6 琥珀の女の名


 俺とコレティアは、神殿の側の小綺麗な軽食堂ポピーナへ入った。


 俺一人きりなら、汚い安食堂で十分だが、コレティアが一緒では、変な店には入れない。

 腐りかけの肉でも食べて腹を壊されては堪らないし、薄汚い格好の男達ともめ事を起こされても困る。


 今の俺には、コレティアを守る義務はないが、コレティアはシリア総督の娘だ。 何かあったら、ただでは済まない。総督の不興を買う愚行は、俺も避けたい。


 軽食堂の壁には、アンティオキアの守護女神であるテュケーがモザイクで描かれていた。


 俺は、カウンターの向こうの主人に、石榴ざくろとコレティアの分の葡萄果汁を注文すると、壁に近いテーブルに腰掛けた。


向かいに座ればよいのに、コレティアがわざわざ俺の隣に座る。ポピディウスの手紙を横から覗き読む気を、隠そうともしない。


「お待たせしました。どうぞ」


 コレティアの美貌を近くでじっくり拝みたかったのだろう。食堂の主人が、わざわざ自分で注文の品を持ってくる。


 去り際、心底、うらやましそうな視線を俺に走らせた。

 だが、こっちは好きでコレティアの隣にいるんじゃない。可能なら、替わってやりたいくらいだ。


 コレティアが、一緒に手紙を読もうと、体を寄せてきた。コレティアがいつもつけている薔薇の香水の香りが鼻へ届く。


「ポピディウスはなんて書いてきているのかしら。早く開けてちょうだい」


 飲食物には目もくれず、コレティアが俺を催促する。


「グレースムに失恋した愚痴が延々と書かれていても、知らないぞ」


 苦笑いしてコレティアをいさめたが、手紙の内容が気になるのは俺も同じだ。


 俺はパピルスの巻物を開けようとした。安いものでもないのに、ろうの封印がいやに厳重だ。


 ポピディウスらしくない。何か、嫌な予感がする。


 巻物を広げると、初等学校ルードゥス・リテラリウスの頃からちっとも上達していないポピディウスの、更に、いつもより乱れた字が飛び込んできた。



◇ ◇


 親愛なるルパス。元気にしているだろうか。


 大変な事実を知ってしまったから、急いで君に手紙を書くよ。僕は、知ったんだ。グレースムの本当の名前を。


 全く偶然の出来事だった。

 今日、僕はグレースムへの贈り物の琥珀の首飾りを持って、占いに行ったんだ。けど、勇気が出なくて、首飾りを渡せないまま、別れてしまって……。


 でも、帰り道の途中で、引っ込み思案のままじゃいけないと思って、引き返したんだよ。


 いつも応対してくれる奴隷の子がいなかったから、勝手に家へ入ったんだ。僕が帰る時には待合室には誰もいなかったし、グレースムが一人なら、いい機会だと思ったからね。


 でも、グレースムの部屋には、先客がいたんだ。

 ゲルマンなまりの男の低い声が聞こえて、ひょっとして、グレースムの恋人かもしれないと思ったら、いても立ってもいられなくなって……。二人の話を立ち聞きしたんだ。


 二人は、最近、ローマに広まっている、アグニの噂について話していた。


 「噂は、よく広まっている。計画は順調だ」って。


 僕、危険な話を聞いてしまったと思って。それで、そっと逃げようとした時、男がグレースムの名前を呼んだ声が聞こえたんだよ。


「ウェレダ」って。


 ねえ、どうしよう、ルパス。もし、本当にグレースムがウェレダだとしたら。

 だとしたら、彼女は……。


 信じたくない気持ちでいっぱいだけれど、大切なことだから、急いで君に知らせるよ。


 ルパス。僕はどうしたらいいんだろう。


 グレースムと男は、計画は順調だと話していた。計画って、何だろう。アグニの噂と何か関係があるんだろうか?


 嗚呼、もう何が何だか、わからないよ。

 ルパス、君がローマにいてくれたらいいのに……。


 君の友、ポピディウスより。

 ユピテル神よ。どうか、この手紙が、無事にルパスの元へ届くようにお守り下さい。


◇ ◇



 ポピディウスの手紙を読んだ俺は、呼吸すら忘れていた。またたきもせず、手紙の一点を見つめる。


 ウェレダ。

 まさか、十年が経った今、再びウェレダの名前を聞く羽目になるとは。


 頭の中を、様々な景色が回る。


 ゲルマニアの短い夏。

 黒と見紛うような深い森。

 ときの声。

 投げ槍ピルムの煌めき。

 激しい剣戟けんげき

 仲間達の死体。

 カストラ・ウェテラ。


 とうに癒えた脇腹の古傷が、熱を持ったようにうずく。


「ルパス。手紙が破れてしまうわ」


 コレティアの静かな声で、俺は我に返った。


 パピルスに変な皺が寄るほど、手に力がこもっていた。

 握り締めすぎた拳は、骨が白く浮き出ている。


「大丈夫? 顔が真っ青よ」


 コレティアが気遣わしげに俺を見上げる。


「ああ、大丈夫だ」

 狼狽うろたええる気持ちを振り払おうと、ことさらに強い声で答える。


 こんな所で悠長に石榴なんか食っている場合じゃない。


 俺は手紙を巻くのももどかしく、急いで立ち上がった。

 放り投げるように主人に金を払って軽食堂を出る。


 走りたいのに、気が急いて足がうまく動かない。

 まるで膝まで泥水に浸かっているみたいだ。


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