3 自分の未来なのに、答えが見えない
「よかった。思ったより元気そうね」
ポピディウスにコップを渡したコレティアが、安心したように微笑む。
「ごめんよ、心配をかけたみたいで」
コップを両手で包み込むように持ったポピディウスが、うなだれる。
「気にするな」
俺は、コレティアから俺の分のコップを受け取りながら、優しい声でポピディウスを慰めた。
こうして、生きたポピディウスと話ができるだけで、いくら神に感謝しても足りない。幸運の女神テュケーは、どうやら、ポピディウスに微笑んでくれたらしい。
「ローマに帰ってきてくれたってことは、アンティオキアへ出した手紙は、ちゃんと届いたんだね?」
コップには口をつけずに、俺を見て、ポピディウスが尋ねる。
「ああ。お前の手紙を読んで、アンティオキアから大急ぎで帰ってきたんだ」
俺は頷いて、蜂蜜入りの温かい葡萄酒を一口飲んだ。
甘味と温かさが冷えた体に広がって、思わず、ほう、と吐息が洩れる。体を拭いて着替えたが、まだ寒さは、体の芯に凝っていたようだ。
温かなムルスムが、体の中の氷を、ゆっくりと溶かしていく。
「あなたは誰に怪我を負わされたの? ウェレダにかしら?」
甘さと温かさを味わうようにムルスムを飲んでいたコレティアが、顔を上げてポピディウスを見つめる。
真っ直ぐな視線は、偽りを許さない厳しさを秘めていた。
「違うよ。グレースム……ウェレダにじゃない。ウェレダには、彼女の本名を知って以来、会ってないんだ」
ポピディウスは振り子のように左右に首を振った。
「でも……。本当にグレースムはあの……ローマに反乱を起こしたウェレダなのかい? あんなに綺麗な女性が、反乱なんて恐ろしい陰謀を企んだなんて、信じられないよ」
今また、ウェレダはローマ帝国を揺るがす陰謀を企てているが、それをポピディウスに話して、不安を
だが、ポピディウスのウェレダへの
「アンティオキアで、十年前の反乱を鎮圧したケリアリス総督にウェレダの容貌を確認したが、同一人物の可能性は、かなり高い」
「ルパスは、十年前、ウェレダに会わなかったのかい?」
ポピディウスが無邪気な声で尋ねる。
「顔を知ってたら、三ヶ月前に会った時に叩っ斬ってたさ」
俺は反射的に言い返して、舌打ちした。
ポピディウスやコレティアの前で言う内容じゃない。
それ以上に、自分の中に潜む激情に俺自身が驚いた。
ウェレダに会ったら、どうしてやろうかなんて、まともに考えた覚えもなかった。そんな事態は、とうてい起こり得ないと思っていた。
だが、今、俺が追っている相手は、ウェレダだ。
もし、ウェレダを目の前にしたら、激情のままに、反射的に斬ろうとするのだろうか。
自分がどんな行動をとるのか、俺自身の未来なのに、答えが見えない。
俺の中に、自分でも制御できない感情が巣食っている気がして、自分自身が恐ろしい。
「正直なところ、どうして僕が襲われたのか、よくわからないんだ……」
俺の動揺には気づかず、ポピディウスは目を伏せて、怪我をした時の状況を話し始めた。
「ウェレダの名を知って、ルパスに手紙を書いて以来、僕は占いに行かなくなったんだ。どんな顔で彼女に会えばいいのか、わからなくて……。行かなくなって十日ほど経った頃、街で知らない男に話しかけられたんだ」
「そいつは、ウェレダと話をしていた男だったのか?」
俺はムルスムを飲み干して口を挟んだ。
コレティアが二杯目は自分で入れろと、瓶を渡してくれる。俺は遠慮なく、なみなみとコップに注いだ。
「いや、ウェレダと話していた男の顔は見えなかったけれど、たぶん、違うと思う」
ポピディウスは、思い返すように遠い眼差しをした後、かぶりを振った。
「ウェレダと話していた男には、強いゲルマン
両手で包みこんだコップの中を見つめながら、ポピディウスは続きを話す。
「男はなれなれしく僕に擦り寄ると、「ひょっとして、これはあんたの物じゃないかい?」って、
ポピディウスは、一旦、話を止めると、コップのムルスムを一口すすった。唇を湿らせると、ポピディウスは話を再開する。
「怪我をしたのは、男に話しかけられた三日後だった。といっても、未だにあれが事故だったのか、故意だったのか、わからないんだけど……。僕は通りを歩いてたんだ。青銅器を売っている露店が多い通りで、突然、背後で大声が上がったかと思うと、怒り狂ったロバが僕を目がけて突進してきたんだ。避ける間もなかったよ。僕は露店に放り出されて、上から雨あられと青銅器が落ちてきて……」
ポピディウスは怪我した時の恐怖を思い出したのか、ぶるりと体を震わせた。
