7 女神の一人くらい微笑んだって、誰も文句を言うまい


 コレティアが小走りで俺についてくる。


「私も一緒にローマへ戻るわ」

 コレティアが固い意志を覗かせて、きっぱりと告げる。


「勝手にしろ」


 俺にとっては、コレティアの行動なんか、どうでもいい。


 もう仕事は終わったんだ。俺は一人で、全速力でローマへ戻る。


 吐き捨てた俺の返事に、コレティアは不服そうに片眉を上げた。

 が、口は不満ではなく、別の言葉を紡ぐ。


「ローマへ戻る前に、お父様へ報告しましょう。ウェレダについて、何か知っているかもしれないわ」


 ウェレダ。


 札付きの疫病神の名前を聞くだけで、脳味噌が沸騰しそうだ。

 熱に浮かされたように、視界が歪む。


「報告するなら、好きにすればいい。俺には、そんな暇はない」


 ケリアリスは、十年前のキウィリスの反乱を鎮圧した二人の司令官の片方だ。ウェレダについて知っている事柄があるかもしれない。


 十年前、ガルバ、オトー、ウィテリウス、ウェスパシアヌスと、一年間に四人もの皇帝が乱立した内乱の年、ローマ帝国が混乱した隙をついて、ゲルマニアで反乱が起こった。


 首謀者は、ゲルマン人の一部族、バタウィ族の長、ユリウス・キウィリス。


 レヌス河の河口付近を居住地にしているバタウィ族は、ローマと同盟関係を結び、補助兵アウクシリアとしてローマ軍へ兵力を提供する代わりに、独立を認められていた。

 バタウィ族の騎兵といえば、鎧を着、馬の手綱を持って川を泳いで渡れる猛者だと、とみに有名だ。


 反乱を起こした十年前、キウィリスは八千人の補助兵を率いる指揮官だった。

 属州民で構成される補助兵の指揮官は、慣例により、駐屯する土地の有力者が任ずる場合が多い。補助兵自体も土地の者が採用される。


 反乱の火の手を上げたキウィリスはレヌス河口付近にある砦を幾つも襲撃した。


 レヌス河口は帝国の最北部である。首都から鎮圧軍が派遣されても、行軍だけで二ヶ月は優にかかる距離だった。


 キウィリスは当初、反ローマである本心を隠し、ウェスパシアヌス派の旗印を掲げて、ウィテリウス派の兵士が守るレヌス河沿岸の基地を攻め、ローマ兵を退却させた。


 さらにはキウィリスはレヌス河を守る艦隊も手中にした。

 ローマ軍団の基地は、いずれもレヌス河に沿って作られている。レヌス河艦隊を手に入れたキウィリスは、陸と河の両方から、基地を攻撃できる状況になった。


 こうして、レヌス河両岸のゲルマン諸部族を率いるほど戦力を増強したキウィリスは、遂に軍団基地への正面攻撃を開始した。


 標的は「カストラ・ウェテラ」と呼ばれていたクサンテンウェテラの軍団宿営地。レヌス河防衛線では最北に位置し、第五ひばりアラウダエ軍団と、第十五無敵プリミゲナ軍団の駐屯地だった。

 

 ただし、キウィリスが反乱を起こしたローマ暦八二一年(紀元六九年)の秋の時点では、ウィテリウスが両軍団の精鋭を引き連れてローマへ行っていたため、残存兵力は五千人にも満たなかった。


