10 交換所の証明書


 オロンテス川をさかのぼってきた涼風が頬を撫で、髪をそよがせていく。


 左手に連なる山々の稜線は変化に富んでいて、目を楽しませる。だが、あいにくと俺には、景色を愛でている暇はない。


 替え馬を使えるのは有難い。

 俺は遠慮なく馬を飛ばした。街道を行く荷車をどんどん追い抜かしていく。


 数ミリアリウムも行かない内に、俺は異変に気づいた。

 荷車の主達が、追い越していく俺の背を見上げた後、首を回して俺の更に後ろを眺めるのだ。


 耳を澄ませば、荷車の車輪が石畳に当たる固い音や、牛やロバの鳴き声に混じって、俺の馬以外の蹄の音が聞こえる。


 俺は馬の速度を落として、来た道を振り返った。

 ローマ街道は、軍団が行軍しやすいように、可能な限り一直線に作られている。


 気圧けおされ、恐れおののくように両端に寄る荷車の間を、疾走する一頭の馬が視界に入った。

 馬を巧みに操る騎手の姿も。


 金を熔かしたように輝く長い髪に陽光を反射させ、白い絹のストラの裾をなびかせる美貌の少女の名を、俺は嫌というほど知っている。


 俺は馬首を後ろへ巡らせて、コレティアを待った。


 一瞬、俺が見た幻であればいいと、心から願ったが、儚い望みだった。

 こんなに存在感のある幻など、ありえない。


 軽く息を上気させたコレティアは、俺の目の前で馬の手綱を引いて止めると、碧い瞳に悪戯っぽい光をたたえて微笑んだ。


「急ぐ旅でしょう。立ち止まって大丈夫?」


「なぜ、ここにいる?」


 俺はコレティアの馬の背に積んである荷物に視線を走らせた。貴族の女性にしては身軽だが、明らかに旅支度だ。

 どう見たって、俺との別れを惜しんで見送りに来た姿じゃない。


「ケリアリスは知っているのか?」


 俺は首を伸ばして、コレティアが駆けてきた街道を見やった。


 真っ直ぐに続く街道に見えるのは、のんびりと進む荷車や、徒歩の行商人や旅人ばかりだ。

 コレティアの追っ手は、欠片も見えない。


 今頃、アンティオキアの官邸は消えたコレティアを探して、上を下への大騒ぎだろう。ケリアリスの渋面が、俺の脳裏に浮かぶ。


「お父様には、置き手紙を書いてきたわ」


 置き手紙があれば何の問題もないとばかりに、コレティアがあっさりと言ってのける。


「さっき、ケリアリスに、ローマへ帰らずにアンティオキアで大人しくしていると約束したばかりだろう? 親との約束を破るのは感心しないぞ」


 俺は眉を寄せて、できるだけ厳しい顔を作った。

 コレティアは下手な嘘をつかないと思っていたのは、俺の見込み違いだったのか。


 俺の渋面に、コレティアは呆れたように肩をすくめた。


「あら、私は、そんな内容は一言も約束していないわ」


 コレティアがおどけるように碧い目を瞬かせる。


「私がお父様に約束したことは、危険なことはしない、という一つだけよ」


「ローマにはウェレダが潜んで、陰謀を画策している。あんたがウェレダを放っておくとは思えないが」


 俺が意識的に険しい目を作ってコレティアを睨むと、コレティアは深く頷いた。


「もちろんよ。ウェレダを捕まえるために、ローマへ戻るのだもの」


「それの、どこが危険じゃないというんだ」


 俺は思わず声を荒げた。

 しかし、コレティアは動じない。俺を見上げると、華やかに微笑んだ。


「でも、あなたが守ってくれるでしょう?」


「そんな依頼は、受けていない」


 俺はすげなく答える。

 コレティアを拐かした罪でケリアリスから追っ手をけけられるなんて、真っ平だ。


「アンティオキアへ戻れ。俺は急ぐんだ。あんたの相手をしている暇なんか、一切ない」


 俺は冷たく言い捨てた。

 するとコレティアは、さも楽しげな笑みを浮かべる。


「残念だけど、あなたの希望通りには、いかないわ。今のままじゃ、あなたは交換所を利用できないもの」


 俺は無言で目をすがめると、腰帯につけた財布に手を伸ばした。

 ここに確かに、証明書を入れたはずだ。財布の中から、薄手のパピルスを取り出す。


 そこには、筆跡も鮮やかなラテン語で、短い文章が書かれていた。


「陰謀が解決するまで、私、コレティアの護衛をなさい」


 俺の視線の動きに合わせて、コレティアが居気高に告げる。

 ご丁寧に、ケリアリスの証明書を真似て、末尾に印章まで捺してあった。


「報酬は、そうね。一万セステルティウスと、交換所の使用許可証でいかが?」


 コレティアがにこやかに微笑む。

 一万セステルティウスなど、見た覚えもない大金だが、問題は代金ではない。


