8 お父様は正しい選択をなさるでしょう?


 俺と共に官邸へ戻ったコレティアは、真っ直ぐにケリアリスの執務室へ向かった。


「お父様! お願いがあります」


「どうした、コレティア」

 娘の只ならぬ様子に、パピルスに書き物をしていたケリアリスは顔を上げる。


「ローマのポピディウス……ルパスの友人から手紙が届いたんです」


 コレティアはかい摘んで、ローマでグレースムに初めて会った時の出来事を話した。


 ポピディウスの手紙を読むまで、グレースムを怪しいと思っていても、グレースムと陰謀を結びつけるものは、何もなかったのだ。


「手紙によると、グレースムの本当の名は、ウェレダというそうです」


 ケリアリスの顔が瞬時に強張る。


「なんだと⁉ それは、本当なのか⁉」


「ええ、おそらく。お父様は、十年前のキウィリスの反乱を鎮圧なさいましたよね。その時、ウェレダには会ったのですか?」


 噛みつくように尋ねたケリアリスに、コレティアが問う。ケリアリスは小さく頷いた。


「ああ。一度だけ、ちらりと姿を見たことがある。淡い金髪を長く伸ばしていて、湖みたいな碧い目をした、背の高い美しい女だった……。確か、十年前はまだ二十歳過ぎくらいの年齢だったはずだ」


「ウェレダの容姿は、私達がローマで会ったグレースムと一致します。お父様、どうやらウェレダは、昨夜お話ししたローマ帝国を揺るがす陰謀に関係しているようなんです」


 コレティアの言葉に、ケリアリスの顔から表情が消える。


 短い付き合いだが、いつも豪胆で活力にあふれたケリアリスの人柄は知っている。

 それほどのケリアリスの顔から、一瞬で表情が消えるとは。

 まるで、演劇で使う仮面みたいだ。薄気味悪ささえ感じる。


「ウェレダを放っておくわけにはいきません。私はルパスと一緒にローマへ帰り――」

「駄目だ!」


 コレティアの言葉を遮って、ケリアリスの怒声が響く。俺は軽く目を見開いた。


 さすが、歴戦の司令官だ。打ち下ろす刃のような声音と、射抜くような眼光は、心の弱い者でなくとも、くじけてしまいそうだ。


 しかし、コレティアは父の剣幕に物怖じするような性格ではない。


「何故ですか? 昨夜は、陰謀の調査を認めて下さったではありませんか」


 コレティアは、鋭い視線でケリアリスを見つめ、反論する。


「昨夜とは、事情が変わった。ウェレダが陰謀に加担しているとなると、危険にさらされているのは、帝国の東方だけではない。ゲルマニアも含めた、ローマ帝国全体で反乱の危険性があるのだ。お前が軽々しく調査する事態ではない!」


 ケリアリスの声は鞭打むちうつように厳しい。


「ティトゥス陛下には、わしから報告書を送ってお知らせする。お前は、犯人が捕まるまで、アンティオキアで大人しくしているんだ」


「そんな! 私だって、捜査に参加します。足手纏あしでまといになったりしません!」


 一方的なケリアリスの物言いに、コレティアが碧い瞳を怒らせて反発する。


 コレティアなら、足手纏いになるどころか、率先して捜査の指揮を執るだろう。

 確かに、ウェレダが陰謀に加担しているとわかった時点で、陰謀の規模も危険性も、今までより、遥かに高まった。


 ゲルマニアで反乱が勃発し、万が一、レヌス河の防衛線が破綻すれば、ローマに敵対するゲルマン人がガリアを略奪し、ローマの平和は灰塵に帰す。


 炎のような眼差しで父を睨みつけるコレティアに、ケリアリスは深く嘆息した。 机に身を乗り出すと、穏やかな声音で娘に尋ねる。


「コレティア。わしの職名は、なんだ?」


「シリア総督です」


 ケリアリスが続けて何を言うのか警戒しながら、コレティアが答える。ケリアリスは、ゆっくりと頷いた。


「そうだ。わしには、シリア駐屯の三個軍団の指揮権が与えられている。もし、ユダヤ人やパルティアが反ローマに起てば、わしが敵を鎮圧せねばならん。だが、もし、お前が敵の手に落ち、お前の命を盾に、軍を退くことを要求されたら、わしはどう対処すればいい? わしの身勝手な言い分だとは、重々わかっている。だか、それでも、お前には、わしの目が届く安全な場所にいてほしいのだよ」


 話し終えたケリアリスは、黙ってコレティアを見つめる。

 ケリアリスの表情は慈愛に満ちて穏やかだ。


 コレティアも、口を引き結んで父親を見つめた。

 ややあって、静かな声でコレティアが尋ねる。


「でも、お父様は、もし本当に決断を迫られた時は、正しい選択をなさるでしょう?」


「ああ。だが、望んで決断するわけではないことは、お前が誰より知っているだろう?」


 ケリアリスの声は、吐息に紛れそうなくらい低い。


「その後、わしとフラウィアの人生から、喜びが消え去ることも」


 母の名前に、コレティアは下唇を噛んだ。

 夫が不義でもうけた血の繋がらない娘であるにもかからず、フラウィアがコレティアを心から慈しんでいるのは、俺もよく知っている。


 コレティアは観念したように吐息した。


「わかりましたわ。お母様の名前を出されてはかないません。ただ、危険なことをしない代わりに、一つ、お願いを聞いていただけませんか?」


「おお、なんだ。なんでも言ってみなさい」


 コレティアの更なる反発を予想していたらしいケリアリスは、しおらしい娘の言葉に、あからさまに顔に喜色を浮かべて頷く。

 上目遣いに父を見て、コレティアはおねだりした。


「ルパスが交換所ムタティオネスを利用できるように、証明書を発行していただけませんか?」


 交換所とは、街道に、約八ミリアリウムごとに設置されている馬の交換所である。

 国営郵便の運び人は、任務を証明する証明書を持っている。証明書があれば、交換所や宿駅マンシオネスで、馬の交換等、様々な利益が受けられた。


 コレティアはしおらしく言葉を続ける。


「ウェレダの名前を知ったポピディウスには、危険が迫っているに違いありません。ポピディウスはルパスの友人であるだけではなく、彼にウェレダの正体を調べるように指示したのは、私なんです。このまま、ポピディウスを放っておいては、心配と罪悪感で、夜も眠れませんわ」


「そうか。その程度なら何でもない。すぐに証明書を書こう。ルパス、君も急ぐだろう」


「恐れ入ります」


 あっさり頷いたケリアリスに、俺は深々と頭を下げた。

 替え馬を使えるのと使えないのとでは、旅に掛かる日数にかなりの差が出る。


 ケリアリスは新しいパピルスを取り出すと、早速、証明書を書き始めた。

 書き終えると、右手にはめていた指輪を外し、証明書の最後に、指輪の貴石に刻まれた印章を捺す。


「できれば、君にはアンティオキアでコレティアを守ってもらいたいが……。友人の危機ならば、仕方がないな」


 ケリアリスが俺を見て苦笑いする。


「すまないが、ルパス。ティトゥス陛下へ渡す報告書も、君に託して構わないだろうか? 君に任せるのが、一番早くローマへ着きそうだ。なに、君が旅支度を整えている間に、書き上げよう」


「わかりました。引き受けします」


 俺は快く引き受けた。ただで証明書を貰うのは心苦しい。


 ましてや、コレティアがケリアリスの願いを聞き入れた報酬だなんて、コレティアに恩を着せられる事態は、真っ平だ。


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