 カストラ・ウェテラを包囲したキウィリスは、基地内へ使いを送り、旗印として掲げているウェスパシアヌスへ忠誠を誓うよう求めた。


 だが、レヌス河軍団は、元々ウィテリウスを皇帝に推挙している。当然ながら、基地内の軍団兵は拒否。


 キウィリスの指揮による包囲攻撃戦が始まった。


 低地ゲルマニア属州のウェテラでの戦闘の知らせは、数日後には、南の高地ゲルマニア属州の軍団基地モゴンティアークムへ届いた。


 ウィテリウスは高地ゲルマニア属州の軍団からも、精鋭をイタリアへ連れて行っていた。

 兵力は減っていたが、反乱軍を放置しておくわけにはいかない。ウェテラへの救援軍が組織された。


 ところが、救援軍の行軍途中で、ウィテリウスがウェスパシアヌスに敗れた、という知らせが届く。

 ウェスパシアヌスの勝利が確定すれば、キウィリスにウェスパシアヌス派を旗印にする益はない。


 仮面を脱ぎ捨てたキウィリスは、レヌス東岸のゲルマン人をけしかけて、モゴンティアークムの軍団基地を襲わせた。最重要基地であるモゴンティアークムが落ちれば、レヌス河防衛線は崩壊する。救援軍は南方面に引き返した。


 一方、ガリアのゲルマン人をも味方に引き入れたキウィリスは、ケルンコローニア・アグリッピネンシウムで、「ガリア帝国インペリウム・ガリクムの建設を宣言し、ローマ帝国の支配から脱すると広く知らしめた。


 その後すぐ、ローマから届いた知らせは、反乱者達を狂喜させた。


 十二月十九日に首都ローマのカピトリヌスの丘のユピテル神殿が炎上したのである。


 最高神ユピテルの神殿は、凱旋式の最後に、凱旋将軍がたった一人、徒歩でカピトリヌス丘を上がり、神殿でユピテルに勝利の感謝を捧げるほど、由緒ある神殿である。


 反乱者達は神々さえもローマ見放したと意気を上げた。


 対して、モゴンティアークムをなんとか死守したローマ軍は、再び、籠城久しいカストラ・ウェテラを目指した。


 しかし、キウィリスは司令官を暗殺。混乱する軍団兵を取り囲んだのは、キウィリス率いる反乱軍だった。

 レヌス河防衛線は、キウィリスによって、崩壊させられたのだ。


 ローマ軍の補助部隊の指揮官だった頃は、ローマ風に髪を短く切り、ひげも剃っていたキウィリスは、反乱を進める中で、頭髪を長く伸ばし、髭も顔半分を覆うゲルマン風に姿を変えていた。


 ゲルマン人は、女の占い師を重用する。女占い師のお告げ次第で、出陣するか否かも決める。

 見た目をゲルマン風に戻したキウィリスは、同時に、中身もゲルマン風に改め、女占い師を採用した。


 キウィリスが重用した占い師が、ウェレダである。


 ウェレダは、レヌス河東方を居住地にしているブルクテリ族の若い女で、ゲルマン民族による西方支配は、ローマ軍を破滅させれば成就すると予言した。

 レヌス河防衛線を破壊したキウィリスにとっては、神のお告げのように聞こえたかもしれない。


 キウィリスがゲルマニアを手中に収めた頃、皇帝位の対抗者を全て制したウェスパシアヌスは、右腕であるムキアヌスをローマに送り、地歩を固めていた。


 ローマの食と安全を守る責務を持つ皇帝にとって、ガリア帝国の存在は放置してはおけない。ムキアヌスは九個軍団もの軍勢を集めて鎮圧軍を編成すると決める。


 この鎮圧軍の司令官が、コレティアの父ケリアリス及びガルスという、戦闘経験の豊かな二将である。


 普段の戦争なら、軍団兵と同数の補助兵が動員されるが、今回の反乱鎮圧に際しては、軍団兵のみで鎮圧軍が編成された。

 補助兵はいないが、ローマ軍の主戦力である軍団兵の戦闘能力は、反乱者達を圧倒した。


 レヌス河口を目指して進軍するケリアリスに対し、反乱者達は退却しつつも応戦した。


 ゲルマン人は戦場に妻子を同行させる慣習がある。ローマ軍との戦いの中で、キウィリス以外の主要な反乱者達は戦死し、キウィリスの家族もローマ軍に捕えられた。


 追い詰められたキウィリスは、ケリアリスに会談を申し入れた。

 キウィリスとケリアリスの会談により、反乱は終結を迎える。


 ガリア帝国は瓦解。

 バタウィ族を始めとして、反ローマに起った部族は、反乱の首謀者を除いて、何も咎め立てされなかった。


 反乱など最初から起きなかったかのように、全てが反乱前に戻ったのである。


 一年にも及ぶ内乱を治め、皇帝となったウェスパシアヌスが、ゲルマニアの反乱に対しても、他の敵に対しても、報復ではなく、寛容クレメンティアを基本に戦後処理を行ったためだ。