「本物の証明書は、どこだ?」


 腹立たしさに、パピルスを握り潰す。

 コレティアは、首から掛けて服の胸元に入れていた小さな皮袋を、悠然と引っ張り出した。


 皮袋の中から取り出し、広げて見せたのは、紛れもなくケリアリス直筆の本物の証明書だ。


「それは、俺の証明書だ。渡せ」


 官邸の玄関でコレティアに見送られた時には、既にコレティアにり替えられていたに違いない。


 確認しなかった自分の甘さと間抜けさ加減が腹立たしい。

 コレティアを睨みつける眼差しにも、怒りが混じる。


 だが、コレティアは俺の怒りを、鼻先で笑い飛ばした。


「あら。この証明書には、これを持つ者の要望を可能な限り叶えるように、と書いてあるだけで、あなたの名前なんて、どこにも書いていないわ」


 つまり、このままコレティアが証明書を持って俺から逃げれば、交換所を利用できるのはコレティア一人、俺は替え馬もなしに急ぐ旅をするしかないというわけか。


 俺は深呼吸して、怒りを冷ました。


「ケリアリスや俺をたばかってまで、ローマへ帰りたいのか?」


 意図したつもりはないが、声に嫌味な響きが混じる。


「先に私に隠し事をしたのは、お父様よ」

 コレティアは、不満そうに唇を尖らせた。


「陰謀にウェレダが関わっているとわかった瞬間、手のひらを返すように、私に事件に関わるなとおっしゃるんだもの。普段のお父様なら、決してあんな風におっしゃったりしないわ」


 コレティアの言葉には、俺も思い当たる節がある。

 ウェレダの名前を聞いた瞬間、表情をなくしたケリアリスは、確かに、いつもの豪胆さと快活さを失っていた。


「アレクサンドリアでシカリオイに襲われた話だって、平然と聞いていたお父様が、ウェレダの名前が出ただけで、私を調査から隔離しようとするなんて、絶対に変よ。何か隠しているに違いないわ!」


 コレティアは眉を怒らせて言い募る。


「けれど、お父様を問い質しても、決して答えてくれないでしょう。お父様は、一度こうと決めたら、曲げない方だから。でも、お父様が隠そうとしている事柄は、陰謀に関係ある何事かに違いないのよ。でなければ、私に調査を禁じたりはしないわ。私は、陰謀の犯人も、お父様の隠し事も、見つけてみせる」


 コレティアは手綱を握り締めて力説する。

 俺は舌打ちした。


 ケリアリスといい、コレティアといい、全く、この親子は、どちらも頑固だ。血のなせる業だろうか。

 巻き込まれる俺の身にもなってほしい。


 息巻くコレティアの様子から推測すると、万が一、今ここで説得に成功してアンティオキアへ帰しても、すぐ、また家出するに決まっている。


 自由気儘じゆうきままに行動するコレティアなんて、恐ろしくて、想像もしたくない。


 犯罪者がいれば、蹴り飛ばして官憲に突き出し、悪徳商人がいれば、蹴り倒して悪業の報いを受けさせる。

 好奇心が刺激されれば、危険な事件にも首を突っ込み、コレティア自身が納得するまでは、決して手を引いたりしない。


 コレティアの身を案じる者にとっては、心配で気の安まる暇がないだろう。


 溜息をついて女神ユノーに祈りを捧げるフラウィアと、大仰に眉をしかめて渋面を作るケリアリスの顔が、俺の脳裏に浮かぶ。

 きっと、今の俺も、似たような顔をしているのだろう。


「一つ、確認しておく」

 俺は厳しい声音を保ちながら、口を開いた。


「もし、あんたの依頼を受けたとして、後でケリアリスに娘をかどわかしたなんて、訴えられないだろうな?」


「そんな真似、私が断固させないわ」

 コレティアが昂然こうぜんと言い切る。


「私が聞きたいのは、あなたの受諾の返事だけよ」


 俺を見つめて、コレティアは自信に満ちた笑顔を浮かべる。

 俺が断るとは、微塵みじんも考えてないらしい。


 コレティアの思い通りになるのはしゃくだが、俺の気持ちはすでに決まっている。


「言っておくが、一万セステルティウスの代金は、一アスだってまけないからな」


 すこぶる真面目な表情を作って俺が告げると、コレティアは悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「私が信用できないと言うの? それなら、証文でも書きましょうか?」


「要らないさ。またり替えられちゃ、たまらないからな」


 唇を歪めて嫌味を言ってやるとコレティアは、悪びれた様子もなく、艶然えんぜんと微笑んだ。


「よかったわね。一つだけ、用心深くなれたじゃないの」


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