9 淡い夢を、俺が打ち砕く必要はない
寝泊まりさせてもらった官邸の一室へ下がると、俺は急いで荷造りした。
といっても、昨日アンティオキアへ着いたばかりだ。まだ荷解きすら、全く終わっていない。
元々、アンティオキアへ長居する予定はなかった。コレティアはケリアリスの元へ残るし、不都合は何もない。
しばらくすると、奴隷が俺を呼びに来た。官邸の前へ馬を曳いて来ているという。
荷物を持って
「お父様は公務でお忙しいから、見送りは、代わりに私が」
「総督自らの見送りなんて、俺にはもったいないさ」
コレティアへ苦笑する。奴隷は下がって、アトリウムには俺とコレティアの二人きりだ。
思えば、出会ってこのかた、いつも一緒に行動していたので、コレティアに見送られる場面は、今回が初めてだ。
「お父様が、報告書をよろしく頼む、とおっしゃっていたわ」
コレティアが、携帯用の皮袋に入った巻物と、折りたたんだ交換所の使用許可の証明書を俺に手渡す。
俺は力強く頷いた。
「ああ、必ずティトゥス陛下へお渡しする」
帝国が危機に瀕する陰謀が画策されている事態を、ローマでは、まだ誰一人として知らない。
ケリアリスの報告書を運ぶ俺の責任は、極めて重大だ。
俺は、皮袋を背負い、証明書はすぐに提示できるように、腰帯から下げた皮製の財布の中へ入れる。
コレティアは黙って、俺の動作を見守っていた。
支度が済んで顔を上げると、正面に立つコレティアと視線がぶつかった。
改めて真正面から見ると、コレティアはやはり美人だ。
碧い目はあふれんばかりの生気に輝き、今にも涼やかな美声を響かせそうな淡い紅色の唇は、弓形に笑みの形を刻んでいる。
俺は無言でコレティアと見つめ合った。
アトリウム中央に設けられた噴水からあふれる水音だけが、広いアトリウムに響く。
かすかに、コレティアの薔薇の香水の香りがした。
いざ別れるとなると、なかなか気の利いた言葉が出てこない。
別れれば、コレティアと会う機会は二度と訪れないだろう。
俺は貧乏な
何か言わなくては、と思う。
その一方で、俺とコレティアの間には、余計な言葉は不用な気がした。
「気を、つけてね」
コレティアが静かな声音で告げる。
頷いた俺は、自然と口元をほころばせた。
「あんたとの旅は、大変だったが、刺激的で、なかなか楽しかった」
「また、一緒に旅をできたらいいわね」
コレティアが、華やかな笑みを浮かべる。
そんな未来は起こり得ないと、コレティアは、誰より知っているはずだ。
思わず、俺は頷いていた。
「ああ、そうだな」
コレティアの淡い夢を、俺が打ち砕く必要はない。
「じゃあな」
また明日も会えるかのように軽く告げて、俺はコレティアに背を向けた。
官邸の扉をくぐると、風が頬を撫でた。
アンティオキアの午後を潤す涼風だ。
風が、心の中に一抹の寂しさを運んでくる。
振り切るように、俺は地面を踏みしめた。
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