4 そろそろ自由になりたいのですが


 ケリアリスは低く唸る。


 皇帝領エジプトには、ローマ軍は一個軍団しか駐屯していない。

 もし、一個軍団で対応できない事態がエジプトで起きれば、シリア総督であるケリアリスがシリア駐屯の軍団を率いて出陣しなければならない。


「しかも、お前達の話が本当なら、ユダヤ人とパルティア人が裏で手を組んでいる可能性がある」


 呟いたケリアリスの声は苦い。

 東方でパルティアが挙兵し、アレクサンドリアやユダヤ地方でユダヤ人が反ローマに起てば、シリアは東と南、双方の敵に対峙せねばならない。


「カッパドキアには二個軍団が駐屯しているが、ダキアのゲルマン人が不穏な動きをしているという話も、耳にしているしな」


 カッパドキアは、シリアの北に位置する属州だ。

 ケリアリスの言葉に、スープ用の銀の匙を置いたコレティアが眉をひそめた。


「ダキアで、アルミニウスや、キウィリスのような人物が現れたのですか?」


 総督官邸の質のよい葡萄酒を味わっていた俺は、急に杯の中が泥水に変わったような気分になった。


 レヌスライン河がローマ帝国の北の防衛線なら、ダキアを流れるダヌビウスドナウ河は北東の防衛線だ。

 両河川の対岸にはゲルマン民族が暮らし、豊かなローマに侵入して略奪する機会を虎視眈々こしたんたんと狙っている。


 ローマ帝国の平和は、いかにして蛮族の侵入を防ぐかに懸かっていると言っても、過言ではない。


 部族ごとに暮らし、互いの力や利害関係を重視する為、反乱を起こしても、なかなか共闘が続かないゲルマン人だが、時折、有力なリーダーが現れて、幾つもの部族を纏め、組織的な反乱を企てた過去がある。


 アルミニウスはローマ暦七六一年(紀元九年)に、キウィリスは十年前の内乱の年に、それぞれ部族を率いて反ローマに起ったゲルマン人だ。


「噂では、ダキアのゲルマン人達をまとめようとしている人物がいるらしい。だが、まだどんな奴かは全然わかっておらん。マルボドゥウスのような人物なら、いいのだがな」


 ケリアリスの顔も、俺と同じく泥水でも飲んだように苦い顔をしている。


 マルボドゥウスとは、ティベリウス帝の時代の人物で、ダキアで勢力を持つマルコマンニ族の長だった男だ。


 少年時代を首都で暮らしたマルボドゥウスは、長じてマルコマンニ族の族長となった後も、ローマと友好条約を結び、決して反ローマに起たなかった。

 少年時代の経験から、たとえ一時、ローマに勝ったとしても、最終的には、国力の差でローマが勝利を収めると考えていたのだろう。


 実際、ローマは過去に何度も蛮族に攻められたり反乱を起こされたりしているが、レヌス河とダヌビウス河の防衛線は死守している。

 特に、アドリア海を渡れば、すぐにイタリア半島へ上陸できるダヌビウス河の防衛は、ローマ帝国の生命線と言ってよかった。


 パルティアと戦端を開く可能性がある上に、ダキアでも蛮族の不穏な動きがあるというケリアリスの苦悩は、察するにあまりある。


 文化の成熟度も社会形態も、まるで似たところのないゲルマン人とパルティアだが、共通している点は、いざ戦争となった際には、何万という大軍を率いてくる点だ。


 ローマ軍一個軍団は、軍団兵六千人と同数の補助兵を合わせて一万二千人である。戦争となっても、基地の防衛に一部は残して出陣するので、実際の動員数は三分の二という人数だろう。それでは、明らかに数で劣る。


 相手が大軍の場合は、近隣の属州に駐屯する軍団の一部を召集して、人数を整えるのがローマの戦法の常である。パルティアが相手なら、動員される軍団は、エジプトとカッパドキアに駐屯している軍団だろう。


 だが、もし同時期にダキアで蛮族の進攻が起これば、カッパドキアの二個軍団は、ボスポロス海峡を渡って、ダキアへ動員される可能性がある。

 加えて、もしユダヤで反乱が起これば、そちらの鎮圧にも軍団を派遣しなければならない。


「もし、本当にパルティア人とユダヤ人が手を組んでいるなら、お前達が調べている陰謀は、帝国を揺るがす規模かもしれないな」


 眉を寄せてケリアリスが呟いたところで、主菜が運ばれてきた。

 大きな皿に載った子豚の蒸し焼きだ。できたてらしく、湯気が立っている。


 子豚の腹の中には、鶏肉の団子や炒めたリーキ、松の実やデーツの実等が詰められていた。手の込んだ一品だ。葡萄の果汁を煮詰めたシロップに、魚醤ガルムや胡椒、蜂蜜を加え、小麦粉でとろみをつけた、甘めのソースがよく合う。


 奴隷につがせた葡萄酒の杯を手に、ケリアリスは健啖けんたんぶりを披露する娘を見やった。


「お前達から聞いた陰謀については、わしも部下に調べさせよう。捨て置ける話ではないからな。だが、わしに任せて危険な陰謀には手を出すなと言っても、聞かないのだろうな」


