4 貧乏人の口を軽くするとっておきの手段
ポピディウスの家に泊めてもらった俺とコレティアは、翌朝、夜明け前に起きると、朝食もそこそこに、ローマ市内へ飛び出した。
行き先はもちろん、ウェレダの占いの店だ。
空は昨夜の嵐が嘘のように、青く澄んでいた。冬特有の冷ややかな青色だ。
エミリウス橋を西から東へ渡り、市内の中心部へ向かう。
橋の下を流れるティベリス川の水は、茶色く濁っていた。水量はまだ多く、流れは激しい。今朝なら、誰かの死体が流れていても、気づかないかもしれない。
三ヶ月前、ゴルテスの死体を見つけなければ、俺はとっくにコレティアとおさらばし、ローマに重大な危機が迫っているとも知らずに、漫然と日々を過ごしていただろう。
俺は、思わず、
エミリウス橋を右手に折れ、南東へ進めば、歴代皇帝の住まいであるパラティヌス丘と、ふもとの平地に立つ大競技場がすぐに見えてくる。
メルクリウス神殿の角を曲がって裏通りへ入る。
昨夜の嵐は、裏通りの空気まで洗い流していた。いつもは野菜屑の腐った匂いや、犬の糞尿、安葡萄酒の匂い等が漂っているが、今朝の空気は、実に気持ちよく澄んでいる。
どうせ、二、三日もすれば、元に戻るのだろうが。
ウェレダが占いの店を構える
自然と歩みが早くなる。
「扉に掛けていた虫入り
コレティアが眉を寄せる。前に来た時は、黒く塗った扉に虫入り琥珀の絵を描いた陶器の板を看板代わりに吊っていたはずだ。
ウェレダは既に、店を引き払っているのだろうか。
「今日は休みなのかもしれないぜ」
俺は緊張をまぎらわせる為に、軽口を叩く。
店の扉は、陶器の板を吊っていた箇所だけが、日焼けせずに黒く塗られた当初の色のままで残っていた。他の部分は、日光に晒されて、やや色が薄くなっている。
塗料の変色具合から推測するに、少なくとも、ウェレダは一年以上は、ここに店を構えていたらしい。
もし、ウェレダが最初から陰謀を画策して、隠れ
「誰か、いないか。占いを頼みたいんだが」
俺は扉を叩いて声を上げた。返事はない。
「おおい! 誰かいないのか」
拳に力を込めて、更に扉を叩く。
しかし、扉の向こう側は、静まり返ったままだ。
「やはり、既に引き払った後みたいね」
コレティアが残念そうな声で呟く。
「らしいな」
諦め切れず、俺は扉を叩き続けた。
握り締めた拳に、どんどん力がこもっていく。
「なんだい! 朝っぱらからうるさいね! そんなに力いっぱい叩くんじゃないよ! ボロ家が壊れちまったら、どうするんだい!」
突然、上からしゃがれた声が振ってきた。
この集合住宅には、バルコニーすらない。
見上げると、二階の窓から、薄汚れた格好の老婆が、俺達を睨みつけていた。
「一階に住んでいた女なら、もう二ヶ月以上も前に出ていったよ!」
腹立たしげに一方的に吐き捨てると、顔を引っ込める。
俺とコレティアは、路地に直接通じている階段から、急いで二階へ上がった。
◇ ◇ ◇
大抵の集合住宅は、住人が気兼ねなく出入りできるように、街路に面して階段がつけられている。隅に埃が溜まった階段を駆け上がった俺達は、先程の老婆の部屋の扉を叩く。
「すまないが、出ていった一階の住人について、教えてもらえないか?」
「あたしゃ、そんなに暇じゃないよ!」
俺の言葉に、扉の向こうから、老婆の邪険な声が返ってくる。
俺は、貧乏人から情報を聞き出す際の、とっておきの手段を口にした。
「謝礼は払う」
すると、ばたばたと駆ける音がして、扉が大きく開かれる。
「一階に住んでた女のことだよねえ。うんうん、よく覚えているよ。あんな美人、一度でも会ったら、絶対に忘れられないからねえ」
老婆は、先程とは打って変わった愛想よい表情で、俺とコレティアを交互に見た。
コレティアの金の掛かった服や装身具に気づくと、更に笑みを深くする。
予想以上の効果に苦笑しながら、俺は老婆に尋ねた。
「一階に住んでいた女占い師とは、近所付き合いがあったのか?」
「前払いでお願いしたいんだけど……」
重ね着したテュニカの前で拭き、老婆が右手を差し出す。
テュニカは茶色く薄汚れていて、元の色がわからないくらいだ。所々、ほつれている。
俺は、財布から銅貨を一枚さっと取り出すと、老婆の骨張った手に載せた。
「これっぽっちかい?」
老婆は不満そうに唇を尖らせる。
「残りは、話を聞いてからだ。何か役立つ話があれば、その分、弾むさ」
俺はすげなく答えた。
「何が知りたいんだい?」
老婆は
「下に住んでいた女が、どこに引っ越したのか、知っているか?」
俺はまず、最も知りたい情報を尋ねた。老婆は眉を寄せる。
「残念だけど、それは知らないねえ。ああ、でも、出ていったのは、九月の
ローマ競技会は、最高神ユピテルに捧げられる競技会で、九月三日から十五日間続く。
ポピディウスに話を盗み聞きされたかもしれないと考えたウェレダが、官憲に踏み込まれる前に、人目を避けて隠れ家を移したのだろう。
何しろ、ここは大競技場の近くだ。二十万人もの観客が帰路に就く夕方に、荷車を押しての引っ越しなど、できやしない。
「なんだか、急な引っ越しみたいだったねえ。前の日にばたばたと荷造りしていたと思ったら、次の日の暮れには、荷車を引いて出ていったからね。日が暮れてからじゃないと、荷車の通行が許されないって、法律で決まってるけど、引っ越しの時には物騒だねえ」
老婆は、したり顔で、カエサルが作った法律に文句をつけた。
「大家に聞けば、引っ越し先はわかるか?」
「どうだろうねえ」
俺の質問に、老婆は
「大家は家賃を取り立てることしか頭にない守銭奴だからね。階段の手すりがぐらついてたって、直しゃあしない。この間だって……」
老婆の大家に対する愚痴を延々と聞く気はない。俺は急いで話題を変えた。
「あんたは、下の店で占ってもらったりしなかったのか?」
「あたしが? あの女に?」
老婆は、突然ギリシア語で話しかけられたように、目をぱちくりと瞬いた。
「はっ、冗談じゃない。あたしゃ、酔狂に金を使うほど、もうろくしちゃいないよ。グレースムなんて、変わった名前を名乗ってたけど、はん、本当に占いをしてたんだか、どうか」
「どういう意味かしら?」
老婆の言葉に興味をそそられたコレティアが、碧い瞳を輝かせて問う。
老婆は、曰くありげに唇を歪めた。
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