揮官も、何もかもが足りなかった」


 コレティアは、黙って俺の話を聞いていた。一言も聞き逃すまいとするように、真摯しんしな眼差しで俺を見つめる。


「俺は運がよかったんだ。ウォクラ将軍が指揮する救援軍が北上してきて、一時、戦闘が止んだ時があった。その時、脇腹を負傷していた俺は、カストラ・ウェテラから、ノウァエシウムの軍団基地内の病院へ移送されたんだ」


 ローマ軍には、必ず軍団ごとに医師団が随行している。

 医師団には、人間を診る医師だけではなく、騎兵達の馬や荷運び用の牛を診る獣医、看護師を務める奴隷まで所属していた。

 合わせた人数は三十人にも及ぶ。加えて、軍団や補助部隊が駐屯する基地内には、百何十人もの入院患者を受け入れられる大規模な軍病院も設けられていた。

 軍病院だが、基地周辺に住む一般人の受け入れも珍しくない。


「でも、確かノウァエシウムの軍団基地は、最初にキウィリスの手に落ちたのじゃなかったかしら」


 コレティアが小首を傾げる。俺は苦味を噛み締めながら頷いた。


 ウェテラへの救援軍を指揮していた将軍・ウォクラが暗殺されたのは、ノウァエシウムで出陣前の演説をしていた時だった。

 どのローマ軍団でも軍装が同じ状況を利用して、補助部隊の中にキウィリスの手下が潜んでいたのだ。


 誰にも怪しまれずにウォクラへ近づいた暗殺者達は、ウォクラの胸元へ剣を突き刺した。

 キウィリスは、突然、指揮官を殺され、混乱する軍団兵を取り囲み、武力でもってガリア帝国への忠誠を誓わせたのだ。


「ああ。キウィリスがノウァエシウムを落とす前に、ノウァエシウムの軍病院から更に移送されて、最終的には、レヌス河にはしけを浮かべた急ごしらえの救護所にいた」


「十年前の反乱は、レヌス河沿いの軍団基地が幾つもキウィリスの手に落ちて、レヌス河防衛戦が壊滅したものね。たとえ、急ごしらえの救護所でも、入れただけ運が良かったわね」


 コレティアの言葉の響きに、俺は疑問を感じた。

 俺への当てつけには聞こえない。

 まるで、十年前には、コレティアも救護所にいたような口振りだ。


 俺は、いぶかしげな視線を向けていたらしい。コレティアは小さく苦笑いした。

 いつものコレティアらしくない、自信のない笑みだ。


「十年前、私もどこかの救護所にいたらしいの」



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