 ケリアリスがコレティアを眺めて苦笑する。コレティアは華やかに微笑んだ。


「もちろんですわ、お父様」

 ケリアリスは諦めの溜息をつくと、葡萄酒にほろ酔いになっていた俺に頭を巡らせた。


「ルパス。すまんが、コレティアをよろしく頼む」


 俺は思わず、葡萄酒を吹き出しそうになった。

 総督の前で、そんな失礼な真似はできない。


 慌てて飲み下すと、抵抗を試みた。


「総督。申し訳ありませんが、わたしがフラウィア様から請け負った仕事は、お嬢様をアンティオキアまで護衛することだけでして。無事、閣下の元へ送り届けた今、わたしもそろそろ自由になりたいと思うのですが」


 最後は、つい、本音が出てしまった。


「なあに、報酬の件なら心配するな。ルパス、君の実力は高く評価している」


 ケリアリスは気さくに笑って、あっさりと告げる。


 ケリアリスもフラウィアも、金払いは極上の依頼人だ。貧乏人の俺にとって、金払いのいい依頼人は大事だ。

 だが、もっと大切な問題だってある。


「評価していただくのは有難いのですが、閣下。問題は、そこではなく……」


 ただで豪勢な夕食を食べさせてもらっている最中に切り出すのは心苦しいが、ここで引いては、自由は遠のくばかりだ。


 俺はささやかな抵抗を続けようとする。

 が、ケリアリスの視線はもう、コレティアに移っていた。


「ところで、コレティア。フラウィアが引き合わせた求婚者の、どこが気に入らなかったんだ? 皆、立派な青年だったんだろう?」


「身分だけは、ね」


 ケリアリスの問に、子豚の蒸し焼きに手を伸ばそうとしていたコレティアは、手を止めて、思い切り顔をしかめた。


「全員、元老院議員の息子で、将来は自分も元老院に入るつもりでしょうけれど、てんで駄目なの。誰一人、私の蹴りを避けられないんだもの」


「蹴り倒したのか?」

 ケリアリスが、今にも吹き出しそうな顔で、コレティアに尋ねる。


「ええ、全員」


 コレティアは自慢する様子もなく、淡々と頷く。

 ケリアリスはわはは、と大笑した。


「そうかそうか。さすが、わしの自慢の娘だ。わしも雄姿を見たかったぞ」

「あら、お父様の御要望なら、いつでも」


 コレティアがあでやかに微笑む。

 フラウィアがこの場にいたら、「笑い事ではありませんよ」と、口調だけは真面目に、しかし目は笑って注意していただろう。


 だが、あいにくとフラウィアは、ローマで家を守っている。

 仕方なく、俺は口を開いた。


「閣下。喜んでいらっしゃるところ、申し訳ありませんが、お嬢さんと婚約する条件は、彼女の蹴りをかわせる男性だそうでして」


 フラウィアから預かってきた巻物を、ケリアリスに手渡す。中にはコレティアがローマを旅立つ羽目になった顛末てんまつが書かれているはずだ。


 案の定、手紙を読んだケリアリスは大笑いした。デザートを運んできた奴隷が、驚いた目で主人を見ている。


 デザートは、山羊の乳に漬けて練った小麦粉を丸め、串で穴をあけて蜂蜜に漬けてから、ピスタチオを飾った菓子だった。ピスタチオは味だけではなく、緑で、見た目も綺麗だ。


「あら、おいしい」

 コレティアが年頃の娘らしく、嬉しそうな顔で二つ目の菓子を手に取る。


「気に入ったのなら、わしのも食べるといい」

 娘に甘いケリアリスが、自分の器をコレティアの前へ押しやる。コレティアは遠慮なくそちらにも手を出した。


「で、求婚者に対する条件は、甘くはならんのか?」


 機嫌を取った娘の顔を見つめ、ケリアリスはさりげなく尋ねる。

 ケリアリスの器から取った菓子を手に、コレティアは形の良い鼻をつんと上げた。


「私より弱い男と結婚する気は、ありません」


 きっぱりと宣言する。逆に父親を見つめ返すと、コレティアは甘えるような声を出した。


「お父様も、私に意に染まない結婚をさせたりしないでしょう?」


「あ、ああ。それは、もちろんだが……」

 娘の視線に、ケリアリスは慌てて頷く。


 フラウィアは、ケリアリスにコレティアを説得させると言っていたが、駄目だ。


 フラウィアも娘に甘いが、ケリアリスは輪を掛けて甘い。この様子じゃ、説得なんて不可能だ。


 だが、一応、務めを果たす気はあるらしい。ケリアリスはコレティアへ、さりげなく話しかける。


「どうだ、わしの部下の大隊長トリブヌスにも、なかなか見所がある青年がいるんだが、一度、一緒に晩餐ばんさんでも……」


「もちろん、蹴っても、よろしいですよね?」


 すかさずコレティアが尋ねる。

 うむ、と頷きかけて、ケリアリスは急いで首を振った。


「いや、いかん。晩餐はまたの機会にしよう。今の時期に、万が一でも士気が落ちる可能性がある事態は、総司令官として認められん」


 ケリアリスは厳しい顔で告げる。

 つまり、自分の部下も、コレティアの蹴りを避けられないかもしれないと不安を抱いているわけか。


 俺は葡萄酒の杯の陰で、こっそり苦笑いした。この調子では、コレティアはまだしばらくは結婚などしないだろう。


 コレティアの尻に敷かれる不幸な男を作らない為には、よい兆候かもしれない。


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