2 あなたが酔う前に


 分厚い壁と扉で外と遮られた家の中へ入ると、わずかに雨や風の音が遠のいた。


 といっても、アトリウムの天井は、採光と、雨水を取り入れる為に、真ん中が開いている。


 アトリウムの中央には、雨水を貯めておく貯水槽インプルウィウムが設けられていた。

 内側に向かって傾斜した四方の屋根から、雨水を流し落として、貯めておく仕組みだ。ティベリス川の右岸は、未だに水道の供給量が足りず、全戸を潤すほどではない。井戸や貯水槽に頼る家も多い。


 アトリウムの屋根からは、滝のように雨が貯水槽へ流れ落ちていた。勢いが激し過ぎて、跳ね返った飛沫しぶきで床が濡れている。


 波立つ貯水槽は、今にもあふれ出しそうだ。貯水槽が溢れないよう、一定量を超えた雨水は、床下に通した排水管から街路へ流す構造になっているが、流れ落ちる雨水が多過ぎて、追いついていないらしい。


「これは、また……」


 俺とコレティアを見やった奴隷が、呆れとも感心ともつかぬ声で呟く。俺達の足元には、あっという間に大きな水溜まりができていた。


 水の中を歩いてきたように、全身びしょ濡れだ。外套パエヌラを脱ぐと、フードに溜まっていた水が、桶を引っくり返したように、ばしゃっと流れ落ちた。

 床の水溜まりに当たって、飛沫を立てる。


「乾いた布と温めた葡萄酒を、至急で頼む」

 奴隷に注文すると、すかさず、コレティアが口を挟んだ。


「蜂蜜入りでね」

 寒さに唇が紫色になっているが、声は張りがあってしっかりしている。大した精神力だ。


 俺とコレティアは、隣り合わせの別室に通された。

 奴隷が持ってきた布で体や頭を拭く。気がく奴隷が、ポピディウスのテュニカを持ってきてくれていた。遠慮なく袖を通す。


 乾いたテュニカを着ると、ようやく人心地ついた。髪はまだ湿気ているが、そのうち乾くだろう。少なくとも、濡れたままの服で風邪を引く危険からは逃れられた。


「ポピディウスはどうしてる?」

 俺は、床に脱ぎ散らかした俺の服を拾う奴隷に尋ねた。


 日は暮れているとはいえ、就寝には、まだ早い。いつものポピディウスなら、「やあ、ルパス! こんな嵐の晩にやって来るなんて、君はいつも人騒がせだね」などと、悪態をつきながら、顔を出すはずだ。


 まさか、隣で着替え中のコレティアを覗きに行っているわけではあるまい。そんな甲斐性があったら、とっくに嫁さんをもらっている。


 それに、コレティア相手に、覗きなど下劣な真似をしては、命が幾つあっても足りない。


 俺の質問に、若い奴隷の男は顔を曇らせた。部屋にいるのは俺と奴隷の二人きりなのに、辺りをはばかるように声を潜める。


「ポピディウス様は、伏せっておられまして……」

「何だと!」


 俺は、再び嵐の最中に投げ出されたような気持ちを味わった。


「具合は? 誰かに襲われたのか?」


 奴隷に尋ねつつ、部屋を飛び出す。勝手知ったるポピディウスの家だ。奴の部屋の位置も、もちろん知っている。

 突然、部屋から飛び出した俺を、奴隷が慌てて追いかけてきた。腕には濡れた服を抱えたままだ。


「もう、峠は越しているんです。怪我した当初は、かなり危険だったんですが……」


 奴隷の青年は、声を落としたまま、早口に説明する。

 ポピディウスの部屋の扉を開け放とうと取っ手に手を掛けていた俺は、奴隷の言葉に、落ち着きを取り戻した。怪我人が休んでいる部屋には駆け込むものじゃない。


 俺は、優しく扉を叩いた。


「ルパスだ。ポピディウス、起きてるか?」

「ああ、大丈夫だよ。入って」


 扉の向こうでポピディウスが答える。予想よりもしっかりした声に、俺はそっと安堵の息をついた。


「邪魔するぞ」


 扉を開けて、部屋の中に入る。

 室内は真冬とは思えないほど暖かかった。見れば、火鉢が二つも置いてある。部屋の中央には寝台が置かれ、横になって毛布にくるまれたポピディウスが、俺を見て苦笑していた。


「やあ、ルパス。こんな夜に、やたら騒がしいと思ったら、やっぱり君だったんだね」


 上半身を起こそうとしたポピディウスは、「いたた」と、痛みに顔をしかめる。


 俺は慌てて寝台に駆け寄ると、ポピディウスを支えた。

 重ね着したテュニカの首元から、きっちりと巻かれた包帯が見える。ポピディウスからは、バルサムの軟膏なんこうの匂いがした。

 俺は、ポピディウスが辛くないように、起こした背中の後ろに幾つもクッションをあてがう。


「ありがとう、ルパス。大丈夫だよ。もう、ほとんど治ってるんだけど、今日みたいに寒くて雨が降る日には、傷痕が痛むんだ」


 まだ少し痛むのか、ポピディウスの笑顔は弱々しい。

 俺は寝台の横の椅子に腰掛けると、ポピディウスを見つめた。


「俺に手紙を出した後、何があったんだ?」


「それが……」

 ポピディウスが口を開いたところで、扉が叩かれた。


「ポピディウス、入っていいかしら? ルパスもいるのでしょう?」


 声の主はコレティアだ。俺は返事の代わりに、扉を開けてやった。


 コレティアも乾いた服に着替えていた。見覚えのない地味な色のストラだが、ポピディウスの母親の服を借りたのだろうか。

 湿り気を帯びた長い髪を、束ねず背中へ流している。おそらく、コレティアも着替えの最中に奴隷から、ポピディウスの容態を聞いたのだろう。


 コレティアは二人の奴隷を従えていた。一人が椅子を、一人が瓶とコップを載せた盆を持っている。奴隷達は、寝台の脇に椅子と盆を置くと、出ていった。


「温かいムルスムだけど、飲む?」


 揃いの模様が刻まれた青銅製の瓶とコップを片手ずつに持ったコレティアが、ポピディウスに尋ねる。


「うん。いただくよ。コレティアに手ずから注いでもらえるなんて、嬉しくて、酔っ払っちゃいそうだな」


 ポピディウスがコレティアに、はにかむ。

 コレティアの碧い瞳が、きらりときらめいた。


「酔っ払う前に、何があったのか、ちゃんと話してちょうだいね」


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