「僕は痛みに気を失ったんだ。けど、助けてくれた人に後で聞いたところによると、死んでると思われたらしいよ」
俺の脳裏に、不吉な想像が浮かぶ。
辺りに散乱する青銅器、道端に倒れ伏したポピディウスの血の気のない顔……。
俺は頭を振って、自分の想像を打ち消した。大丈夫だ。ポピディウスは現に、こうして生きている。
「ロバに突き飛ばされた時に肋骨を、落ちてきた青銅の壺で左足を骨折しちゃったんだ。後は、あちこち打ち身や切り傷ができたんだけど、命拾いしてよかったよ」
ポピディウスの視線の先を追うと、確かに毛布の下の左足にあたる部分の膨らみが、いやに真っ直ぐだ。おそらく、まだ添え木で固定しているのだろう。
もし、青銅の壺が、足ではなく頭に落ちていたら、この世とおさらばしていたかもしれない。
ポピディウスの幸運に、俺は心の底から安堵の息を吐いた。
「ロバの飼い主は、わかったの?」
静かに話を聞いていたコレティアが口を挟んだ。ポピディウスは首を横に振る。
「それが、消防庁隊員が調べてくれたんだけど、僕が怪我する少し前に盗まれたロバだったんだよ」
ポピディウスの返事に、コレティアは眉をしかめた。
消防庁は警察隊と並んで、ローマの治安を守る存在だ。消火活動が主な任務だが、市井の事件の捜査もする。
盗まれたロバが人を突き飛ばして怪我をさせたなんて、地味な事件を、警察隊が調査したがるとは思えない。こんな場合には、消防庁へお鉢が回される。
「ロバをあなたにけしかけた人物は、見たの?」
コレティアの強い眼差しに気圧されたように、ポピディウスは下を向いた。
「いいや。振り向いた時にはもう、ロバが目の前に迫っていて、それどころじゃなかったよ」
俺とコレティアは、ちらりと目配せし合った。
十中八九、ポピディウスの事故は偶然じゃない。故意だ。
話を盗み聞きされたと思ったウェレダが、手下に命じて、ポピディウスを消そうとしたのだろう。
どこまで話を聞かれたかはわからないが、大事の前に危険は排除しておくつもりか。
「結局、犯人は捕まってないんだな?」
俺はポピディウスに確認した。
「うん。一応、消防庁の隊員が調べてくれたんだけど……」
ポピディウスが頷く。
「ウェレダの件は、隊員には話したのか?」
俺が尋ねると、ポピディウスは、とんでもないとばかりに、激しくかぶりを振った。
「いいや。だって、ウェレダが事故に関係しているかどうか、わからないじゃないか!」
「お前、まだ目が覚めていないのか」
俺は、思わず嘆息した。
恋は盲目というが、ポピディウスはお人好しすぎる。だからこそ、俺も放っておけないのだが。
「結局、盗み聞きをして以来、ウェレダには会っていないんだな?」
もし、ポピディウスが生きていると知れば、ウェレダは再び刺客を送ってくるかもしれない。
ポピディウスの性格を考えると、ウェレダに誘いの文を貰えば、待っているのが狼とも知らずに、のこのこ出ていきそうだ。
俺の質問に、ポピディウスは残念そうに頷いた。
「足の骨折がなかなか治らなくて、両親から外出を止められているんだ。僕は、杖があれば、そろそろ歩けると思うんだけど、両親の心配を押し切って出かけるのも、ね」
「お前が親の言いつけを聞く子で、助かったよ」
「あら、言外に何を言いたいの?」
反射的にコレティアを見た俺の視線を見咎めて、コレティアが剣呑な笑みを浮かべる。
「いいや? あんたこそ、親不孝者に心当たりでもあるのか?」
逆に俺が問い返すと、コレティアは、悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「独立心に溢れた子どもなら、少しばかり心当たりがあるわよ」
物は言いようだ。俺はムルスムを飲み干して、苦笑した。
「ウェレダがまだ
俺は話を戻した。コレティアがポピディウスをちらりと見てから頷く。
犯人は、ウェレダに違いないだろうが、俺は推測を黙っていた。怪我をしているポピディウスを、更に傷つける必要はあるまい。
「そうね。ウェレダが不安要素を排除できたと考えているなら、まだ、以前の店にいるかもしれないわね」
コレティアにも、主語を
コレティアの優しさにも気づかず、ポピディウスは正直に
「いいなあ。僕も一緒に行けたらいいんだけど」
「お前は、家で寝てろ」
「あなたは、家で寝てなさい」
俺とコレティアの声は、見事なくらいに調和した。
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