 バタウィ族の族長の座を追われたものの、処刑を免れたキウィリスの行方は、反乱から十年が経った現在でも、ようとして知れない。


 ウェレダは二年前に捕えられ、首都に護送されたと噂で聞いていた。

 にもかかわらず、再び反ローマの陰謀を企てている事態から考えるに、官憲の目を逃れ、自由を得たのだろう。


 ウェレダが陰謀に携わっているのなら、キウィリスも参加しているのだろうか。


 どちらにしろ、俺にはケリアリスの昔話に付き合っている暇はない。

 十年前の反乱についてなら、俺だって、嫌というほど、体に刻み込まれている。


「ルパス! ポピディウスが心配なのはわかるけれど、落ち着いてちょうだい」


 返事もせず、今にも走り出しそうな勢いで歩く俺の隣に並んで、コレティアが気遣わしげな声を上げる。声に非難の響きはない。


「落ち着いているさ。今だって、どうすれば早くローマへ帰られるか、考えている」


 半分は嘘だ。

 一刻も早くローマへ帰る方法を考えているのは事実だが、落ち着いているわけじゃない。


 ウェレダの名を聞いては、冷静でいられない。

 これ以上、心の奥底から忌まわしい記憶が洩れ出さないように、ローマへ戻る方法を考えて、頭の中から雑念の入り込む余地を一掃しようとしているだけだ。


 航海の季節は、もう終わりだ。

 風と波が荒れる危険な海に漕ぎ出すよりは、遠回りになるが、陸路を旅した方がいいだろう。

 海の藻屑もくずになるのは御免だ。

 それに、船旅よりも、馬を走らせる陸路の方が、体を動かす分、余計な物思いにわずらわされずにすむ。


「今からローマへ帰るのなら、陸路しかないわね。一刻も早く、ローマに戻るなら……」


「もう、あんたには関係ないだろう。放っておいてくれ」


 俺の隣に寄り添うように従いてきながら、旅の算段をするコレティアに、俺は冷たく吐き捨てた。

 コレティアが眉を吊り上げて、俺の顔を真っ直ぐ見上げる。


「そんなわけにはいかないでしょう。グレースムの正体を調べるように、ポピディウスをきつけたのは、私なんだもの」


「実際に行動に移すかどうかを選択したのは、ポピディウス自身なんだ。ポピディウスに何かあったとしても、あんたを恨みやしない」


 反射的に言い返した瞬間、胸の奥が、刃で貫かれたように、ずくりと痛んだ。


 俺は、最低だ。ウェレダの名前に動揺して、ポピディウスの心配まで、気が回っていなかった。


 ポピディウスは無事だろうか。

 もし、グレースムの正体を知ったと悟られたら、ただでは済むまい。命を失う危険すら、大いにある。


 俺の頭の先から爪先まで、悪寒が駆け抜ける。

 家族と疎遠になった今、ポピディウスは、俺が心を許す唯一の親友だ。


 俺は、先程の軽食堂の壁に描かれていたテュケーの姿を思い出していた。

 神に祈りたいと思ったのは、何年ぶりだろう。


 テュケーは幸運の女神だ。

 どうか、テュケーがポピディウスに微笑んでいるようにと、俺は心の底から願った。


 あれだけ何人もの女に振られ続けているポピディウスなんだ。女神の一人くらい、奴に微笑んだって、誰も文句を言うまい。

 もし文句を言う奴がいたら、俺が拳をお見舞いしてやる。


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