第6章 過去からのいざない 紀元79年 12月
1 暴風雨の中の帰還
アンティオキアからの長旅を、街道を駆けに駆けてきた俺とコレティアが、ローマに着いた時には、厚い雲から降りしきる雨が、天で
太陽は既に落ち、闇と雨の幕で、ローマの街並みはほとんど見えない。
日が暮れてからは、荷車や荷馬車の市内の通行が許可されるが、流石に今夜の天候では、荷車の姿はなかった。
今夜は、追い剥ぎも強盗も娼婦も、みんな自分のねぐらで、安い葡萄酒でも飲んで暖まっているだろう。
俺なら、絶対にそうする。
真冬の暴風雨の中、馬に乗って出かけるなんて、まともな人間のする振る舞いじゃない。
無性に、温かい葡萄酒が欲しかった。
どんな安酒でもかまわない。温かくて、一匙の蜂蜜が入っていれば、文句なしだ。
今の俺には、神々が飲むアンブロシアよりも、甘露だろう。
俺もコレティアも、全身、濡れ鼠だ。
水を吸って重くなった
十二月の雨は、刃のような冷たさだ。体が冷えすぎて、感覚がはっきりしない。手綱を握る手は、指を丸めた形のまま、固まってしまったみたいだ。
進むにつれて、雨と風の音に混じって、ごうごうと響く低い音が聞こえてきた。
エミリウス橋の下で、危険なほど水位の上がったティベリス川が渦を巻いて流れていた。
太い橋の支柱にぶち当たった流れが飛沫となって飛び散り、雨と混じる。
渡ろうとエミリウス橋に馬を進めた瞬間、突風が走った。
驚いた馬が
とっさに、かじかんだ手で手綱を握り締めると、膝に力を込めて、馬の胴を強く挟みこむ。
不気味な音を立てて流れる奔流は、もし落ちれば、何も考える間もなく、冥府へと連れていってくれるだろうが、俺はまだプルートゥにご機嫌伺いする気はない。
「よしよし、いい子だ。落ち着け」
馬の首を軽く叩いてなだめる。
馬は不満そうにいななくと、暴風雨の中の行軍を開始した。
「いい子だ。お前は最高だよ」
俺は馬の耳へ囁く。乗り手を冥府へ放り出すようなじゃじゃ馬でなくて何よりだ。
振り返って後に続くコレティアを見たが、コレティアは危なげなく馬を御して橋を渡っていた。
エミリウス橋を渡れば、ポピディウスの家まで、あと一息だ。
立ち並ぶ家々は、黒く大きく、俺達を押し潰そうとするかのようだ。道を間違えないように、闇の中に目を
間もなく、俺は、ポピディウスの家の見慣れた玄関扉を見つけた。
片手を挙げてコレティアに合図を送り、馬から下りる。路面は大量の雨に洗われて、小川のようになっていた。
俺とコレティアの二頭の馬の手綱を玄関先の柱に縛りつけた。
ポピディウスの家には
馬の背から荷物を下ろす。
縄が水を吸っているせいで、なかなか解けない。おそらく、雨は荷物の中まで染み込んでいるだろう。
ケリアリスから託された巻物は、悪天候の場合に備え、濡れないように、油紙で幾重にも包んで、皮袋に入れてある。
玄関扉の呼び鈴を鳴らし、同時に拳でも叩く。
人が出てくる気配はない。
雨音にまぎれて、奴隷達にまで聞こえていないのだろうか。もう一度、呼び鈴を鳴らし、拳で扉を叩く。
今度は応答があった。覗き窓から、奴隷が顔を出す。俺も顔を知っている奴隷だ。
「ルパスだ。こんな天気の夜にすまない。ポピディウスはいるか?」
俺は祈るようにポピディウスの名を出した。奴隷は闇の中の俺の顔を見て、胡散臭そうに眉をひそめた。
「ポピディウス様はいますが……」
「そうか。いるんだな」
雨の冷たさも、体の疲労も吹き飛ばして、安堵が心を満たす。
ポピディウスの無事を確かめる為に、アンティオキアからローマまで、駆けに駆けてきたようなものだ。
「ルパスだ。中へ入れてくれないか?」
もう一度、名乗って、奴隷へ告げると、奴隷は盗人にでも頼まれたかのように顔をしかめた。
夜の暗さと、雨に濡れそぼった姿のせいで、俺とわからないらしい。
「何をぐずぐずしているの! 早くなさい!」
俺を押しのけたコレティアが、覗き窓の向こうの奴隷を鋭く叱咤する。
「は、はい! ただいま!」
奴隷が見えない鞭で打たれたように飛び上がる。
ずぶ濡れのひどい姿でも、コレティアの美貌は見間違いようがないというわけか。
奴隷が閂を外して扉を開け、俺とコレティアを中へ招き入れる。
開けた扉の隙間から雨が降り込んで、奴隷は慌てて扉を閉めた。
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